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お念仏を申す生活法話

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新聞広告のチラシ

2024-07-18
 今朝妻が新聞のチラシを見ながら
「いつも同じものが入っているけど
誰が見るんだろうね?」と
ふと言いました。

 私もそうですが
チラシを一枚一枚丁寧に見る人って
殆どいないのではないでしょうか。
 毎日何枚も入るチラシを
そのままゴミ箱に捨てる人もいるそうです。

 チラシを入れる側からすると
皆さんに見てもらいたいが
一人でも多く見てくれる人がいたら
チラシ広告の意味があるということです。

 チラシが入っていれば
見る人もいるということで
チラシが入っていなければ
誰も見ないということですからね。

 阿弥陀如来の本願念仏のみ教えに重ねて
阿弥陀さまは「十方衆生」を必ず救うと
ご本願をお建てになり
南無阿弥陀仏と成就されて
私たちにおはたらきですと聞かせていただきます。

 すべてのものを必ず救うという
阿弥陀さまのお心おはたらきですが
『浄土和讃』(弥陀経の意)には
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし
   摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
(数限りないすべての世界の念仏するものを見通され
 摂め取ってお捨てにならないので
 阿弥陀を申しあげる)と
阿弥陀さまは「念仏の衆生」を救うと
讃嘆されています。

 新聞広告のチラシは
「下手な鉄砲でも数撃てば当たる」というものですが
阿弥陀さまのご本願は
「すべてのものを必ず救う」と
南無阿弥陀仏のお名号となって
いつでもどこでも誰にでも
一時も休むことなく喚び通しのおはたらきで
「わが名を称えてくれよ。まかせよ救う」の
阿弥陀さまのお喚び声にうながされて
今こここの私の口からお念仏が出てくださるのです。
 十方衆生と聞いて念仏の衆生とは
この私のことだったのです。

 本願を信じお念仏申す身にさせていただいて
往生浄土の人生を生きて往き
命終わってそのままさとりの仏さまに成らせていただく
南無阿弥陀仏のおはたらき一つに
迷いの凡夫のこの私が救われていくのです。

 本願のお名号はもうすでに
この私のところに届けられています。
 阿弥陀さまの「まかせよすくう」のお心おはたらきに
そのまま信じまかせて
お念仏申す身にさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.7.18)

「お寺は涼しいんでしょう?」

2024-07-17
 皆さんはお寺のこと
お寺に住む私たちの生活に
少なからず興味があるのではないでしょうか。

 お寺の山門を入ると広い境内と大きな本堂があり
部屋がいくつもある家屋で
皆さんのお家の生活とは別世界のような所で
どんな日暮らしをしているのかということです。

 今日は久しぶりに晴れ間が広がり暑くなりました。
間もなく梅雨明けということで
これから夏本番の暑い日が続きますが
「お寺は涼しいんでしょう?」とよく言われます。

 広々とした境内に木々が植わり
涼しい風が入ってきてという
イメージがあるのでしょうか。

 確かに山間部のお寺であったり田圃に囲まれたお寺は
冬はすきま風が入って寒かったり
夏は蚊が入ってきてと大変ですが
暑い中で涼しい風が入ってきて
ということがありましたが
今のお寺事情は車社会で
駐車場を確保することが求められ
大きな木を切ったり
土地をアスファルトで固めたり整備して
生ぬるい変な風が入るようになりました。

 本堂の戸を開けっ放しにして風を入れるのではなく
戸を閉め切って冷暖房完備のお寺も増えてきました。

 どこのお寺もお参りの皆さんが
座布団に座るのではなく
椅子式になりました。

 今の生活様式に合わせるように
お寺のあり方も変わってきましたが
どれもこれも皆さんにお寺参りのご縁に
あってほしいとの願いからです。

 バリアフリーの様式も言われますが
元々階段があって山に上って行くという
そびえ立つ大屋根のお寺の印象です。

 次にお寺を建て替える機会には
コンパクトなバリアフリーのものが求められますが
今はいかに工夫して
車椅子の方や体のご不自由な方に
お参りしやすいお寺づくりを
していくかということです。

 お寺はただの風景ではありません。
お念仏の先人が仏法聴聞の道場として
多くの人がお参りできるお寺を
私たちに伝えてくださったのです。

 一人でも多くの方がお寺参りのご縁をいただき
いつもお念仏の声が聞こえる
お寺でありたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.7.17)

お茶日のおせったい

2024-07-16
 今日16日は親鸞聖人の月命日で
お寺で常例法座のご縁をいただきます。

 お寺のご法座では
お勤めの後やご法話の中休みに
お参りの方にお茶やお菓子などの
おせったいをする習わしがあります。

 御仏前に一堂に会してご一緒に
お念仏申して仏法聴聞させていただくご縁ですが
皆さんとお茶をいただきながら
顔見知りのお同行や隣の人とお話をする楽しみです。

 戦後間もない物が貧しい時代に
家の者に連れられお寺参りしてお菓子をもらい
おいしかったうれしかったという
子どもの頃の思い出話をよく聞きます。

 私の祖母の口ぐせは
「あがりよ、はよたべよ」だったそうです。
 子どもも大人もみんなに声をかけて
お寺の家にあげては家にあるものを
振る舞ったという話です。

 またお家お家でご先祖の祥月命日などに
お茶日をしていました。
 ご近所有縁の方々に声かけをして
仏間で仏さまのご縁をいただき
お茶を飲んだり食事をしたりして
先に往かれた方を偲び
懐かしい話に花が咲いたといいます。

