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お念仏を申す生活法話

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「がんばりながら、がんばらない」

2021-12-05
 今日は『御堂さん』今月12月号から
お話を紹介します。

 長野県諏訪中央病院の鎌田実先生の文章です。
たくさん本も書かれて読まれた方も多い有名な先生です。
 そのまま読みます。

 貧しい中で育ったため、生きていくには
がんばらなければならないと思ってきました。

 医師になってからも、よく患者さんに
「がんばりましょう」と声をかけました。
 いつしか、口癖のようになっていました。

 いつものように
40代の末期がんの患者さんに声をかけて
病室を出ようとした時のことです。
 患者さんが突然、涙を浮かべました。
「先生、もうこれ以上がんばれません」
ぼくはハッと気が付きました。

 どんな人でも、がんばれなくなるときがあります。
がんばりたいのに、がんばれないと感じた時
絶望を感じるのです。
 それ以来、ぼくは、患者さんや被災者など
困難に立ち向かっている人に
「がんばれ」という言葉は使わないようになりました。

 諏訪中央病院のロビーには
「がんばらない」という書が掛けられています。
 障がいを乗り越えて生き抜くために
だれよりもがんばってきた女性が書いたものです。
 彼女は、がんばるだけでは長続きしないことを
よく知っていたのでしょう。
 時どきがんばらない自分を認めてあげるからこそ
また次にがんばることができるのです。
(中略)
 うまく力を抜き、心を整えることが大事です。
「がんばらない時間」と「がんばる時間」を
行ったり来たりしながら
ちょうどいい塩梅を探っています。

 この文章のテーマは
「がんばりながら、がんばらない」です。

 私たちの阿弥陀さまのお救いです。
阿弥陀さまは「われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏とおはたらきです。

 「われ阿弥陀にまかせよ」と聞いて
そのお心をどう受けとめられますか。

 「私阿弥陀はあなたのいのちを
そのまま丸ごと引き受けたからね。
そんなにがんばらなくてもいいんだよ」
と聞かせていただきます。

 何もがんばらなくてもいいと聞くのではありません。
私たちは頑張って生きているのです。
生きていること自体が実は頑張っているのです。

 でも頑張れないんです。
頑張れなくなるのです。

 頑張ろうと生きるなかに
頑張れない自分を見させてくださるのです。

 高校の時の英語の先生の話です。
授業で「スタディ ハード」頑張って勉強しなさいと
大きな声で言った後に
小さな声で「ア リトル」ちょっとねと
言葉を添えて言うのです。
 英語が得意でなかった私には
何かちょっと救われるような思いがしました。

 ちょっとねと
一生懸命頑張れればいいのですが
そんなにいつも頑張れません。

 頑張りながら、頑張らない。
いつも私のことを心配して見守ってくださる
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中で
私にできる精いっぱいのことを頑張って
ちょっとだけさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.5)


「よかったですね」

2021-12-04
 昨日は臨終勤行(枕経)のご縁で
ご自宅のお家にお参りしました。
 今は病院施設から直接葬儀社にご遺体をおはこびして
葬儀社で臨終勤行をお勤めすることが多いのですが
昨日はご自宅のご縁でした。

 初めてのご縁の方です。
ベッドに寝たままのお姿で
お寺からご本尊の阿弥陀さまの御絵像をお供して
お勤めをしました。

 急に重い病気に罹りお医者さんから余命宣告され
入院していた病院から自宅に連れて帰り
お家で最期を看取る緩和療養をされていたと
お聞きしました。

 家族皆さんが生活する居間のベッドで
20日余り日暮らしされたということです。

 お勤めの間に電車が2回
ご自宅の前の線路を通って
電車の音が聞こえてきました。

 故郷から大分に出られて来て
お家を建てられ家族一緒の生活でしたが
最初は線路のすぐそばで
電車の音が気になったといいます。

 ベッドで病床に臥して
自分の思うことができなくなるなかで
食べるもの飲むものも受けつけなくなり
命終える時を迎えるということですが
日々の生活の中で
いつもの電車の音が聞こえてくるのです。

 生活の中の音です。
生きていることの実感です。
 何もできない歯がゆい思いいっぱいだったでしょうが
そこにいつもの電車の音が聞こえてくるということ
家に帰ってこられて20日余り
家に帰って顔色がよくなったといわれます。

