「この道をゆっくり一緒に往きましょう」
2021-12-19
大阪のビルで起こった放火事件の続報です。
49歳の院長先生の安否が不明ですが
その人となりを偲ぶ声がたくさん寄せられています。
皆さん「優しい良い先生だった」と言われます。
仕事で悩みを抱える人たちの声を
真摯に聞かれて治療や相談に応じていたといいます。
人気のクリニックで
多い時は開院前から行列ができていたということで
火災があった金曜日は「リワークプログラム」があり
職場復帰をめざす多くの人が来院していたといいます。
「こころとからだのクリニック」です。
からだのことは診断して大方のことが分かりますが
こころのことは見えるものではなく
体の症状と合わせて地道に聞き取っていくことです。
分かろうとしても分からないことが多く
分かったつもりで分っていないこともあって
「分からない」というのが本当のことです。
それぞれ体も違い心も違うなかに
ストレスもたまり苦悩する人に対応していくのです。
よく話を聞いてくれたといいます。
人それぞれにものの見方考え方が違いますから
何か会話の中でちょっと気に入らないことがあったら
言い返したり無視するのがこの私です。
自分の主義主張を伝えたいという思いがあります。
それを何か振りかざすように
相手を押さえつけるようなところが
この私のなかにあります。
よく「頑張らないからこんなことになったんだ」と
自業自得と自己責任を厳しく問い
もっと頑張ればよかったのにと言われますが
治療に来た人は頑張れないんですね。
頑張りたくても頑張れない。
深く暗い心の闇をとことん聞いていかれた
先生だったと思います。
この前お話しましたが
頑張れ頑張れと言って
頑張れないのは救われないと言うのは
相手を責めることです。
苦しみを増すことでしかありません。
宗教でいったら「裁きの宗教」というお話をしました。
私たちの浄土真宗は阿弥陀さまのお慈悲のお救いです。
すべてのものを分け隔てなくそのまま受け入れ
救うてくださる阿弥陀さまのおはたらきです。
頑張る人も頑張れない人も頑張りたくない人も
すべてあなたをそのまま受け入れ救うのです。
クリニックに通っていた人たちが
「ここは私の唯一の居場所だった」
「先生に会うとほっとした」と言っていました。
昨日も申しました。
お寺ということと重ねて思います。
お寺が私の居場所になり
お寺に来るとお同行の皆さんに会えてほっと安心できる
そういうお寺になっているかという問いかけでもあります。
その先生のアドバイスで仕事に復帰した人が
先生が「これからはゆっくり行きましょう」と
声かけをしてくださったと言います。
「この道をゆっくり一緒に往きましょう」と
南無阿弥陀仏のお心といただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.19)
こころとからだのクリニック
2021-12-18
大阪駅近くの繁華街のビルで火災があって
24人の方がお亡くなりになりました。
放火事件と伝えられます。
狭い敷地にすっと高い6階建てのビルです。
いろんな店舗が雑居する
大分でもよく見かける機能的な構造のビルですが
今回の火災では
エレベーターと非常用階段がある入口付近からの出火で
逃げ場がなかったということです。
黒煙があっという間に部屋中に広がって
殆どの方の死因が二酸化炭素中毒で
一呼吸二呼吸の間に意識がなくなって
大きな火傷をした方はいないといいます。
現場はビルの4階にある心療内科の
「こころとからだのクリニック」です。
病院というと体の不調を治療してもらうところですが
今は心療内科という心の病を治療する病院が多くあります。
先日精神的なメンタルコントロールの話をしましたが
心と体のバランスがうまく行かないのが
この生身の人間です。
私もこれまでの体験で思い当たることがありますが
メンタル面で仕事をする意欲をなくして職場を離れ
仕事に復帰しようとしても中々うまく行かないことです。
何とか頑張らなければと頑張ろうとすればするほど
思うような成果にならなくて
増々苦しみ悩みの負のサイクルにもがくということです。
心療内科のお仕事を
お寺ということで思います。
