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お念仏を申す生活法話

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小さなお同行がご法事にお参りです(2011年アーカイブ)

2022-02-12
 昨日は建国記念日の祝日でご法事があって
小さなお同行の子どもさんがお参りでした。

 お参された大人の皆さんと同じように聖典をお配りして
お正信偈さまのお勤めを一緒にしてくれました。
 漢字のふり仮名を追っていっては
大きな声で読んでくれます。
 大人は中々声が出ませんが
子どもはそのままです。
 そのことがその場の雰囲気を和らげて
賑やかで有難いご法事のご縁になりました。

 年回のご法事は悲しみのご縁で始まります。
大切な方とお別れするこれほどの悲しみはないご縁です。
 悲しみのご縁ですが
そのまま先に往かれた方をお浄土の仏さまと仰ぎ
ご一緒に阿弥陀さまのお徳をほめたたえる
仏德讃嘆のご縁といただきます。

 仏さまのご縁です。
先に往かれた仏さまがこの身を御仏前に座らせて
手を合わさせお念仏申す身にさせてくださるのです。

 駐車場の道沿いのフェンスにかけた横断幕に
「いのち みんな つながって ひとつ」と掲示しています。
 親鸞聖人750回大遠忌法要に向けて
円光寺のスローガンです。

 日頃は私が私がと自己中心に生きる者同士が
仏さまの御仏前に一緒に座ることができる
仏さまのご縁です。

 ご法事のご縁で浄土真宗のみ教えを
聞かせていただきます。
 お念仏申して阿弥陀さまのお浄土に
生まれさせていただく真実まことの教えです。

 生活ぶりはそれぞれ違う私たちですが
お浄土一つの世界に共に往生させていただく
お念仏の道を阿弥陀さまが開いてくださり
親鸞さまが明らかにしてくださったのです。

 それは死んでから後のことではなくて
今こここの私に開かれた道です。
 お念仏申して来いよと阿弥陀さまのお喚び声を聞きつつ
日々お念仏を申す生活をさせていただきます。

 先に往かれた方のご法事で
御仏前に有縁の皆さんが一堂に集い
小さなお同行の大きな声につられて
ご一緒にお念仏申させていただいた
尊い仏さまのご縁になりました。
 
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.2.12)


ファイザーかモデルナか

2022-02-11
 昨日コロナウイルスの3回目のワクチン接種に
行ってまいりました。

 接種についてファイザーかモデルナかという
ワクチンの選択が問題です。

 どちらを選ぶかといわれて
難しいですね。
 私は1回目2回目に接種した会場で打ちましたから
その接種会場で決められたワクチンでした。

 副作用のことに関して
フアイザーがいいとかモデルナがいいとか言われます。
 これまで世界中でファイザーもモデルナも
多くの人が接種しているわけですから
副作用の有無も含めて
接種後のデータはネット等で見れますが
その人人それぞれのことで
参考になるようでかえって迷ってしまいます。

 健康な体に異物を入れるわけですから
何らかの副作用も出てくると思うのですが
生死にかかわったり後遺症がのこることでは困ります。
 ワクチン接種が現状でコロナ感染対策の
有効な手段ということもわかります。

 どうしたらいいのでしょう?

 世界各国でファイザーの接種が先行し
安全性が立証されているとか
モデルナも安全性は確かで
ファイザーを2回接種し
3回目はモデルナがより効果的だとか
いろんな情報が飛び交って
結果ファイザーが供給不足になってモデルナが余る事態に
尾身会長や小池東京都知事が
3回目はモデルナを打ちましたと明かす始末です。

 皆さんはどのように選択しますか?

 私は同じ会場ということで選択しました。
あれこれ考えてもそれに周りからあれこれ言われたら
迷うなかにまた迷ってしまいます。
 最終的には私が決めることですが
決めていただくということで
会場が決めたワクチンという選択でした。

 浄土真宗のみ教えでは
お念仏の人が命終えて生まれ往くところを
阿弥陀さまがお浄土と決めてくださっていると
聞かせていただきます。

 私たちはいつか必ず命終えて行きますが
命終えてどこに行くのでしょうか?