 お家の生活ぶりが変わり
近所付き合いも段々となくなって
お茶日のおせったいがなくなってきました。

 お念仏のご法義は
死んだら終いのご縁つながりではなく
生きても死んでも仏さまのお慈悲の中に
先に往かれた方も後に遺った私たちも
共々に生かされて生きているとお聞きします。

 命日は命の日と書きます。
大切な人が命終えた日であり
そのままお浄土の仏さまに生まれた日です。

 ご先祖有縁の仏さま方が
「どうかお念仏申す身になっておくれ」と
私たちを御仏前に誘い仏法聴聞を勧められるのです。

 日々の生活のなかでお念仏申して
私にできる仏德讃嘆のお手伝いを
させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.7.16)

わが人生の選び

2024-07-15
 私たちが生きる人生は人それぞれです。
人と生まれてその歩みが始まりますが
その道のりは誰かに決められたものではなく
日々自ら歩いて行かねばなりません。

 その歩みの中で人生の節目があり
私たちはその前で立ち止まります。
 人生の選びです。
右に行くか左に行くか真っ直ぐ行くか
それ以外にも選択肢はあると思いますが
後戻りはできません。

 進学、就職、結婚などの大きな人生の節目です。
何をどう選ぶのか、大いに悩むところです。
 他人任せにできないことで
周りの人のアドバイスを聞くことはあっても
最終的に私が自分で選ばなければなりません。

 その結果、後でその選択を悔やむことはあっても
自分が決めたことで周りを責めることはできません。
 思うようにいったかいかなかったかですが
良くも悪くもいろんなご縁にあって
さまざまな経験を重ねるなかで今の私があるのです。

 こんなはずじゃあなかったと
不満や愚痴をこぼしても
周りの人は聞いてくれても他人事です。

 生死流転のまさに迷いの中を
堂々巡りするような私の人生ですが
仏教は生死の迷いを解脱する
さとりへの道を教えてくださいます。

 生死の帰依処
生きる依り処であり死して帰する処です。

 阿弥陀仏は迷う私に
南無阿弥陀仏「われにまかせよ必ずすくう」と
おはたらきです。
「わが名を称えて生きてくれよ。
いつも私が一緒だから大丈夫
安心して共に生きて往きましょう」と
喚んでくださっているのです。

 そのお喚び声にうながされて
迷いの凡夫のこの私が
お念仏申してこの人生を生き抜かせていただき
命終わるときそのまま阿弥陀仏の浄土に生まれて
さとりの仏さまに成らせていただくのです。

 お念仏は阿弥陀仏が私をすくうために
選んでくださった生死の帰依処です。
 人生の選びにお念仏申しましょう。
いつでもどこでもどんなときにも
阿弥陀さまがご一緒です。

 良くも悪くもこの人生
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
お念仏申して生きて往きましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.7.15)

高齢者等終身サポート事業

2024-07-14
 日本社会で急速に進む少子高齢化に伴い
いろんな事業が展開されています。

 先日のNHKクローズアップ現代で
「高齢者等終身サポート事業」が紹介されていました。
 身寄りのない高齢のおひとりさまのサポートです。
家事全般の生活支援、介護医療に伴う身元保証
そして葬儀やお墓など死後事務のサポートです。

 これまでは家族が全て担ってきたことですが
家族がいない人のサポートで
公的機関に先んじて民間事業所が行うことで
事務手続きの不備などトラブルになるケースも
増えてきているといいます。

 キーワードは安心です。
周りに家族がいてもいなくても
人一人が生きていくことは
老いて病んで死んでいくなかに
独りでは到底できない諸々のことがあって
そこにサポートする人や機関があることで
安心して生きていくことができるということです。

 高齢のおひとりさまが増えていくなかで
こうした事業の具体的な展開が期待されますが
これからのお寺のあり方についても
大きな課題を提起されていると思います。

 人口の都市集中でお寺の近辺のご門徒が減り
高齢の夫婦や一人暮らしの所帯が多くなりました。
 子や孫などの家族はいても遠方で暮らし
日頃のお寺との関係がないなかで
葬儀のご縁で寺離れが進む現実があります。
 一方で身寄りのない高齢のご門徒がいて
これからの不安をもつ方が多くいらっしゃいます。

 こうした方々へお寺ができるサポートです。
当面は葬儀やお墓のことが中心になります。
 中々相談し辛いことですが
このことの解決こそがお寺ができることであり
ご門徒が安心できることだと思います。

 葬儀やお墓仏事一般のことはの
これまでは家族の喪主任せにすればよいことでしたが
生前にお寺と相談しておくことで
お寺とのご縁ができることになります。

 一人暮らしの方の共同墓地を提案されているお寺で
同じ墓地に友人同士が納骨されるということで
「墓友(はかとも)」として
仏さまのご縁をいただくということです。

 後を見てくれる血縁の家族はいなくても
仏法のご縁をいただく私たちは法友です。

 念仏家族と申します。
お念仏のみ教えにつながって
共に阿弥陀さまのお浄土に生まれ往くと
聞かせていただきます。
 死んだら終いの人生ではない
お念仏申して往生浄土の人生を
共々にさせていただくのです。

 家族のあり方が様々に変わってきました。
人それぞれに生きる価値観が違うなかで
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりの中に
共々に生かされて生きる念仏家族です。

 阿弥陀仏の本願念仏のご法義は
いのちあるものすべてをそのまま救うと
いつも私たちに付いて離れず
阿弥陀さまが寄り添ってくださる教えです。

 身寄りのない人は誰一人いません。
南無阿弥陀仏のおはたらきのなかに
独りでも一人ではない
阿弥陀さまがいつでもどこでも
どんなときにもご一緒です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.7.14)

円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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