お寺は仏さまの教えを伝え聞くところです。
仏教は死んでから後の教えではありません。
死後のこともお話しますが
仏さまの教えは今聞かせていただく教えです。
お釈迦さまは仏教を開かれました。
仏教は苦悩する私が迷いを離れて
さとりの仏に成る教えです。
私たちがこの身に抱える苦悩は人人それぞれ違い
仏さまの教えを聞いたから
すぐ苦悩が解決するという問題ではありません。
仏さまと私の一対一のご縁ですが
教えを伝えるお坊さんと皆さんが
御仏前に共々に向き合い
仏さまのみ教えを聞かせていただくなかに
生きるヒントが見つかればと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.18)
「往生の体は南無阿弥陀仏なり」
2021-12-17
天気予報で今日から明日にかけて
急に寒くなるといいます。
先日「ためしてガッテン」のテレビで
天気予報士の方が面白いことを言っていました。
天気予報はするが
百%その通りにはならないというのです。
私たちは朝昼晩と一日に何回も
テレビで天気予報を観ます。
テレビで効果的に観せるために
この視覚にわかりやすく見せるのです。
天気予報といって
私たちはテレビで晴れであったり曇りであったり
雨のマークを見ているのです。
ところが天気予報士の方は
そこにコメントを言っているのです。
晴れのマークでも
「夕方にわか雨が降るかもしれません」とか
微妙な言い回しでコメントしているのですが
私たちは大方天気予報を観ているのです。
天気予報を観て気象庁に
「天気予報が間違っている」などと
苦情が寄せられるそうです。
天気予報はあくまでも予報で
予報通りになることではないのです。
予報が間違うのではなく
天気が変わるのです。
5年前広島で起こった集中豪雨では
当日の予報は曇りだったそうですは
線状降水帯が急に発生して
大変な被害をもたらしたように
天気が変わるのです
お釈迦さまが説かれた諸行無常の真理です。
すべてのものは刻一刻と変わって行くということです。
これはお釈迦さまが生まれる以前からの道理で
それからもずっとそして今もそうなのです。
真実あるがままの本当のことです。
ところが私たちのものの見方は自己中心にものごとを見て
あるがままに見ることができないのです。
いや見ようとしないのです。
この命いつか必ず終わると聞いて本当のことですが
自分のことと見ようとしないのです。
今は若くて健康でも
老いて行き病気にもなり
どんなに地位や名誉財産を築いた人も
この世の中で当て頼りにできるものは何一つない
諸法無我の道理で
何一つ持たずに命終えて行くのです。
諸行無常諸法無我の迷いの世にあって
涅槃寂静のさとりを開く道を聞いてくれよと
お釈迦さまは仏教を開いてくださり
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
どんな人も救われる浄土真宗のみ教えを
親鸞さまは私たちにお勧めなのです。
いつまでも健康で長生きしたいと思っても
ままならない苦悩多い人生ですが
人間に生まれて仏さまのみ教えに
遇わせていただける有難さです。
今日の御文章さまの最後に
「われら一切の衆生の往生の体は
南無阿弥陀仏ときこえたりなり」とありました。
阿弥陀さまの真実信心を聞かせていただき
お念仏申す身にさせていただきましょう。
お念仏申してこの人生を生き抜いて
そのまま阿弥陀さまのお浄土に往生させていただける
南無阿弥陀仏のおはたらきの頼もしさです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.17)
「ふざけんな」
2021-12-16
昨夜のニュースで
森友問題に関する財務省の文書改ざんで自殺された
近畿財務局職員の妻が国に損害賠償を求めた裁判で
国側が責任を全面的に認めて結審したといいます。
妻の会見がすごかったです。
「ふざけんなと思いました」と怒りを露わにし
「夫は国から何回も殺され今回も殺された」と
やるせない無念の気持ちを嘆きました。
約一億円の損害賠償をそのまま払うといいますが
妻は「夫が何故死ななければいけなかったのか」