 お浄土の他に選択肢を示されて
どこを選ぶかといわれたら迷いますね。

 それこそ行って帰ってきた人がいないという言い方で
考えても誰も分からないことで
「人間死んだらゴミになる」などと
遺骨になる見たままのことを言う人もいます。

 死んだら終いでなるようにしかならないと
達観しているような方も
待ったなしのその時が来たらどうでしょう。

 阿弥陀さまは生死(しょうじ)の苦悩に迷う私を見抜かれて
阿弥陀さまの方でこの私が生まれて往くところを
お浄土と決めてくださったのです。

 私に選択を迫るのではなく
阿弥陀さまが選んでくださったお浄土です。

 親鸞さまの師匠法然さまの主著が
『選択本願念仏集』です。
 私の選択ではありません。
本願念仏という阿弥陀さまの選択です。

 阿弥陀さまの本願他力回向のおはたらきです。
「われにまかせよ必ず救う」南無阿弥陀仏のおはたらきに
まかせるかまかせないか、信か疑なのです。

 阿弥陀さまの南無阿弥陀仏の仰せに
「おまかせします阿弥陀さま」とお念仏を申して
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただくのです。

 昨日会場に行ったときに
ワクチン接種の人が誰もいなかったら
ものすごく不安になりますが
大丈夫でした。
 多くの人が次から次に接種に来ていて
安心して接種を受けました。

 お浄土もそうです。
往って一人じゃ「こんなはずじゃなかった」と困ります。
 お経にお浄土を俱会一処の世界と書かれてあります。
(とも)に一処で会える世界ですから
お浄土には私たちの懐かしい方々が往ってらっしゃって
お浄土で再び会うことができるのです。
 私たちの凡情までも汲み取ってくださる
阿弥陀さまの大悲のお救いです。

 接種会場でご一緒した皆さんそれぞれに
いろんな思いがあると思います。
 この後はどうなるか。
今日は二日目で前回のことでいったら熱が出そうですが
対処法も聞いてまいりました。

 そのことも含めて「おまかせします阿弥陀さま」と
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日一日も日暮らしさせていただこうと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.11)


ツ子ばあちゃんの口癖

2022-02-10
 今日2月10日は先々代円光寺第16世の
藤並ツ子坊守の祥月命日です。

 昭和35年の往生ですから
63回忌のご縁です。
 私が小学校1年の2月のことで
もうすぐ2年生になる時です。

 昭和35年当時からいうと
お寺の佇まいも周囲の生活環境もすっかり変わりましたが
自然環境はそんなに変わっていません。
 2月のこの時期は立春を過ぎて
朝陽が明けるのが早くなり夕方暮れるのが遅くなって
いよいよ春到来と暖かい春が待ち通しのですが
まだまだ寒いです。

 そうした自然環境日々の生活のなかで
祥月命日をご縁に先に往かれた方のことを偲びます。

 74歳でした。
父も74歳です。
 私も今年70歳になります。
段々近づいてきました。
 62年経って遠くなるのではなく
いよいよ近くなって懐かしく思います。

 ツ子ばあちゃんの口癖が
「あがりよ」「たべよ」だったと
後でいろんな人から聞きました。

 「あがりよ」とご縁の方を家に招き入れて
「たべよ」と食べ物をすすめるのです。
 戦後の物のない時代です。
「あがりよ」「たべよ」と言われて
多くの方がお寺で安心のひと時を過ごされたと思います。

 お寺に豊富に物があったのではありません。
お寺も貧しかったのですが
仏さまのお供えがありました。

 お寺にはお米があがっていました。
今もお仏飯米というご門徒皆さんのご懇志です。
 仏さまにお供えされたお米がお寺の生活の糧であり
お仏飯でお育ていただくのです。

 このお米をばあちゃんは
ポンポン菓子にしていました。
 ポンポン菓子屋さんがたまに来ては
お寺の山門前でポンポン菓子を作ってくれるのです。
 庫裡の内所にポンポン菓子のいっぱい入った
大きな缶包みがありました。

