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お念仏を申す生活法話

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「木像よりは絵像、絵像よりは名号」

2021-10-25
 蓮如上人のお言葉に
「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」
とあります。

 浄土真宗のご本尊です。
三つのおすがたがあります。
 お寺のご本尊はお木像の阿弥陀如来さまです。
皆さんのお家のご本尊はお木像もありますが
絵に描かれたご絵像の阿弥陀さまです。
 もう一つのおすがたが
南無阿弥陀仏のお名号のご本尊です。

 三つありますと
どれが一番いいんですかと聞かれます。

 蓮如さまのお言葉を改めていただきますと
浄土真宗以外の他流のご本尊は
「名号よりは絵像、絵像よりは木像」といわれます。

 この目に見えるお木像やご絵像の
仏さまのお姿をおがむことによって
仏を念じ、仏を見て、仏に遇うといいます。
 ですからより具体的なお姿である
お木像が一番いいのです。

 ではどうして蓮如さまは
「木像よりは絵像、絵像よりは名号」と
言われたのかということです。

 この部分だけ切り取って
浄土真宗のご本尊は本来お名号なのに
お寺のお木像やお家のご絵像の阿弥陀さまは
間違いで偽物だと言われる方がいますが
この三つのご本尊のおすがたは共に
阿弥陀さまのおはたらきを表すものなのです。

 「どんなことがあってもあなたを必ず救う
我にまかせよ」と南無阿弥陀仏のみ名になって
くださったおはたらきです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきが私に届けられて
この口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださるのです。

 阿弥陀さまはどこに?と聞かれて
この目で見たらお木像やご絵像のおすがたですが
そのお心おはたらきは南無阿弥陀仏となって
もうすでに私のところに届いていますよと
名号本尊の尊さを言われたのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.25)


「一度のたしなみが一期のたしなみなり」

2021-10-24
  蓮如上人のお言葉です。

 「一度のちがひが、一期のちがひなり。
一度のたしなみが、一期のたしなみなり。
そのゆへは、そのままいのちをはれば
一期のちがひになるによりてなり」です。

 ちがひとはあやまちということで
私たちは他の人のあやまちは中々許しませんが
自分のことになると
「人間一度や二度はあやまちはするものだ」と
いとも簡単に許します。

 蓮如さまは先のお言葉で
<一度のあやまちが一生のあやまちになることがあるといい
 反対に、一度心がけたたしなみが一生のこころがけとなり
 たしなみになる>といい
<一度あやまちをおかしたまま寿命が尽きれば
 そのあやまちをやり直すこともできず
 取り消すこともできないから
 一生のあやまちになる>と教えてくださるのです。

 大変厳しい思し召しですが
お言葉の中に
「一度のたしなみが一期のたしなみなり」
とあります。

 たしなむということは蓮如さまのお言葉の中に
再々でてまいります。
 お念仏を申す身にさせていただき
お念仏をたしなむ生活をさせていただくということです。

 お念仏申す身にさせていただく一度のたしなみが
そのまま一期のたしなみになるというのです。

 縁があれば何をしでかすか分からないこの私に
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでもご一緒してくださるのです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきで
煩悩具足の凡夫の身を生きる私を
そのままお念仏を申す身にさせてくださり
この人生を生き抜かせていただきます。

 そしてこの命終えますが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
そのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただき
阿弥陀さまと同じ南無阿弥陀仏のおはたらきの
仏さまに成らせていただくのです。

 何もかもが阿弥陀さまのおはたらき一つで
お念仏をたしなむ身にさせていただくと
私がどうこうといって取り消しがつきません。

 阿弥陀さまのおはたらきにおまかせするそのままで
必ず救うてくださるのです。

 自分の一度のあやまちが
他の「いのち」をどれほど傷つけ損なってきたかと
思いを致し
お念仏にたしなむ生活の中で
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.24)


