南無阿弥陀仏のいのちにつながってこの道を往く
2022-01-13
このお朝事の前のほんのわずかな時間ですが
今日或ることから坊守とKKさんの話になりました。
今は施設に入られていますが
元気にされているとお聞きします。
その話からKSさんのことをふっと思い出して
話になりました。
明後日15日が三回忌のご法事のご縁になります。
ご往生されて2年です。
KSさんもKKさんも常朝事のお同行です。
今日のような暗くて寒い日も暑い日も
風の日も雨の日も毎日
それぞれ生活ぶりは違いますが
この時間にお参りされいつもの席に座られて
ご一緒にお勤めされたお姿を思い出し
懐かしい声が聞こえてくるようです。
坊守とそんな話をするうちにピンポーンと
本堂のチャイムが鳴りました。
朝一番にMYさんがお参りされ
HMさんTSさんが続き声が聞こえてきます。
このお朝事は父の代から
ずっと毎朝お勤めしていますが
お同行の顔ぶれが変わってまいります。
世の中の移ろい人ひとの営みは変わっても
真実変わらないまことのお念仏のみ教えを
共々に聞かせていただいて
皆さんとご一緒にお朝事のお勤めをさせていただくなかに
今日一日を始めさせていただきます。
お浄土の阿弥陀さまから開かれた
往生浄土のお念仏の道です。
お念仏申して「この道を来い」と
阿弥陀さまのお喚び声を聞かせていただき
「この道を往け」とお釈迦さまがお勧めくださって
お念仏の道を歩ませていただきます。
私一人ではありません。
ご一緒に歩んでくださるお同行の皆さんと共に
お念仏の先人をたずねてこの道を往きます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.13)
お念仏の声が聞こえてくる
2022-01-12
昨日ご門徒の方が亡くなられて
お昼前に臨終勤行にお参りしました。
お勤めの後でご臨終のご様子を伺いました。
朝方亡くなったということですが
その前に入院先の病院にお姉さんが
携帯で電話したといいます。
電話をしてお話ができたかというと
殆どお姉さんが一方的に話すことで
言葉が返ってくることはなかったといわれます。
人が命終わる時
目、耳、鼻、舌、皮膚の五官で感じる
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感のうち
聴く感覚が最後まで残るという話を
聞いたことがあります。
最後まで聞こえるんですね。
力なくして終わるのですから
声を出す力もおぼつかないのですが
耳にはそのまま聞こえてくるのでしょうね。
親鸞聖人のご臨終の様子を
「念仏の息絶え終わりぬ」と伝えてくださっています。
南無阿弥陀仏のおはたらきを思います。
南無阿弥陀仏は声の仏さまです。
南無阿弥陀仏のお喚び声となって
「われにまかせよ必ず救う」と
今日も何度も何度も私の口から
お念仏が出てくださいました。
臨終の時にお念仏の声にならなくても
阿弥陀さまは南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでもどのような状況にあろうとも
この私とご一緒してくださるのです。
南無阿弥陀仏が先手のお救いです。
私がこの世に生まれる前からずっと私のことを思い取り
南無阿弥陀仏となって必ず救うとおはたらきです。
お念仏の声が聞こえてきます。
南無阿弥陀仏のお喚び声です。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
私たちは共々に生かされてあると
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただきます。
「まかせよ救う」と聞こえてくるお喚び声に
「おまかせします」と安心して
そのままお浄土参りをさせていただけるのです。
何もかも阿弥陀さまの独りばたらきと
尊く有難くいただいて
南無阿弥陀仏とお礼のお念仏を申させていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.12)
お念仏につながるいのち
2022-01-11
年忌のご法事はご往生の一年後の一周忌から始まって
二年後に三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌
二十五回忌、三十三回忌、五十回忌と続きますが
ご縁ご縁に歳を重ねる中にご法事の趣が
違ってくるように思います。
昨日は三回忌のご法事でした。
大切な方とお別れして二年です。
この二年の間に何度も何度も
ご遺族ご親族の方が御仏前に集いお勤めをして
仏さまのご縁をいただいたことです。
三回忌から次の七回忌は4年後です。
昨日のご縁に子どもさんがお参りでした。
ご法事の方の孫にあたる子どもさんで
亡くなられた後に誕生されてお母さんに抱っこされて
ご縁にお参りしていたことを思い出します。
今度2歳になるということで
歩けるようになりお勤めの間もじっとしていない様子で
声も聞こえてきました。
ご法事のご縁ご縁に成長していくことが
目に見えてわかります。
お経さま(意訳)に
「人は、この世の愛欲のきずなにつながれて生きているが
つきつめてみると、独り生まれ、独り死に
独り来て、独りゆくのである」と説かれています。
去る者あれば来る者ありで
私たちも今はこの人間界に生まれ来て生きていますが
いずれ必ず命終えてこの世を去って行きます。
この子が七回忌の時には6歳になり
小学校に上がる頃で随分成長しているのだろうと思います。
変わって行くのです。
見た目ではわかりにくいですが
私たちもまた変わって行くのです。
お互いに変わって行く中にあってご法事のご縁です。
先に往かれた仏さまが御仏前に誘ってくださり
仏法に遇ってくれよとお勧めです。
この世のすべてのものが刻一刻と移り変わりする中で
真実変わらないまことのみ教えを聞かせていただきます。
ご法事を丁寧にお勤めしましょうと申します。
お勤めさせていただくのです。
ご遺族ご親族一人一人みんな生活ぶりが違うものが
一堂に会してお念仏につながる仏さまのご縁です。
平素からお念仏を申す生活をさせていただき
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中
南無阿弥陀仏のいのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きていることを
ご法事のご縁にあらためてお互いに
聞かせていただきましょうと
お取り次ぎのお話です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.11)
成仏は究極の成人?
