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お念仏を申す生活法話

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「久しぶりやなあ」

2021-11-27
 御正忌報恩講法要お朝事のお勤めです。

 昨日からの法要ですが
私は従兄の葬儀で一昨日から昨日にかけて
福岡の方にお参りさせていただき
新院が代わってお勤めしました。

 久しぶりにJRのソニックに乗りました。
コロナ感染が大きくなって以来です。
 一昨年の2月まだ大騒ぎしていない頃に
京都のご本山に会議で行き
大阪で大学時代の先輩に会ったことです。

 早めに大分駅に着いて待合室で座っていたら
後ろの席から「久しぶりやなあ」という話が
聞こえてきました。
 こちらもJRで久しぶりに遠方に出かける
人のようでした。
感染者が少し落ち着いて人の流れも
徐々に回復してきたということでしょうか。

「久しぶりやなあ」ということですが
私は何かあまり久しぶりという感じがしませんでした。

 お寺のお役をいただいて
若い時分から京都のご本山や九州各地に
度々出張することが多くありました。
 楽しみもありました。
会議や会食で人に会って興味深い話を聞いたり
議論したりすることもありました。
 しんどく思うこともありました。

 ちょうどお役を引いたタイミングで
この2年近くずっと家に居ました。
 家の生活お寺の生活です。
会う人は大体決まっています。
 でも退屈はしません。
有難く思うことが多くあります。

 今日のお朝事のご縁もそうです。
いつものメンバーいつもの皆さんです。
 同じ中心をいただいていることの有難さです。
今日も御仏前のいつもの指定席に座らせていただき
ご一緒にお勤めお念仏申させていただきました。

 お念仏は生きる依りどころ死して帰るところ
南無阿弥陀仏の生死の帰依処です。

 この人生いろんなことがあります。
いろんなことがありました。
 そしていずれこの私も
命終えていかなければなりません。
思い通りにならないことがこれからもたくさん
この身にこの身のまわりに起こってまいります。

 でもね
南無阿弥陀仏とお念仏を申す身にさせていただいて
何か安心できるというか落ち着くところがあるというか
「久しぶりやなあ」と思うなかに
いつものことのように受け止められて有難いです。

 南無阿弥陀仏のお念仏のご法義です。
お念仏に遇わせていただいて
大変なことがこれからもあるでしょうが
お念仏申してそのまま乗り越えていける力おはたらきを
南無阿弥陀仏といただいていることを思います。

 今日明後日二日間の御正忌報恩講のご縁になりますが
ご門徒皆さん共々にお勤めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.27)


絶対大丈夫の仏さま南無阿弥陀仏のそのまんまです

2021-11-25
 昨日の朝電話がありまして
私の一つ上の従兄が急に亡くなったという連絡でした。

 えっと思いました。
びっくりしました。
 電話口の奥さんの声が別人のように
呆然と沈んでいる様子が浮かびました。

 突然のことです。
詳しい事情はわかりませんが
いつものように朝食を食べてということでした。
 急も急、この命終わるという急です。
生死の身を生きていることを思います。

 昨日11月24日は私の母前坊守の96歳の誕生日でした。
今は病院施設にお世話になっています。
 コロナ禍で面会もままなりませんが
昨日は坊守と一緒に久しぶりに面会できました。

 わずかな時間でしたが
コロナ禍で思うようにならない身の上のことが
次々に口に出ます。
 看護士さんの話では
今日は大分機嫌がいいということですが
急に落ち込むことが多くなっているとのことです。

 96歳の身を生きるのです。
ちょっと様子がおかしいと自己診断しては
もう死んでしまうのではないかと思い詰める不安です。
 胸が痛くてもう死ぬ間際だったという話を
何度もしていました。

 先日は遠方の妹がコロナ以来初めて面会に来たことを
最期のお別れに来たんじゃないかと
落ち込むようなことです。
 96歳の歳になって
死ということを意識します。
生きたいという生への執着です。

