「ごいんげさん」という題の作文
2022-02-07
中陰の期間七日参りのご縁で
初めてお会いする方がいらっしゃいます。
仏さまのご縁の有難さで
いろんな気づきがあって楽しみです。
昨日の七日参りのことです。
お勤めの後お茶をいただきながら
先に往かれた方の娘さんが
「ご院家さん、この前うちの子どもが・・・」
という話をされました。
小学校三年生の男の子です。
土曜日曜と学校がお休みですが
今はコロナ禍で自宅で過ごすことが多いなかで
日記の作文を書く宿題があるそうです。
この前「ごいんげさん」という題の作文を
書いていたということです。
先週の七日参りにその子どもさんも一緒でしたが
阿弥陀さまのおすがたのご法話をさせていただきました。
この仏さまは座ってなくて立っていて
お母さんのようにいつも私のことを思ってくれて
右手は「おいで」左手は「救う」と
私のところに来てくださって
だっこしてくれてる仏さまと
書いていたといいます。
お母さんのように
おいで、必ず救う、だっこするって
仏さまのお話のそのまんまです。
子どもっていうのは本当に素直で
仏さまのお話をそのまま聞いてくれて嬉しかったです。
今日の御文章さまにもいただきました
「摂取不捨」阿弥陀さまのお救いのおはたらきです。
すごいなと思ったのは
その子のお母さんです。
このたびの悲しいご縁で
初めてお話をする方です。
お仏壇のお飾りとか仏事のことを
よく尋ねて聞いてくれます。
初めてかけてくれた言葉が「ごいんげさん」でした。
ちょっとびっくりしました。
皆さんだったら聞き慣れた言い方ですが
「ごいんげ(院家)さん」は浄土真宗のお寺の住職の
昔からの親しい呼び名です。
「ごいんげさん」と呼ばれて
浄土真宗のご縁をいただいている方かなと思って聞くと
嫁ぎ先のお家が浄土真宗のお寺の
ご門徒さんということでした。
有難いと思うのは
「ごいんげさん」が身についているということです。
日頃からお母さんの声になって
子どもさんに届けられて
「ごいんげさん」の作文の題になったのでしょう。
「ごいんげさん」の作文を読まれて
学校の先生はどう思われるのでしょうかね。
また楽しみです。
私たちは日常生活の中で
知ってるつもりでも知らないことがたくさんあります。
仏事のことは尚更知らないことばかりといっても
いいのではないでしょうか。
今はスマホで調べればすぐわかっても
その時だけの知識ですぐ忘れることでもあります。
便利な世の中になりましたが
本当に大事なことが身につきません。
小さい頃からのお育てです。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいて
お念仏申す身にさせていただくのです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
私一人ではなく隣の人も隣の人も隣の人も
みんなそのまま共に抱かれて
今日のこの私にお育ていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.5)
「大きくなったら何になる?」(2010年アーカイブ)
2022-02-06
あるお寺の保育園の園長先生でご院家さんが
園児たちに「大きくなったら何になる?」と
聞いたそうです。
思い思いの答えが返ってきたといいます。
「小学生になる」という声があがると
みんなから「小学生」「小学生」と声が上がったそうです。
「小学生の後は何になる?」「中学生」と
「中学生の後は?」「高校生」と
「高校生の後は?」「大学生」との声で盛り上がります。
今の子どもは偉いなあ
人生設計がしっかりしていると感心したといいます。
「じゃあ大学生の後は?」と聞くと
ちょっと考えて「大人」と
大人になるという返事です。
「じゃあ大人の後は?」
「おじいちゃんおばあちゃん」と。
「じゃあおじいちゃんおばあちゃんの後は?」と聞くと
ちょっと答えが出てこない様子です。
その時にある女の子が「お骨になる」と言ったそうです。
というのは、その女の子のおばあちゃんが
つい最近亡くなって火葬に行って
おばあちゃんがお骨になったことを見たんだそうです。
「お骨になる」と聞いて
他の子はきょとんとしています。
何のことかよくわからない様子です。
そしたらある男の子が
「園長先生違うよね。
