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お念仏を申す生活法話

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「仏法には明日と申すことあるまじく候。仏法の事はいそげいそげと仰せられ候なり」

2021-11-01
 11月になりました。

 10月からずっと藤田徹文先生の著書
『蓮如上人のお言葉』を順次拝読させていただきました。

 1998年に『蓮如上人五百回遠忌法要』がお勤まりで
その前の1992年に出版されたものですが
今読んでも色あせていません。

 1992年からではなく蓮如上人の時代
今から五百有余年前からです。

 蓮如さまのお言葉が直接聞こえてくるようで
今日の御文が最後になります。
「仏法のことは急げ」とタイトルがついています。

 私たちは人の世に生まれ今生きていますが
「何のために人間に生まれてきたのか」
「何のために生きているのか」という
人間存在の根本的な問いに
答えてくれるのが仏法なのです。

 人生の宿題といってもいい一大事ですが
私たちは日々生きることに精いっぱいで
人生の一大事をこれまで横に置いて
後回しにしてきたのではないでしょうか。

 食べるために働いて生きるのです。
忙しくて仏法を聞く暇がない
お寺参りはもっと歳をとってからの先の話と
思い定めていませんでしたか。
 その私が今ここ御仏前に座らせていただいているのです。

 蓮如上人は
「仏法には明日と申すことあるまじく候。
仏法のことは急げ急げと仰せられ候なり」と
おっしゃいました。

 仏法には明日はないというのです。
今日今ここを聞きなさいと言うのです

 私のこの命今ここを生きています。
私の予定表には12月のご法事の予定が入っていますが
その日まで元気で生きているかどうか
明日の命さえ誰もわからない
絶対大丈夫という保証はどこにもありません。

 ただ確かに分かっていることはただ一つ
私が今ここに生きているということです。
 ここ今この私を目あてに仏法
南無阿弥陀仏のおはたらきが届けられているのです。
 そのことを聞いてくれよ
そのことに目覚めてくれよというのです。

 今こここの私をそのまま
阿弥陀仏のお慈悲の光明の中に摂め取って捨てないと
南無阿弥陀仏のお救いの法です。

 「仏法のことは急げ」と
他力の信心をいただいて
お念仏申す身になっておくれと
蓮如さまのお勧めです。

 今日は10時から昭然前住職の23回忌の
祥月命日の御法座をお勤めします。

 22年前です。
お朝事の喚鐘をつく準備をしていたときに
往生の連絡が入りました。

 今日喚鐘をつきながら
「仏法のことは急げ急げ」と聞こえてきます。
 仏法を聞けよ
仏法を聞くためにこの人間に生まれて来たんだよとの
度重なるご催促です。

 今日もいつもの指定席に座らせてもろうて
皆さんとご一緒にお正信偈のお勤めをして
声高らかにお念仏申させていただけたことを
本当に有り難く思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.1)

「その籠を水につけよ。我が身をば法にひてておくべき」

2021-10-31
 「仏さまのお話を聞かせていただいても
聞かせていただいたことをすぐ忘れてしまいます。
こんなことでいいのでしょうか」という人がいます。

 蓮如上人の頃にも
そんなことを尋ねられた方がいらっしゃったようで
「我がこころはただかごに水を入れ候やうに
仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候が
やがてもとの心中になされ候」
<私の心は竹で編んだザルのようなもので
 聞いている時は「有難いお話、尊いご縁」と
 よろこばせていただきますが
 やがて、水がザルの隙間から抜けるように
 聞いた話がどこかに消えてしまいます>
と尋ねられたそうです。

 そのお尋ねに対して蓮如さまは
「そのかごを水につけよ。我がみをば法にひてておくべき」
<ザルのように隙間が多ければ多いほど
 そのザルごと水につけておけば
 水は内外ともにしたしてくれますよ>
と答えられたのです。

 忘れることを気にせずに
一度でも多くみ教えを聞かれることが大切ですよ
とのお諭しです。

 食事をする食べるということに
重ねて味わいます。

 私たちは毎日食事をして生きていますが
これまで食べたものを忘れたからといって
その栄養分が身につかないということではありません。
 食べたものを覚えていなくても
身につくものはちゃんと身についてくださっています。

 仏法の御座のご縁で聞かせていただく仏さまのみ教えは
私がしっかり聞いて覚えなくても
忘れてもいいのです。
 南無阿弥陀仏のおはたらきが
そのまま私の身についてくださって
この私の口から今日も南無阿弥陀仏とお念仏が
出てくださるのです。

 仏法の御座に座らせていただき
仏法聴聞させていただいて
お念仏を申す身にさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.31)


「物をいへ物をいへと仰せられ候」

2021-10-30
 蓮如上人のお言葉です。

 「物をいへ物をいへと仰せられ候。
信不信ともにただ物をいへと仰せられ候。
物を申せば心底もきこえ、又人にもなをさるるなり。
ただ物を申せ」
<黙っていると自分の聞き違いなり
 理解不足を直してもらうことができません。
 ものをいって、自分の意見を言い張るのではなく
 みんなに直してもらうことが、何ごとにつけても大切です>
と言われています。