 日頃お寺に来られた人に
ポンポン菓子を紙袋に入れては
「たべよ」とあげるのです。
 有り難いご縁だと思います。

 今はお家にもあったり
お店で買えば何でも手に入りますから
かえってそんなものは迷惑かもしれません。

 でもその当時です。
お寺にお参りして
仏さまのお供えのお下がりをいただくのです。

 日々の生活そのものが
お念仏の生活だったなと思います。
 懐かしく思うだけではありません。
今でもできることがあるのではないかと思います。

 私もこれからどれだけ命あるか分かりませんが
ツ子ばあちゃんの「あがりよ」「たべよ」のお心を
何らかの形にして今できることを
精いっぱいさせていただきたいと
2月10日ツ子ばあちゃんの祥月命日に思うことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.10)


私の本当の応援団

2022-02-09
 今北京冬季オリンピックが開催中で
連日テレビで日本選手の活躍を観ています。

 4年に一度のオリンピックは
他の世界大会とは別物で
いろんなことがおこります。

 昨日は男子フィギアで三連覇を狙う羽生選手が
ショートプログラムまさかの8位スタートで
金メダル獲得が厳しい状況です。

 オリンピックのメダルは特別なものなのでしょう。
選手関係者だけでなく多くの人から
期待を込めて注目されます。

 結果が全てという言い方をされます。
メダリストと4位の選手の違いをみると明らかです。
 メダリストはすぐテレビに出演して
みんなの称賛の的ですが
4位になるとテレビに出ることもありません。

 一昨日はスキージャンプの混合団体競技で
日本女子のエース高梨選手が一回目大きなジャンプの後で
失格になって結局はメダルには届きませんでした。

 口を真一文字に涙ながらに二回目を見事に飛んで
高梨選手の凄い精神力に驚嘆しますが
彼女は「申し訳ありませんでした」と声を振り絞って
テレビカメラに向かって深々と頭を下げました。

 女子モーグルの競技では
今季世界ランク1位の17歳の高校二年生が
金メダルの期待がかかる中で結果は5位でした。
 彼女もまた「申し訳ありません」と
頭を下げました。

 私たちはモーグルもジャンプもその他の
冬のオリンピック競技を普段見ることはありません。
 新聞にはワールドカップなどで
優勝した時は小さく載りますが
マスコミはじめ私たちは無関心といっていいほど
日頃はそんなに注目していません。

 それがオリンピックになると
マスコミ情報に乗って熱心なにわか応援団になるのです。

 選手にとっては厳しい練習と努力を積み重ね
夢かなって勝ち得た4年に一度の
オリンピックの大舞台です。
 世界ランク1位とかですぐ金メダルを期待され
メダルを獲って当然みたいに報道されますが
現実はそんなに甘いものではないことは
選手が一番分かっていることです。
 世界にはたくさんのメダル有力選手がいて
みんなオリンピックに標準を合わせてきているのです。

 今はSNSで世界中の人が
自分の思いを発信できる時代です。
 メダルの有無に関係なく選手を敬い
これまでの努力を称賛する声がある一方で
選手のことをよく知らないのに
マスコミの評価と結果だけを見て
誹謗中傷するような発言もみられるということです。

 自己中心のこの私のものの見方です。
自分本位に湧き上がり悔しがっては
すぐ忘れるのです。
 それが私です。

 結果が出なかったことに一番悔しい思いをしているのは
選手本人です。
 高梨さんにしても高校二年生にしても
忘れることができないことだと思います。
 またそれを力にするのが
一流の選手といわれます。

 本当の応援団はこういう時にこそ
そばに寄り添ってサポートしてくれる人です。

 私たちの日々の生活の中で
私が言ったことしたことで
相手を傷つけるようなことってありませんでしたか。
 大抵気づいていないことで
忘れてしまっていることです。

 逆に人から言われたことされたことで傷ついて
今でも忘れられないことってありませんか。

 自分がしたことは忘れても
人からされたことは忘れられないのです。

 そういう私たちが共に生きているこの社会です。
みんな言ってるみんながしているという言い方で
自分を正当化し自分の都合を押し通して
他者を責め自分を保身しているところがありませんか。