その真相が知りたいということなのです。
金目当てにとお金を払えば済む問題ではないことは
被告の国の関係者も誰がみても
よくわかっていることなのに
何故?です。
本当のことが知りたいのに
本当のことを隠して
一体何を誰を護ろうとしているのか。
自殺された赤木さんそして妻の権利は
これで護られているといえるのでしょうか。
何とも釈然としない思いが募ります。
人人それぞれの命です。
どの命もかけがえのない大事ないのちです。
どの命にも分け隔てなく真摯に向き合う姿勢こそ
為政者権力者の大事です。
このことはこの社会に共に生きる私たち
一人一人の問題でもあります。
真実本当のことを見ようとしないで
自分のその時々の都合でものごとを見ては
都合の善いことには味方して
都合の悪いことは無視し排除する姿勢です。
悪かったら謝ればいいんでしょう
お金あげたからもう関係ないでしょう
ということではないでしょう。
つながりです。
私たちはお互いに自分の都合に善くても悪くても
これからもどこまでもずっとつながってあるのです。
私の思いに関係なく
みんなつながっていると
仏教の縁起の法を聞かせていただきます。
善悪のつながりのなかに苦悩する私たちを見て取って
すべてのものを分け隔てなくそのまま救うと
阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされているお互いの命に向き合い
お念仏申して私にできる精いっぱいのことを
させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.16)
信心に導かれる人生
2021-12-15
昨日母がお世話になっている病院施設で
ケアマネさんをはじめヘルパーさん病院施設関係者
そして私と坊守の7人で話し合いがありました。
96歳になり歳を重ねていく中で
思うようなことができなくなって不安が大きくなります。
身体的な不安そして精神的な不安が
言動になってでてきます。
そうした状況を報告くださりお互いに確認して
現状に応じた提案をしてくださって
安心してこれからもお願いしますということです。
今は本当に福祉が充実しています。
一人の被介護者に何人ものスタッフが関わってくださる
システムができています。
私が小さい頃ご門徒のお家にお参りに行くと
大抵仏間の近くの間にお年寄りが寝ていました。
今は悪くなったらすぐ病院ということですが
当時は病院からお医者さんが往診にみえていました。
普段の生活の中で老いて病んで
そしてお家で亡くなっていかれました。
社会生活環境の変化で
老病死は非日常的なものになってしまいました。
ただこの老病死は今も昔も
他人事でなく我が身のことであることを
母のすがたを通して痛感します。
精神的なメンタルコントロールの難しさを
指摘されました。
コントロールするといって
我が身が思い通りにならなくなる中で
本当に難しいことだと思います。
「仏法に出遇った人生は信心に導かれる人生」
というご法話を聞かせていただきます。
信心をいただいた人の人生は
信心によってコントロールされているといわれ
信心をいただいていない人の人生は
煩悩にコントロールされているというのです。
毎日拝読の御文章は日替わりの繰り読みですが
「信心いただけよ」という
蓮如上人の思いいっぱいの私たちへのお手紙です。
お寺参りの目的は何といっても
この私が南無阿弥陀仏のお心を聞いて信心いただき
お念仏を申す身にさせていただくことです。
信心いただいたからお念仏申す身になったから
煩悩がなくなるわけではありません。
煩悩はどこまでもこの身についてまわるのです。
私自体が煩悩の塊です。
生きたいんです。
死にたくないんです。
この世の中のことをもっと楽しみたいんです。
苦しみたくないのです。
そうした煩悩をいっぱい抱えたこのわが身を
もうすでに思い取ってくださりそのまま救うと
阿弥陀さまがいつでもどこでもご一緒です。
南無阿弥陀仏のお慈悲のお心おはたらきの中に
煩悩だらけのこの身のままでお育ていただき
生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.15)