 今もこうして皆さんにお話をさせていただいています。
一方的にといいますか、私が話し皆さんは聞く人です。

 通常私たちの日常の会話もそうですが
人の話を聞いて、それをどう受け止めるかは
その人人によって違います。
 話し手の思いがそのまま伝わっているかというと
中々そうは言い切れないところです。

 仏法という真実の教えのお話ですが
人が言葉をもって話すとそこにその人の思いが入って
聞き手からいうと聞き違いや不審も生じるのが
私たちの言葉の世界です。

 ものを言えというのは
不審に思うこと分からないことは
尋ねなさいというのです。

 ものを言えばその人の心底も明らかになるといいます。
分かったつもりになっているのが一番危ないのです。
 分かったつもりのことを言葉に出すことで
間違いを直されることにもなるのです。

 話し手も聞き手も私たちはみんな
同じ南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくのです。
 南無阿弥陀仏という畢竟依
生死の帰依処を互いに確かめさせていただくのです。

 蓮如さまが御文章さまにしたためられた
「聖人一流のご勧化のおもむき」です。

 日々の日暮らしの中で様々な困難にあうときも
南無阿弥陀仏とお念仏申して生きて往ける
私たちのお念仏のお救いのご法義です。

 「聖人一流のご勧化のおもむきは
信心をもって本とせられ候」と
今日も御文章さまに何度も何度も
他力の信心をお勧めです。

 この私を「必ず救うまかせよ」と阿弥陀さまの仰せに
「おまかせします阿弥陀さま」と信順して
南無阿弥陀仏とお念仏申して
今日の一日も生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.30)

「善知識にあひてとへば、徳分あるなり」

2021-10-29
 蓮如上人のお言葉です。

 「日ごろ、しれるところを
善知識にあひてとへば、徳分あるなり」
<わかったつもりになっているところでも
 重ねて尋ねることが大切です>と言われます。

 仏法聴聞させていただいて
分かった知っているというところも
重ねて尋ねることが大切であるというのです。

 分かっているつもりで自分の心におさめておくと
心得違いもあって直されることなく
全く異なる領解にでもなるということでしょう。
 重々気をつけて
気になるところは尋ねなさいというのです。

 そして続いて
「不知處をとはば、いかほど殊勝なることあるべき」
<だから分からないところを尋ねるということは
 どれほど素晴らしく大切なことかわかりません>
と言われたのです。

 私たちは人にものを尋ねることを躊躇しがちです。
こんなことを聞いて
「そんなことも知らないのか」と
自分の無知を笑われるとでも
思ってらっしゃるのでしょうか。

 不審なことを尋ねることで
不審が晴れれば心も晴れます。

 実は私の不審は私だけのことではなく
周りの皆さんも同じような不審をもっている
ことも多いのではないでしょうか。

 仏事のことは何でもお寺に相談してくださいと
再々言っていますが
お寺の敷居が高いと言われお寺にお参りすることも
お坊さんに尋ねることも難しいと言われます。

 今日の御和讃
「善知識にあふことも をしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ 信ずることもなほかたし」
<善知識(仏法を説いて仏縁を結ばせる人)に出会うことも
 その教えを説き伝えることも難しい。
 また聞くことも難しく、信じることもなお難しい>
に通じることです。

 ふっと思うところを
尋ねるところがある有難さです。
 
 阿弥陀さまのご本願のお心に聞かせていただき
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
今日一日もお念仏申して生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.29)


「仏法には無我と仰せられ候」

2021-10-28
 蓮如上人のお言葉に
「仏法には無我と仰せられ候。
我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」
とあります。

 仏教は三法印という根本的な三つの原理
旗じるしをかかげて
この世の中のことは
諸行無常(すべてのものは移り変わる)で
諸法無我(すべてのものには不変の実体がない)であるから
涅槃寂静(絶対安楽のさとりの境地)の滅度をこそ
求めなければならないと教えます。

 私たちは私が私がと自己中心に生きていて
何かにつけて「私がこうしてやった」と
「私が」を前面に出して
私の思い通りになれば満足するのでしょうが
思い通りに行かなくて周囲に不平不満をぶつけては
苦しみ悩むことになります。

 私が私がと自分を中心にしたものの見方に
とらわれはからうことが
私の苦悩の原因だというのです。

 仏さまのものの見方でいいますと
私が今ここに生きているのは
「私が」ということで生きているのではないのです。
 多くの「いのち」をいただき
多くの「いのち」に支えられて
生かされて生きているのです。

 この私の身体一つ考えてみても
多くの「いのち」が私の血となり肉となって
くださっているのです。
 何一つとってみても
私が一人で生きているということではありません。

 蓮如さまは
仏法に遇ってみると
「我と思うことは、いささか、あるまじきこと也」と
「私が」でなく、多くの「いのち」によって
生かされて生きているという「いのち」の本当のあり方を
教えていただくとお示しなのです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私もあなたもみんな共にお念仏の世界に
生かされて生きていると聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.10.28)


円光寺
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