2022-01-10
今日は三連休の最終日ということです。
日曜お休みの日にはお寺は法事が多くあって
三連休の真ん中の昨日は法事が4件ありました。
ちょっとハードワークですが
どうしてもこの日にというお家が2件ありました。
遠方から家族が帰ってみえるといわれます。
前日の土曜日に帰って来られて
日曜日にご法事で皆さんご一緒にゆっくりして
次の月曜日に遠方に帰るという段取りです。
今日は成人の日です。
昨日大分市の成人式が今年は昭電ドームでありました。
ここ最近ホルトホールでの成人式でしたが
去年はコロナ禍でオンライン開催を余儀なくされ
広い会場で2年ぶりの対面開催になったということです。
新成人約4700人のうちの3600人が集まったといい
高い出席率だと思います。
三連休の真ん中で遠方からも古里大分に
帰ってきた人が多かったのではないでしょうか。
小中高校の同窓会です。
懐かしい同級生と久々に会う楽しい集いです。
私の頃は1月15日の成人の日に成人式でした。
それこそ平日でしたらとても遠方からは帰れません。
それでも私は帰りました。
会場は鶴崎の公民館でした。
小中学校の懐かしい顔ぶれがそろって
あの人この人と声をかけ合い
当時お寺の境内にあった塾の名残の教室の広い部屋で
みんなたくさん集合して大同窓会になりました。
夜遅くまでお酒を飲んで手拍子で歌って
町中に踊りに繰り出してと
にぎやかな思い出です。
今年4月の改正民法施行で「18歳成人」がスタートし
従来の成人式も今年が最後となって
来年からは「二十歳のつどい」などに模様替えすると
新聞のコラムにありました。
二十歳になって成人して飲酒や喫煙ができるという
当時は自分本位な感覚しかもてませんでしたが
成人とは「大人に成る」ということ
大人としての権利と社会的な義務と責任が生じることで
「18歳成人」になって
若者だけではなく私たち一人一人が成人たる自覚を
問われることでもあります。
仏教は「成仏」仏に成ることをめざす宗教です。
仏とは死んだ人のことではなく
さとりを開かれた覚者です。
真実まことに目覚めた方で
仏の教えを聞いて成仏道をたずねていくことこそ
人間に生まれた意味だと聞かせていただきます。
真実の人に成るということで
究極の成人です。
どこまでも自己中心に生きる私には
とても歩めそうにない仏道ですが
救われ難い煩悩具足の凡夫の身を生きる私をこそ
必ず救うと南無阿弥陀仏のおはたらきで
お浄土に往生成仏させてくださる
阿弥陀さまのお念仏の仏道を歩ませていただけるのです。
今日も一日お念仏申して往生浄土の道を
共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.10)
ドローン来迎仏
2022-01-09
今日は仏教壮年会の月例会で
今年初めてお会いする方もいらっしゃいます。
今年もよろしくお願いいたします。
こうしてお朝事のご縁に
月に一度の仏壮の例会をさせていただきます。
お朝事のご縁といっても
春夏秋冬色々とその時どきの風情が違います。
今日は朝早くから皆さんようこそお参りです。
暗いですね。寒いですね。
これから日一日と明るくなってきます。
いよいよ寒くなりますが
お彼岸に向かって温かくなってきます。
夏の時分はお勤めしていたら
汗が噴き出すように暑くなります。
四季折々に身をおいて
私たちは無常の世を生きています。
日々の移ろいは何か繰り返しのようですが
一年一年歳を重ねてまいります。
そしてこの命いつどのように終えるか分かりませんが
どんな人も必ず終えていきます。
無常のいのちを生きる私たちですが
南無阿弥陀仏のお念仏のお救いのみ教えに
遇わせていただきます。
「我にまかせよ必ず救う」の
阿弥陀さまのお喚び声です。
あなたのいのちそのまま引き受けた
間違いないぞ必ず救う安心せよと聞かせていただきます。
何もかもが変わり行くなかにあって
真実変わらないまことの仏法に
生かされて生きてあると聞かせていただく
お朝事のお念仏のご法座のご縁です。
昨日テレビで京都の浄土宗のお寺の
「ドローン来迎仏」を紹介していました。
来迎とは迎えに来るということで