お骨じゃなくって仏さまに成るんやねえ」と
言ったというお話です。
園児の殆どはそこのお寺のご門徒さんということですが
その女の子のご家庭は門徒だけれども
あまりお寺へのお参りがないといいます。
一方その男の子は日頃からおじいちゃんおばあちゃんが
よくお寺にお参りされるということです。
宗教的情操といいます。
今家庭に宗教的な雰囲気空気がなくなったといわれます。
お家にお仏壇はあるけれども
いつも閉まっているほこりをかぶっているといいます。
お仏壇を通して大切なものを
子や孫に伝えていくことが難しくなっています。
私たちもその大切なものを伝えられて
今ここに仏さまのご縁をいただいていますが
そのご縁がなくなってきているという
一つの象徴的なお話です。
さあ皆さんどうですか。
皆さんのご家庭で子どもさんにお孫さんに
今のようなお話をしたときに
何と答えてくれるでしょうか。
大事なことです。
私たちは死んだらおしまいではなかったですね。
確かにこの命は終えますが
そのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただいて
仏さまに成らせていただくのです。
そのこと一つ聞かせていただくのが
仏さまのご縁なのです。
お聴聞とはここなんですよね。
南無阿弥陀仏のみ教えに
私たちは「私一人じゃなかった」
あなたもあなたもあなたもみんな
阿弥陀さまの大きな大きな願いの中に
生かされてあるいのちであると聞かせていただいて
日頃からお念仏申す生活をさせていただくのです。
死んでから後のことではなく
この日常に「あなたに会えて本当によかった」と
共に手を携えてお念仏を申しつつ
阿弥陀さまのお浄土へお浄土へと
お念仏の道を人生を歩ませていただきます。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中にあることを
今一度私のこととして聞かせていただきました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.2.6)
お念仏の一門(2010年アーカイブ)
2022-02-05
昨日横綱朝青龍が引退したことで
大相撲の一連の騒動が一段落ついたことです。
この騒動を通して大相撲の伝統的な世界観を
学習しました。
一門という組織のあり方です。
二所ノ関一門とか高砂一門とか時津風一門とかです。
一門とは一つの門という組織です。
一門を裏切ったとか、一門を出て行ったとか
破門したとか
厳しい言葉が飛び交って
一門の結束力組織力が垣間見えたことです。
仏教は成仏道といって
迷いの私がさとりの仏に成る仏道を説く教えです。
仏道を歩む実践者が仏教徒です。
浄土真宗では門徒といいます。
一門の輩(ともがら)であり
同じ浄土真宗の門流に属する人のことをいいます。
仏教の教えそのものを門といい
大きく浄土門と聖道門の教えに分かれます。
自ら厳しい修行を積んで仏のさとりを得る仏道を
聖道門といいます。
浄土門は阿弥陀さまのお浄土に往生して
さとりの仏さまに成らせていただく仏道です。
仏道の仏門には破門とか排除とかは一切ありません。
その人人がどの仏道を選んで歩むのかが大事で
仏さまはその人人を選びません。
浄土門のなかにも浄土真宗があり、浄土宗があり
時宗がありと、仏道はさまざまですが
浄土真宗は浄土門のなかでも他力浄土門といい
阿弥陀仏の本願力のおはたらき一つで救われる仏道で
私が仏に成らせていただく仏道はこの道だと
聞かせていただきます。
聖道門の修行をされている方や浄土門の他流の方を
悪く言うのではありません。
学問修行を積んで仏道を極めている人は
本当に尊いお方です。
末通った修行の一つもできない救われようのない私を
救わずにはおかないとすーっとお立ちになって
南無阿弥陀仏「必ず救うまかせよ」とおはたらきの
阿弥陀さまがいつもご一緒してくださる
浄土真宗のご法義です。
南無阿弥陀仏のおはたらきに信順まかせて
お浄土に往生させていただくお念仏の仏道です。
今日も南無阿弥陀仏とお念仏を申して
共々に歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.2.5)
恵方巻か豆まきかそれとも・・・それぞれのお念仏を申す生活です
2022-02-04