 96歳まで生きたいと思っても
突然命終えていくことです。
 人生の仕事を成し終えて
もういつ死んでも心残りはないと
覚悟ができていると思うのは
周囲のものの見方であって
やはり生きたいんですね。

 そういう私もそうです。
まだまだ生きたいし
やり残したことがあるかどうかもわかりませんが
とにかく生きていれば何かができるぐらいに
思っているのが私たちではないでしょうか。

 ただこの生死ほどままならないことはないのです。
いつどんな形で命終えていくのか
周りの者も私本人もわかりません。

 だからこそそこに大きな不安を抱えて
苦しみ悩むのです。

 親鸞さまは生死の迷いを超えていく道を
お浄土への念仏の道と明かしてくださいました。
 「どんなことがあってもいつも私が一緒だから大丈夫。
あなたを決して見捨てませんよ
お念仏申してご一緒しましょう」と
南無阿弥陀仏阿弥陀さまのお喚び声のままに
生死の道を生き抜かせていただき
命終わってそのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏さまに成らせていただく
南無阿弥陀仏のお救いです。

 今プロ野球の日本シリーズをやっていますが
ヤクルトが優勝に大手で今日勝ったら日本一です。
 去年最下位のチームが優勝という
まさにミラクル物語です。

 高津監督がずっと選手に声かけしている言葉が
「絶対大丈夫」です。
 どんなことがあっても
ピンチでもチャンスでも大丈夫ということです。

 私たちの仏さまは絶対大丈夫の仏さまです。
「あなたのいのちそのまま引き受けたよ。
大丈夫だから私にそのまままかせなさい」と
喚んでくださっているのです。

 阿弥陀さまにまかせたから
長生きできるのか
病気が治るのか
金回りがよくなるのか
自分に都合のよいことばかりが
起こるということではありません。

 どんなことがあっても私が一緒だから大丈夫
たとえどんな形で命終えようとも
いつも私が一緒だから大丈夫だよとのおはたらきが
南無阿弥陀仏です。

 今日もこの口から南無阿弥陀仏と
お念仏が出てくださいました。
 南無阿弥陀仏のそのまんまです。
どこかに忘れるものではありません。
 いつでもどこでも
私に引っ付いて離れないのです。

 お念仏を申す身にさせていただいて
欲も出ます怒りも出ます愚痴も出ます
この口から南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださるのです。

 命終わるときもそのまんまです。
いつものそのまんま
南無阿弥陀仏のそのまんまです。

 欲が怒りが愚痴が出るのは生きてるということです。
「生きとるあいだは生きとるぞ」
南無阿弥陀仏そのまんまです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.25)


ご門徒衆のたのもしい力です

2021-11-24
 昨日は御正忌前の仏具のおみがきを
ご門徒衆たくさんの方にお手伝いいただき
お内陣のお荘厳がほぼととのいました。

 この前の大掃除といい
ご門徒皆さんの力を有難く頼もしく思います。

 これはお寺だけに限ったことではありません。
一般の地域社会の行事活動もそうです。
 私一人ですることできることではありません。
一人一人の力が集まって大きな力になるのです。

 その力の源泉は皆さん一人一人の思いです。
皆さん一人一人のお寺への思いが
一つになって力になるのです。

 浄土真宗のご門徒皆さんの思いは
私が私がということではありません。
阿弥陀さまの思い大きな願いから発ったものです。

 阿弥陀さまの願いが私のところに
南無阿弥陀仏と届けられおはたらきいただいて
力となり形になってお内陣の荘厳といただきます。

 ただお荘厳をととのえても
そこにお参りをする方がいらっしゃらなかったら
もったいないことです。

 お荘厳をととのえるまでの過程も大事ですが
ととのえられたお浄土の荘厳のなかで
今日一番に皆さんと共にお朝事のご縁をいただき
親鸞聖人のお正信偈をお勤めさせていただいたことは
これほどの慶びこれほどの贅沢はありません。