 病状がよくなったのではありません。
安心したんですね。
 お家で家族と共に日暮らしするということ
家族の声が聞こえてきます
いつもの家族の生活ぶりが見えるのです。
 ままならない身のままに
家族と生活を共にできる安らぎです。

「こんなに永く生きてくれるとは思いませんでした」と
言われて「よかったですね」とつい言葉に出ました。
 大切なお方とお別れするのに
よかったということではありませんが
「よかったですね」とすっと出ました。
 頷かれていました。

 私たちのこの人生
命終わる時が必ずやって来ます。
 我が身のことです。
どんな命の終わり方かわかりません。
 病気で事故で突然ということかもしれません。
長生きして百歳を迎えてかもしれません。
若い時かもしれません。
 誰もわかりません。

 お念仏を申して生きる有難さを思います。
周りのご縁の方々のお念仏の声を聞いて
お念仏を申す身にさせていただきました。

 南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
南無阿弥陀仏の声が聞こえてきます。
「われにまかせよ必ず救う」の阿弥陀さまのお喚び声です。

 南無阿弥陀仏の声の仏さまのおはたらきで
私たちはどんな人も等しく
阿弥陀さまのお浄土への人生を生き抜かせていただき
命終わる時そのままお浄土に往生して
仏さまに成らせていただけるのです。

 今朝も6時に梵鐘を撞きました。
梵鐘の音です。
 お寺の近くのご門徒の方が
お亡くなりになることが続きます。
 病院からお家に帰られて終末期の生活です。
朝夕お寺の梵鐘の音が聞こえてきたと思います
 どのように聞かれたでしょうか。

 諸行無常の世にあってお寺の梵鐘は
真実まことの南無阿弥陀仏の音声です。
 日々の生活の中の鐘の音であり
命終えてこれからもずっと南無阿弥陀仏の声と
聞かれていかれたのではないでしょうか。

 重い沈黙を破るのは声です音です。
暗い闇を破るのは光です。
 光と声になった阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきです。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
「必ず救うまかせよ」の阿弥陀さまのお喚び声を
聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.4)


「この一年大変お世話になりました」

2021-12-03
 門徒報恩講のお参りであるお家の方から
「この一年も大変お世話になりました」と言われました。

 この一年もといっても12月が始まったばかりで
まだ一か月近くあるのですが
一月一度のお参りのご縁でいうと
これが今年最後のご縁ということです。

 このお朝事のご縁は一日一日のご縁ですので
「今年もお世話になりました」のご挨拶は
12月31日になります。

 人と人とが出会うご縁です。
一月に一度、二週間に一度、一週間に一度のご縁
出会いのなかで私たちは日暮らしをしています。

 出会いと別れの繰り返しです。
同じ屋根の下で生活を共にしている家族も
いつも一緒ということではなく
出会っては別れてということの繰り返しです。

 お経さま(仏説大無量寿経)の意訳に
「人は、この世の愛欲のきずなにつながれて生きているが
つきつめてみると
独り生まれ、独り死に、独り来て、独りゆくのである」
とあります。

 どんなに愛する人もいつまでも一緒にいることはできず
必ず別れ離れていかねばならないのです。
 それも「われや先人や先」です。

 常に変わり行く無常の世界に生きる私たちですが
真実変わらないお念仏のみ教えに
いつでもどこでも私たちは
南無阿弥陀仏の「必ず救うまかせよ」のおはたらき
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に共々にあると
聞かせていただきます。

 今生に南無阿弥陀仏とお念仏申して生きて
命終る時も南無阿弥陀仏のおはたらきで
阿弥陀さまのお浄土に生まれされていただけるのです。

 お浄土に先に往かれた方も
後に遺った私たちも
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
生かされて生きているのです。

 この一日一日が「大変お世話になりました」のご縁です。
まだまだ早いではありません。
 お念仏を申す日々の日暮らしの中に
「お世話になりました。ありがとう」と
人との出会いに感謝して
南無阿弥陀仏とこの人生を生き切って
お浄土に生まれて往きたいと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.3)

阿弥陀仏にだっこされて

2021-12-02
 今日は『大乗』(2021年12月号)のご法話から
お話をいただきます。

 小学校一年生の男の子が書いた
「だっこのしゅくだい」という作文です。

 学校の先生から「家族のみんなに
だっこしてもらうことが今日の宿題」と
言われたそうです。

 早速その子は家に帰ると
「おかあさんだっこして。宿題だから」と言って
だっこしてもらいます。
 温かくて気持ちよかったそうです。

 次に小さいおばあちゃんにだっこしてもらうと
「おおきゅうなったのう」と言われ
大きいおばあちゃんにもだっこしてもらうと
「おもとうなったのう」と言われます。
 小さい大きいは
おばあちゃんとひいばあちゃんのことだと思います。