 私たちは自己中心の狭い世界の中で
安心しているのですが
結局は本当のことが分からないままに
苦しみ悩み迷っているのがこの私なのだと
仏法に聞かせていただきます。

 親鸞聖人のお言葉を借りれば
阿弥陀さまに見抜かれた煩悩具足の凡夫のこの私です。

 阿弥陀さまはこの私をこそ救わずにはおかないと
「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏のおはたらきで
私ところに来てくださっているのです。

 南無阿弥陀仏の深く広い智慧と慈悲のお心で
小さな世界に閉じこもっている私に
大きな世界に生まれて来いよと
喚び通しに喚んでくださる南無阿弥陀仏のお念仏の声です。

 お念仏のお心おはたらきを聞かせていただき
南無阿弥陀仏とお念仏を申す身に
させていただきましょう。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申すこの声が
隣の人隣の人にそのまま聞こえていきます。

 今日も大きなお念仏の声が聞こえてきました。
お念仏を申す日々の生活のなかで
今日もまたメダルはどうかなと
日本選手を応援する私です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.9)


阿弥陀さまのお喚び声

2022-02-08
 お寺の住職の大きなおつとめが
お預かりしているご門徒有縁の方の
臨終に立ち会うことです。

 臨終とは終わりに臨むと書きますから
まだ息があるうちということですが
臨終勤行にお参りする時には
すでにお亡くなりになっています。

 ご遺族ご親族の方々が一緒にお参りです。
人と人との出会いがあって別れがある
この人生は出会いと別れの繰り返しです。

 大切なお方との愛別離苦の悲しいご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただきましょうと
仏教浄土真宗のご法義阿弥陀さまのお救いの
本願念仏のみ教えをお取り次ぎさせていただきます。

 死んだら終いのいのちではなく
阿弥陀さまのお浄土の仏さまとなって
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
これからも共々に生かされて生きて往けるのです。

 私の思い通りに生きることができない
ままならない人生であり
死の縁無量でどんな命の結末か誰もわかりません。
 歳をとった順番に
命終えて行くことでもありません。

 難しい病気の告知を受け医者から余命宣告をされた
50代の女性のお話です。

 90歳近いお母さんが病室に娘を訪ねてみえて
「もう何も間に合わんようになったのう。
今日はお念仏さまをお供して来たぞ。
つらかったら称えんでもええ
聞かせてもらえや聞かせてもらえや」と言って
私の側で静かにお念仏を称えてくれましたと。

 母の称えるお念仏を聞きながら
如来のお慈悲のありったけを
私一人がいただいていることに気づき
うれしくてもったいなくて
思わずお念仏をさせていただいたということです。

 お念仏の声です。
お念仏申せよと言われて出るお念仏ではありません。

 山陰の源左同行が
「出る念仏は抑えんでもええ
出ん念仏を無理に引っ張り出さんでもええ
助けにゃおかんの大願じゃけのう」と
「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきに
そのままこの口から出てくださるお念仏なのです。

 私がお念仏申したから
阿弥陀さまが救うてくれるんじゃない。
 阿弥陀さまのお救いが先じゃということです。

 蓮如上人が御文章さまに「往生一定御たすけ治定」と
繰り返し述べられている阿弥陀さまのお救いです。
「仏のかたより往生は治定せしめたもう」と
阿弥陀さまの方で私の往生は
もうすでに決めてくださってあるというのです。

 仏のかたよりとは阿弥陀さまのおはからい
南無阿弥陀仏のおはたらき一つということです。
 そこに私たちのはからいが入るから
おかしくなるのです。

 南無阿弥陀仏のお心をそのまま信じて聞いてくれよと
阿弥陀さまの仰せご催促です。

 お母さんのお念仏を聞かせていただいたんですね。
「称えんでもいい聞かせてもらえよ」と
「私がいるよ大丈夫だよ。まかせよ救う」の
南無阿弥陀仏阿弥陀さまのお喚び声です。

 臨終勤行のご縁で
ご一緒にお念仏申させていただきます。
 阿弥陀さまの頼もしいお喚び声が聞こえてきます。
「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀
つれてゆくぞの 弥陀のよび声」です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.8)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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