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お念仏を申す生活法話

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ご門徒衆のたのもしい力です

2021-11-24
 昨日は御正忌前の仏具のおみがきを
ご門徒衆たくさんの方にお手伝いいただき
お内陣のお荘厳がほぼととのいました。

 この前の大掃除といい
ご門徒皆さんの力を有難く頼もしく思います。

 これはお寺だけに限ったことではありません。
一般の地域社会の行事活動もそうです。
 私一人ですることできることではありません。
一人一人の力が集まって大きな力になるのです。

 その力の源泉は皆さん一人一人の思いです。
皆さん一人一人のお寺への思いが
一つになって力になるのです。

 浄土真宗のご門徒皆さんの思いは
私が私がということではありません。
阿弥陀さまの思い大きな願いから発ったものです。

 阿弥陀さまの願いが私のところに
南無阿弥陀仏と届けられおはたらきいただいて
力となり形になってお内陣の荘厳といただきます。

 ただお荘厳をととのえても
そこにお参りをする方がいらっしゃらなかったら
もったいないことです。

 お荘厳をととのえるまでの過程も大事ですが
ととのえられたお浄土の荘厳のなかで
今日一番に皆さんと共にお朝事のご縁をいただき
親鸞聖人のお正信偈をお勤めさせていただいたことは
これほどの慶びこれほどの贅沢はありません。

 明後日26日からの御正忌報恩講法要のご縁ですが
どうぞ皆さんお誘い合わせお参りいただき
一人でも多くの方にお念仏のご縁に遇ってほしいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.24)


つられ念仏

2021-11-23
 ご門徒のお家のご法事のご縁に
お寺から聖典を持参してお正信偈のお勤めを
お参りの皆さんとご一緒にします。

 ご門徒の家族だけでなくご親族の方もお参りですから
中には「うちは浄土真宗でないから聖典は要らない」と
言われる方もいますが、大抵は手に取ってくださいます。

 家々によって大きな声のお家もあれば
殆ど声が聞こえないお家もあります。

 日頃からお寺にご縁のある方がお参りですと
その大きな声につられて皆さんも声が出るようで
本当に有り難いことです。

 今日のお朝事のご縁はいつもの皆さんですから
本堂中に響き渡る大合唱のお勤めです。
 それでも最初は皆さんどうでしたか。
一種独特な雰囲気の中で戸惑うこともあって
中々声が出なかったのではありませんか。

 何度も何度もご縁をいただいて
声が出るようになったのですね。

 声が出てくださるといった方がいいと思います。
周りの方々のお念仏の声を聞いてつられて
お念仏を申す身にさせていただいくのです。

 つられ念仏です。
お念仏申すご縁をいただいて
周りの声につられてお念仏が出てくださるのです。
 その大本は阿弥陀さまの大きな願い
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」のお喚び声が
私に届いてくださって
この口からお念仏が出てくださるのです。
そしてお念仏の声が隣の人その隣の人に
届けられるのです。

 ご法事のご縁でお念仏が出てくださいます。
それはご先祖有縁の方からのお念仏のバトンです。

 私の番です。
声に出してお念仏申しましょう。
 心の中でお念仏申してますという人がいますが
そのまま声に出せばいいのです。
 阿弥陀さまのお喚び声がそのまま聞こえてきます。
そのまま隣の人にも聞こえます。

 ご法事のご縁はお念仏が出やすい最高のチャンスです。
お念仏のおはたらきにつられて
そのままお念仏申しましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.23)

「本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」

2021-11-22
 今日から三日間『高僧和讃』の最後
第七祖の源空讃をいただきます。

 今日のご和讃の一首は
「曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
   本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」
<果てしなく長い間
 生まれ変り死に変りし続けてきたものは
 迷いの世界を離れさせる
 本願のすぐれたはたらきを知らなかった。
 もし源空聖人がおられなければ
 このたびの生涯もむなしくすごしたことであろう>です。

 源空聖人とは親鸞聖人が直接お会いになって
お念仏のみ教えを聞かれたお師匠さんです。
法然さまといった方が一般的には馴染みがあると思います。

 親鸞さまが29歳の時に比叡山を下りて
法然さまの吉水の庵を訪ねて35歳まで6年間
阿弥陀さまの本願念仏のお救いの法を聞かれました。

「本願力に遇いぬれば むなしくすぐる人ぞなき」という
御和讃を重ねていただきます。
 ご本願のお救いに遇うことによって
この人生を空しく過ごすことはないというのです。

 今日の御和讃にも「このたびむなしくすぎなまし」と
出てまいります。

 「本師源空いまさずは」です。
法然さまにお遇いすることによって
南無阿弥陀仏のみ教えに出遇い
生死の迷いを繰り返してきた私が
この人生を生き抜かせていただいて
命終わる時に阿弥陀さまのお浄土に往生させていただき
さとりの仏さまに成らせていことができるという
慶びのご和讃です。

 この私のことに重ねて聞かせていただきます。
阿弥陀さまのお念仏の救いの法に遇うために
このたび人間に生まれてきたといただくなかに
いよいよ本願を信じお念仏を申す身にさせていただいて
お浄土への人生を生き抜かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.22)