 そしてお父さんの帰りを待ち
お父さんにだっこしてもらってから胴上げしてもらい
ふぁっと体が宙に浮いて気持ちよかったそうです。

 とてもうれしくて最後に
「まただっこのしゅくだいがでたらいいな」と
書いてありました。

 この作文を読みながら
先日ご往生された瀬戸内寂聴さんの
生前の映像を思い浮かべました。
 お寺の御堂での法話会のようすです。
たくさんの方がお聴聞されているなかで
一人の女性が手を挙げて
寂聴さんに話しかけられるのです。

 思いつめたように涙声で
「実は主人が亡くなったのですが
そのことを受け入れることができなくて
生前のことをいろいろ思い出しては
今も日々悔やむことが多く
どうしたらいいのか…」と
絞り出すような声で話すのです。

 するとじっと聞いていた寂聴さんが
女性に手招きしながら歩み寄って行かれて
女性を抱かれたのです。
そして耳元で「悲しいね。泣いたらいいのよ。
涙が枯れるまで泣いたらいいのよ」と
何度も何度も言われました。

 仏さまのお慈悲のお救いです。
私たち人間の理屈を超えて
そのまま抱き取り慈しみ悲しんでくださる
仏さまのお徳おはたらきです。

 今日ご紹介したご法話の最後には
「私たちも阿弥陀仏にしっかりとだっこされているのです。
それを現わすのが南無阿弥陀仏です。
この人生の本当の居場所は職場でも家庭でもなく
南無阿弥陀仏、お念仏の中にあるのです。
たった一人になっても、病で床に伏していても
貧しさの最中にあっても
南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出る時
それは阿弥陀仏にだっこされているということであり
どこでもない、今、ここが私の居場所となるのです」
と結ばれていました。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
共々に生かされて生きている私たちなのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.2)


二ホンミツバチの蜂蜜をいただきました

2021-12-01
 今朝6時の梵鐘を撞いて
南東の空高く冴えて輝く三日月が観えました。
 大きな風が吹いて師走になりました。
12月1日です。
 本堂にこの冬初めてストーブが入りました。
防寒の準備も整えてお朝事のご縁をいただきます。

 門徒報恩講にお参りして
あるお家で蜂蜜をいただきました。
 自家製のものです。
少しお話を聞きました。

 この辺でも趣味で養蜂をしている方が
結構いらっしゃるということです。
 この辺の蜂蜜は二ホンミツバチのもので
一般に販売されてる蜂蜜の多くは
セイヨウミツバチのものだそうです。

 専門の養蜂業者が取り扱うもので
セイヨウミツバチが集まる花を求めて
全国各地に出かけていくといいます。

 この辺の二ホンミツバチは巣箱を置いておくと
集まってくるということで
ミツバチの来るのをひたすら待つのです。
 二ホンミツバチは百花といわれる
多種の色んな花の蜜を持ってくるそうです。

 お寺ということを重ねて思います。
お寺はまさに二ホンミツバチの形態に似ています。
 決まった巣箱を作ってハチが来るのを待つんですね。
阿弥陀さまの願いが詰まったお寺は
ご門徒有縁の皆さんの居場所です。
 阿弥陀さまがひたすら私たちを
待ってくださっているのです。

 百花それぞれの蜜をもったミツバチは
生活ぶりがそれぞれ違う私たちです。
 その私たちが分け隔てなく一堂に集まれる
お寺という私たちの居場所です。

 ここに座っておくれと願われて
御仏前でご一緒にお勤めをさせていただき
阿弥陀さまのお心を聞かせていただきます。
 「一人じゃないよ。私がいるよ大丈夫だよ」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となって
阿弥陀さまがご一緒くださる心強さです。

 私一人じゃありません。
隣の人も隣の人もみんな同じお念仏のお同行が
御仏前に座らせていただく私たちの居場所です。

 これから寒くなります。
いよいよ厳しい冬の到来です。
 人生に四季に重ねて
思い通りにならないことが
次から次に起こってきますが
私たちには帰っていける居場所があります。

 南無阿弥陀仏に安心して
師走のお念仏のご縁を共々にいただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.12.1)


円光寺
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