「わが妻子を勧化せぬは、あさましきことなり」

2021-10-23
 蓮如上人のお言葉です。

「わが妻子ほど不便なることなし。
これを勧化せぬは、あさましきことなり。
宿善なくばちからなし。
わが身ひとつ。
それを勧化せぬものがあるべきか」です。

 私たちは家族と共に日々生活をしています。
親であったり妻や夫、子や孫、兄弟姉妹という
いつも自分の身近にいる家族のことが気になります。

 私たちは他の誰よりも
わが家族の幸せを願って生きています。
 この願いを実現するために
お金や物を提供さえしておればと思っているならば
それは的外れです。

 生活する上でお金や物は確かに大切なもので
家族のことを大事に思うからこそなのですが
蓮如さまが言われるのは
お金や物はいつかは無くなる当てにならないもので
確かな生きる依りどころにはならないというのです。

 それより大切なものは
世の中がどう変わろうが
この身の上に何が起ころうが
ビクともしない確かな「いのち」の依りどころです。

 それは南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われる
お念仏のみ教えだよと勧めてくださるのです。

 家族を不便に思ってお念仏を申せよと勧めても
自分自身がお念仏をよろこび申す身にならなかったら
一番身近で私を見ている家族は
口先だけのことかといぶかしく思い
真剣に仏法聴聞する気にならないことにもなるでしょう。

 蓮如さまのお言葉のお心です。
「本当に妻子を思うならば妻子にみ教えを勧めるべきです。
それをしないほど悲しいことはありません」といわれて
「そのためにもまず自分自身が
み教えに遇わせてもらうことが何より大切です」
と教えていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.23)


「わかきとき、仏法はたしなめと候」

2021-10-22
 蓮如上人のお言葉です。

 「わかきとき、仏法はたしなめと候。
としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。
ただわかきとき、たしなめ」と
よくお寺のお話で引用される有名なお言葉です。

 仏法は若い時にたしなめと聞いて
年輩の方が「若い時に聞いておけばよかった」と
歳をとったらもう遅いとでも受け止めたのでしょうか。

 若い時というと、すぐ年齢のことを思って
20代30代の時と思うのでしょうが
若い時といって今なのです。
今ほど若い時はないのです。

 過去の時を思っても
若い年齢の私に返ることはできないのですから
どうしようもないことです。

 仏法に遇うのは早ければ早いほどいいです。
若ければ若いほどいいのです。
 だからといって
年老いたものは仏法を聞く必要がない
ということではありません。

 阿弥陀さまのご本願のおはたらきがすごいのは
若い時も老いた時も健康な時も病気の時も
私がどんな状況にあっても
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏となって
私とご一緒してくださる仏さまに成ってくださったのです。

 確かに歳をとると
足が痛くてお寺に参れない
参っても足が痛くて座れない
座っても居眠りが多くなります。

 そうしたことからも
一時も早く仏法聴聞のご縁に遇ってほしいとの
蓮如さまのお勧めといただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.22)


親鸞聖人の御罰

2021-10-21
 私たち複数の人間が社会生活をしていると
どれほど仲のいい人間関係でも
時にはぶつかることがあります。

 人人の思いはそれぞれ違います。
だからぶつからない方がかえって問題で
ぶつかることでお互いの胸の内がわかり
理解を深めることにもなります。

 ただぶつかった後で
自分の悪かったところを素直にあやまらないばかりに
人間関係がこじれてしまうこともあるようです。

 私たち人間のやることに
一から十まで正しいということもなければ
一から十まで間違っているということもないのですが
自分の非は認めず相手の非を責める私たちがいます。

 蓮如上人のお言葉に
「たれのともがらも、われはわろきとおもふもの
ひとりとしてあるべからず。これしかしながら
聖人の御罰をかうぶりたるすがたなり」
<誰も自分が悪いと思うものはいないというのは
 親鸞聖人から罰を受けているすがたです>
とあります。

「親鸞聖人のお念仏のみ教えに遇って
自らを振り返る目を恵まれたら
このようなことにはならないだろう」と
蓮如上人は厳しく教えてくださったのです。

 人と人との関係はお互い相手に向き合う時もあれば
背中合わせになる時もあります。
 お念仏のみ教えに遇って
私たちは共々に阿弥陀さまの大悲の中に
生かされていることを聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.21)


円光寺
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