今日は立春です。
暦の上では春になるということです。
旧正月という言い方があって
中国の春節だけでなく韓国やベトナム、シンガポールなど
多くの東アジア諸国では
春を迎えるこの時期に一年がスタートする習わしです。
昨日は節分でした。
ラジオで「節分には豆まきか恵方巻か」と
リスナーの声を聞いていました。
縁起物です。
一年季節の移ろいの中で
節目節目に先人が行ない伝えてきたものです。
私の方も夕食に巻寿司をいただきました。
普段のお店の巻寿司ですが
「恵方巻」と包みに書かれてありました。
新聞の広告の恵方巻を見るとすごいですね。
海鮮ものをはじめ色んな食材が入っています。
一般的な巻寿司は卵焼きと干瓢が入って
元々シンプルで食べやすい食べ物ですが
他の店との差別化をはかることで
具が多くなり今は豪華な太巻きです。
恵方という方角に向かって一人黙って一本食べ切るのが
恵方巻の流儀といいますが
食べ切らないと恵方のご利益がなくなるのでしょうかね。
大変です。
そこで一本を二分の一にした
ハーフの恵方巻がでてきたり
お菓子屋さんはロールケーキを食べましょうと
売り出しているそうです。
商魂たくましいですね。
縁起物ということで
節分の日に色んな巻寿司がお目見えして
これもまた楽しんだらいいですね。
恵方巻か豆まきかそれとも何もしないか
それぞれの選択それぞれのお念仏を申す生活です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.4)
新庄ビッグボス「もったいない」
2022-02-03
今日2月3日は節分です。
長い冬を終えてこれから春に向かう季節の移ろいのなかで
明日が暦の上で立春という大きな節目になります。
2月に入ってスポーツイベントがいよいよ花盛りで
明日から北京で冬のオリンピックが始まり
球春といってプロ野球のキャンプもスタートしました。
今シーズンの一番の注目は日本ハムの新庄監督でなく
ビッグボスです。
何かパフォーマンスばかりが目立っていますが
しっかり選手を見ているということが
キャンプ初日を終えてのコメントに伺えました。
選手の練習をみていて
「もったいない」との発言です。
「練習のための練習に終わっている」
「いつも試合に臨んでいるような気持ちで
練習してほしい」と辛口のものでした。
「お念仏も練習しないと声に出ないし
身につかない」というお話を思い出します。
お念仏も練習だというのです。
お朝事お同行の皆さんは
ナマンダブナマンダブと自らこの口から
お念仏が出てくださる
お念仏を申す身にさせてもらっていますが
最初はお念仏を声に出すのは
難しかったのではありませんか。
お念仏の練習の成果お育てをいただいて
今この身のままにお念仏申す身にさせていただいたのです。
お念仏を申す練習です。
どこで練習できるかというと
この御仏前です。
それも一人では中々声に出ませんから
今日のような皆さんご一緒のお寺のご縁が最適です。
つられ念仏です。
周りの皆さんにつられてお念仏が声に出るのです。
そして皆さんのお家のお仏壇です。
お墓もお念仏の練習場所です。
いつでもどこでもお念仏申していいのですが
これは難しい。
だからこそお寺でお仏壇でお墓で
お念仏の練習をさせてもらうのです。
ただ「練習のための練習ではもったいない」との
新庄ビッグボスの言葉を借りれば
「お浄土に生まれたい」と思って
南無阿弥陀仏とお念仏の練習をするといいでしょう。
浄土真宗のご法義は
お念仏は救いの条件ではないといいます。
お念仏を申したから救われるというのではなく
お念仏のお心を聞いてくれよというのです。
お念仏を申す身にさせていただくと
平生ふっと出てくださる南無阿弥陀仏のお念仏が
そのまま阿弥陀さまのお喚び声と聞こえてきます。
「我にまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
「いつも私が一緒だから大丈夫安心して
あなたの命精いっぱい輝かせて一緒に生きて往こう」と
頼もしい声に聞こえてきます。
南無阿弥陀仏はこの身に付いたら離れません。
今日も大きな声でお念仏の練習ができました。
ありがとうございます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.3)