慎太郎節
2022-02-02
石原慎太郎さんがお亡くなりになって
すぐニュース速報がかけ巡り
テレビのトップ新聞の第一面の報道です。
芥川賞作家で政治家という紹介です。
常にマスコミの注目されるところで
強面(こわもて)という印象です。
強面というと
何か暴力で周りを威嚇するイメージですが
石原さんの強面ぶりは「慎太郎節」と言われる
歯に衣を着せぬ言論にあります。
テレビ討論での立場の違う人との議論や
記者会見での報道記者とのやり取りです。
どこまでも自論を押し通し
相手の意見を聞くことなく
「そんなことも知らないのか」などと
勉強不足だもっと勉強して出直して来いとばかりに
上から目線で容赦なく相手の意見を封じ込め
徹底的に打ち負かす論鋒です。
個々の受けとめ方で好き嫌いがはっきりしますが
これが一部大衆受けするんですね。
思っていることをよく言ってくれたとばかりに
胸をなでおろす人がいたりして
だからマスコミも取り上げるのです。
ぶれない発言の政治家の真骨頂と
一部称賛されるところです。
今は多様性ということがよく言われます。
私たちが生きているこの社会には
いろんな人がいて価値観もさまざまで
考え方や意見もそれぞれ違います。
自分と異なる意見も尊重して聞くなかで
気づかされることもたくさんありますし
主義主張の違いで他者を排除するようなことでは
かえって自らを小さな世界に閉じ込めることにもなります。
私のことに引き当ててみて
自己主張を繰り返し自己保身のための議論に終始して
結局は虚しい気持ちに陥ることになることって
ありませんか。
仏法を聞くというのは
真実ありのままのわが身を聞かせていただくことです。
阿弥陀さまの智慧の光に照らし出された
煩悩具足の凡夫の身をそのまま知らされて
慈悲のおはたらきでそのまま救われるというのです。
どこまでも自己中心に生きて
自分の思い通りにならない現実に悩み苦しみ呻吟する
私たちを見て取った阿弥陀さまは
南無阿弥陀仏のおはたらきで
「わが名を称えて大きな世界に生まれて来いよ」と
喚び通しに喚んでくださっています。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.2)
「南無阿弥陀仏 あなたに 遇えて 本当に よかった」
2022-02-01
2月に入りました。
コロナウイルス感染者が大分県も急増し
感染が身近に迫ってきている危機感を覚えます。
昨日3軒のお家から
「今月の月参りはお休みしてください」と
連絡が相次ぎました。
それぞれご事情があることですが
コロナ感染に注意をされてということだと思います。
人と人とが会うなかで私たちの社会生活がありますが
コロナ禍では人と人とが会うことがままなりません。
昨日は佐賀関のご門徒さんが訪ねてみえて
特産のクロメを届けてくださいました。
有難いなと思います。
クロメも有難いですが
思いをもってくださる人のいることです。
人と人が直接会えなくても
今のネットの時代は
リモートで仕事など日常の用事もできるということですが
家族や友人大切な人には直接つながっていたいですね。
お寺のご縁このお朝事もそうです。
毎朝御仏前で皆さんに会える有難さ尊さです。
今月2月の掲示伝道のことばは
「南無阿弥陀仏 あなたに 遇えて 本当に よかった」です。
私からいうと皆さんあなたです。
そしてあなたと私をつないでくれてる
南無阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏のお念仏のあなたに遇えて
本当によかったと
ほっと安心します。
昨日のご門徒はお寺でいったら
円光寺のご門徒ではありません。
お手次ぎのお寺は違っても
私たちは皆さん浄土真宗のご門徒
共に南無阿弥陀仏のご縁をいただいた
お念仏の人です。
みんな南無阿弥陀仏の大きなご縁に
つながっているのです。
後で頂いたクロメをおすそ分けします。
おすそ分けといいますと
物でいったら人が増えれば減っていくわけですが
南無阿弥陀仏のお念仏のおすそ分けは減りませんよ。
一人一人そのまんま
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
お念仏のあなたに遇えて本当によかったと
今日一日も日暮らしをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.1)
いのち・まいにち・あたらしい
2022-01-31
土曜日曜とお朝事のお勤めを
お休みさせていただきましたが
朝は毎日やって来ます。
山門の掲示板に
「朝が来た!いのち まいにち あたらしい」
と書かせていただいています。
毎日お朝事でご一緒の皆さんは
この二日間どんな朝を過ごされましたか。
私のことでいいますと
この二日間の朝はゆっくり起きて