南無阿弥陀仏のご縁つながりです

2021-11-21
 南無阿弥陀仏のご縁つながりです。

 昨日午前中に電話がありまして
お寺の近くに住んでいる初めての方からでした。
 山門の掲示板に「みんなの法話会」の案内がありましたが
「参加できますか」という問い合わせでした。

 少しお話を聞きますと
ご縁のある方です。
 同じ浄土真宗本願寺派のお寺のご門徒さんで
私もよく存じ上げているお寺さんですが
そのお寺のご院家さんからも
「円光寺さんにお話を聞きに行かれたらどうですか」と
以前からお話があったということです。

 初めてお電話でお話する方ですが
何か今までに何回も会っているようで
お念仏のご縁の有難さを思いました。
「はい、わかりました。またあらためてご案内します」と
電話を置きました。

 午後に大海組のお寺さんからお電話がありました。
県内遠方のお寺さんからの紹介で
大分市内に住んでいる方が来られて
これから門徒として仏事をお勤めしてほしいとのことで
お話を聞いていたら
円光寺のすぐ近くの方だったので
円光寺さんを紹介しますということでした。

 お寺の門徒になるという大事な話なので
お寺でお話を聞きましょうと言いましたら
すぐ行きますということで早速お寺に来られました。

 奥さんが急に体調を崩し病院で診てもらって
今はお家で緩和ケアをしているとのことでした。
 差し迫った事情があって急いでお寺のことなど
相談しようと思い立ったということです。

 門徒入門などについてお話させていただき
大変心配な中で「安心しました」と帰られました。

 南無阿弥陀仏のご縁つながりということで
お寺の役割を思います。

 お二方とも実家がお寺のご門徒という
元々浄土真宗にご縁があった方です。

 午前の方は転居されたお家にお仏壇があり
お寺さんがお参りされているということで
午後の方は実家は今は空き家ですがお仏壇があるので
ご法事はそのお家でお勤めしていたということです。

 お寺とご門徒というご縁があっても
平素からお寺にお参りすることは
お寺の敷居が高いなどといわれて
大変な決心がいるようです。

 ただこれまでにご縁があったということです。
お寺のご縁です。
仏さまのご縁南無阿弥陀仏のご縁です。

 ご縁があったことで
ご縁をいただくことができるのです。
 仏さまのご縁つながりは
私がどうするこうすることではなく
もうすでにつながってあるご縁を
私がいただくかどうかということです。

 仏さまのご縁と
そのままいただけばいいのです。

 私がこの世に生まれる前からのご縁です。
そしてこの命終えますが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
阿弥陀さまのお浄土に生まれ
仏さまにさせていただくのです。

 阿弥陀さまの大きな願いがかけられたいのちです。
死んだらお終いのいのちではなく
先に往かれた方も後に遺った方も
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きていると
お念仏申して聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.21)


月食に仏法を聞く

2021-11-20
 今朝6時の鐘を撞いて西の空を見上げると
真ん丸お月さんが出ていました。
 昨日は「ほぼ皆既月食」ということで
夕方6時前頃から東の空低く月が欠けてまた満ちていく
天体ショーを観ることができました。

 月が欠けて見える月食や太陽が欠けて見える日食は
今は科学的に証明される自然現象ですが
昔の人は不吉な怪奇現象と受け止めて
人の心を惑わし恐れさすことにも
なったのではないでしょうか。

 月が欠けては満つる様子を見ていると
月は我が心を映している鏡だと思います。

 自分の思い通りに満足する心が満月ならば
不足不満な心は欠けた月です。
 ほぼ一か月の周期で満月になりますが
それも一日だけのことで
月食を観ていると瞬時に移り変わり行く我が心です。

 月光といって月自体が光を発しているわけではなく
太陽の光を受けて月が光っているという科学の話です。
 太陽の光のはたらきで私たちはものを見ています。
その太陽は私が眠っている夜間もずっと
休むことなく光を放っているのです。

 阿弥陀さまは無量寿無量光の仏さまで
いつでもどこでも智慧と慈悲の光のおはたらきで
私たちを照らしてくださっているとお聞きします。

 智慧の光で我が心をそのまま見せてくださり
慈悲の光の中にそのまま摂取してくださるのです。

 月の満ち欠けのように移ろいやすい我が心です。
いつも自分のことで精いっぱいで
自分の都合に合わせて生きている
この私を全てご存知で
太陽の光のようにそのまま丸ごと
常に照らしてくださっているのです。

 只今拝読の『高僧和讃』の「源信讃」に
「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども
   大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」
<煩悩に眼をさえぎられて
 あらゆるものを摂め取るという
 阿弥陀仏の光明をみることはできないが
 その大いなる慈悲は見捨てることなく
 常にわたしを照らしてくださっている>とあります。

 あらゆる煩悩を兼ね備えた私をそのまま
阿弥陀さまは大きなお慈悲の中に
抱き取ってくださってあると聞かせていただき
お念仏申して生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.20)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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