 明後日26日からの御正忌報恩講法要のご縁ですが
どうぞ皆さんお誘い合わせお参りいただき
一人でも多くの方にお念仏のご縁に遇ってほしいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.24)


つられ念仏

2021-11-23
 ご門徒のお家のご法事のご縁に
お寺から聖典を持参してお正信偈のお勤めを
お参りの皆さんとご一緒にします。

 ご門徒の家族だけでなくご親族の方もお参りですから
中には「うちは浄土真宗でないから聖典は要らない」と
言われる方もいますが、大抵は手に取ってくださいます。

 家々によって大きな声のお家もあれば
殆ど声が聞こえないお家もあります。

 日頃からお寺にご縁のある方がお参りですと
その大きな声につられて皆さんも声が出るようで
本当に有り難いことです。

 今日のお朝事のご縁はいつもの皆さんですから
本堂中に響き渡る大合唱のお勤めです。
 それでも最初は皆さんどうでしたか。
一種独特な雰囲気の中で戸惑うこともあって
中々声が出なかったのではありませんか。

 何度も何度もご縁をいただいて
声が出るようになったのですね。

 声が出てくださるといった方がいいと思います。
周りの方々のお念仏の声を聞いてつられて
お念仏を申す身にさせていただいくのです。

 つられ念仏です。
お念仏申すご縁をいただいて
周りの声につられてお念仏が出てくださるのです。
 その大本は阿弥陀さまの大きな願い
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」のお喚び声が
私に届いてくださって
この口からお念仏が出てくださるのです。
そしてお念仏の声が隣の人その隣の人に
届けられるのです。

 ご法事のご縁でお念仏が出てくださいます。
それはご先祖有縁の方からのお念仏のバトンです。

 私の番です。
声に出してお念仏申しましょう。
 心の中でお念仏申してますという人がいますが
そのまま声に出せばいいのです。
 阿弥陀さまのお喚び声がそのまま聞こえてきます。
そのまま隣の人にも聞こえます。

 ご法事のご縁はお念仏が出やすい最高のチャンスです。
お念仏のおはたらきにつられて
そのままお念仏申しましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.23)

「本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」

2021-11-22
 今日から三日間『高僧和讃』の最後
第七祖の源空讃をいただきます。

 今日のご和讃の一首は
「曠劫多生のあひだにも 出離の強縁しらざりき
   本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」
<果てしなく長い間
 生まれ変り死に変りし続けてきたものは
 迷いの世界を離れさせる
 本願のすぐれたはたらきを知らなかった。
 もし源空聖人がおられなければ
 このたびの生涯もむなしくすごしたことであろう>です。

 源空聖人とは親鸞聖人が直接お会いになって
お念仏のみ教えを聞かれたお師匠さんです。
法然さまといった方が一般的には馴染みがあると思います。

 親鸞さまが29歳の時に比叡山を下りて
法然さまの吉水の庵を訪ねて35歳まで6年間
阿弥陀さまの本願念仏のお救いの法を聞かれました。

「本願力に遇いぬれば むなしくすぐる人ぞなき」という
御和讃を重ねていただきます。
 ご本願のお救いに遇うことによって
この人生を空しく過ごすことはないというのです。

 今日の御和讃にも「このたびむなしくすぎなまし」と
出てまいります。

 「本師源空いまさずは」です。
法然さまにお遇いすることによって
南無阿弥陀仏のみ教えに出遇い
生死の迷いを繰り返してきた私が
この人生を生き抜かせていただいて
命終わる時に阿弥陀さまのお浄土に往生させていただき
さとりの仏さまに成らせていことができるという
慶びのご和讃です。

 この私のことに重ねて聞かせていただきます。
阿弥陀さまのお念仏の救いの法に遇うために
このたび人間に生まれてきたといただくなかに
いよいよ本願を信じお念仏を申す身にさせていただいて
お浄土への人生を生き抜かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.11.22)


円光寺
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