いつものように6時に梵鐘を撞いてから
お仏飯を申してと
一日の営みをぼちぼち始めました。
暖房の入った部屋でテレビをつけて
新聞をいつもより丁寧に読みました。
7時頃から本堂納骨堂お内仏とお参りをして
いつものメニューの朝食をいただきました。
食事は毎日欠かさずいつも同じ時間ですから
食事の時間に合わせて
お朝事のお勤めのない
この二日間の私の朝の営みでした。
私たちの日々の生活は
人それぞれに違います。
同じ屋根の下で暮らす家族も
生活ぶりはみんな違います。
毎日いつも同じような繰り返しのようであっても
その日その朝で違っているのですが
何か大事なことを見過ごしているようなことに
あらためて気づかされます。
今日は月曜日です。
梵鐘を撞く時間に鐘楼前の会社の事務所に
車が数台入ってきました。
これから仕事なのですね。
梵鐘を撞き終えてふっと
大きな灯のついた本堂が目に入ってきました。
お朝事同行の皆さんがこれから
一人二人三人とお参りされる光景を
思い浮かべて楽しみです。
お念仏申すなかに
今日の一日を始めさせていただきます。
私のことをいつも案じ思ってくださる
阿弥陀さまがご一緒です。
如来の大悲にいだかれて
「いのち まいにち あたらしい」と
すてきな一日これからの一週間を
始めさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.31)
お念仏の道ありて今ここに(2004年アーカイブ)
2022-01-30
昨日(1月29日)神崎の教尊寺さまの一尺屋の支坊の法要に
お説教のご縁をいただきお参りしました。
今は佐賀関の海岸沿いを車で20分ほどで行けますが
昭和30年頃までは一尺屋に行くのに
神崎から船で渡っていたということで
その前は大志生木から山越えして
お参りしていたというお話を聞きました。
親鸞聖人から800年蓮如上人から500年と
長い長い時間をかけて
お念仏のみ教えが私たちのところに届けられたのは
お念仏の先人のあつい思いと
大変なご苦労があったからです。
お寺のご院家さんだけでなく
一尺屋のご門徒の皆さんも船でそして山越えして
神崎の本坊にお参りしていたと思います。
それこそ何時間もかけてまさに命がけで
お念仏の道をたずねて行かれた
身近なところにもお念仏の歴史があります。
仏教がインドのお釈迦さまから始まって
中国に伝来し朝鮮半島を経て日本に入ってくる過程で
多くの方々が命を落とすようなこともあったでしょうし
大変なご苦労があったなかで
お経さまを伝えてくださったことに思いを巡らせます。
今こうして私たちがお念仏を申せることの有難さです。
有ること難き尊いご縁といただいて
いよいよお念仏申す日暮しをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2004.1.30)
阿弥陀さまは私のいのちのホームドクターです(2002年アーカイブ)
2022-01-29
月参りのお家で
病院の話になりました。
昔はかかりつけの町医者とよばれる
小さな病院が多かったのですが
今は総合病院といった大病院になっています。
大病院になると医療設備や技術も充実して
一つの病院で大方の診療ができる利点があります。
一方で「今の医者は病気をみて病人をみない」
という話を聞きます。
診察室でパソコンの画面ばかりみて
病人に向き合うことなく診察されるといいます。
お医者さんは医療の専門家ですから
それぞれの病気の処方は的確にしてくださいますが
病気になって苦悩している生身の人間を見ることに
欠けているのではないかという指摘です。
歳を重ねていくと病気になることが多くなり
病院にお世話になるのですが
平素からホームドクターという
かかりつけのお医者さんをもちなさいといわれます。
大病院に行くとその日その日で
担当医が変わることがあります。
患者の病歴カルテを診て診察するので
どの先生でも大丈夫ということでしょうが
日頃から気になることを聞いて答えてくれる
ホームドクターがいると安心です。
かかりつけのホームドクターは
私の体のことを一番よく知っているお医者さんですが
阿弥陀さまは私のいのちのホームドクターです。
体調が悪い時は病院に行きます。
病気になったら専門のお医者さんにおまかせです。
では阿弥陀さまはというと
南無阿弥陀仏とお念仏を申すところに
いつも私の身に寄り添って
ご一緒してくださっているのです。
私のいのちをそのまま引き受けてくださる
南無阿弥陀仏のかかりつけのお医者さまです。
私が頼んでも頼まなくても
阿弥陀さまの方から勝手に私のところに来てくださって
「まかせよ救う」とおはたらきです。
いつもこの私のことを案じてくれて
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.29)