浄土宗の臨終来迎という教えです。
京都の宇治に平等院というお寺があります。
平等院は平安時代に権力を誇った藤原氏という貴族が
建てた大きなお寺です。
当時は仏法が段々と廃れていくといわれる末法の世で
仏さまのお救いに遇う人が少なくなるというのです。
末法無常の世にあって藤原氏が建てた平等院は
阿弥陀仏のお浄土を模したもので
中央に阿弥陀如来の座像がご安置されています。
臨終来迎です。
終わりに臨むとは命終わるとき
南無阿弥陀仏とお念仏を申すところに
お浄土から阿弥陀仏が迎えに来て
お浄土に連れて往ってくださるというのです。
テレビではすっと立たれた阿弥陀仏が
脇侍の智慧の勢至菩薩と慈悲の観音菩薩と共に
ドローンに乗って本堂のお内陣の阿弥陀さまのお浄土から
外陣の私たちの所に来てくださるという
まさに目に見える阿弥陀仏の来迎のおはたらきです。
今月の法語カレンダーのことばです。
「きょうもまた 光り輝く み仏の
お顔おがみて うれしなつかし」です。
阿弥陀さまのおすがたです。
ちょうどお顔のあたりから光線が出てます。
阿弥陀さまが48本の光明を放っていると
阿弥陀さまの48ある願いを表すといわれます。
私の目に見えるすがたの光線ですが
この目には見えないほど無量の光明のおはたらきです。
光明無量の阿弥陀さまに成ってくださったのです。
量り知れない光明がずうっと延びて
私を抱いていてくださるといいます。
私のところにすでに来てくださってある
阿弥陀さまのおすがたです。
私の眼から見るとお内陣の阿弥陀さまは
私の前方5m斜め上方にまします仏さまです。
昨日も一昨日もそうだったし
多分明日もそうでしょう。
阿弥陀さまのおはたらきは光明となって
もうすでに私のところに至り届いてあると
阿弥陀さまのお慈悲の光の中に
私たちは生かされて生きてあると
聞かせていただきます。
それはこのお寺の本堂にお参りしないと
お家のお内仏にお参りしないとではなく
いつでもどこでも大きな阿弥陀さまの摂め取て捨てない
光明に抱かれて救われてあるというのです。
さっきのドローン来迎仏の臨終来迎のお話です。
臨終の時にお迎えに来るといって
ちょっと不確かで不安ですよね。
平素からお念仏申して善いことをしておかないと
阿弥陀さまは迎えに来てくれないのではないかなどと
臨終の時にならないとわかりません。
私たちの日暮らしは私のことで精いっぱい
生きることで精いっぱいです。
いつも御仏前に座っていたら生活できません。
今日も皆さんこれからお家に帰って一日の生活が始まります。
昼は起きて夜は眠ってますが
阿弥陀さまはいつも立ちっ放しで
私のことを見まもってくださっているのです。
寝ても覚めても私がどんなことをしていても
この私を思い取ってくださって
そのまま救うてくださる阿弥陀さまのおはたらきが
私に届いて南無阿弥陀仏とこの口から
お念仏が出てくださるのです。
お念仏を申しましょうと言うと
何か私がお念仏を申すということで
私に力が入りますね。
お念仏を申させていただくなかに
お念仏がこの口から出てくださるのです。
お念仏のおはたらきがもうすでに
摂取不捨の光明となって私のところに至り届き
私をそのまま抱き取ってくださってあるといただけたら
臨終を待たなくてももう私の往生は
阿弥陀さまの方で決めてくださってあるということです。
臨終です。
どんな死に方をするかわかりません。
床の中で家族親族有縁の方々に囲まれて
安らかにということもあるでしょう。
わかりませんよ。
「行って来ます」と出て行った人が
亡くなって帰ることもあります。
災害や事故に遭うことも事件に遭うこともあります。
老いも若きもです。
順番ではありません。
諸行無常の世にあって無常のいのちを生きている
私だからこそ阿弥陀さまは無量の光明を放って
摂め取って捨てないと南無阿弥陀仏のおはたらきです。
今がまさに臨終ともいただけます。
あなたのいのちそのまま引き受けた
間違いないぞ必ず救う安心せよと
南無阿弥陀仏のお心をいただいて
日々お念仏を申す生活をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.9)