水曜学校の修了式です(2014年アーカイブ)
2022-03-13
昨日は子ども会の水曜学校の修了式を行いました。
この一年も毎週水曜日の4時から5時までのプログラムで
水曜学校を続けてきましたが
各学年の修了式そして6年生の卒業式です。
二人の六年生のお友だちが
一年生の頃からずっと水曜学校に通って来てくれました。
できることのようで中々難しい
大変なことです。
子どもたちもそれぞれ忙しいのです。
水曜日は小学校の全学年で
午前中で授業が終わり給食の後下校になります。
そこでこの時間に水曜学校を始めたのですが
スポーツ少年団も塾や習い事も同じように
この時間に合わせようとしますし
子どもの一番の楽しみは
友だちと自由に好きな遊びをすることでしょう。
実に水曜日の4時から5時までは
子どもたちにとって本当に貴重な時間なのです。
ようこそ円光寺の水曜学校に
通ってくださいました。
私たちは仏さまの教えを聞かせていただきますが
仏教は縁起の教えといいます。
ご縁ということです。
ご縁つながりと申します。
仏さまからいうと
私たちのいのちはすべてつながっているといいます。
同じ根っこにつながったいのちなのです。
お花もみんな根っこがありますが
この目には見えません。
根っこがなかったらきれいな花を咲かせることも
実をつけることもできません。
根っこは見えませんが
いのちの根っこは肝心要です。
私たちのいのちの根っこも見えないので
この目で見えるところで善いとか悪いとか
美しいとか醜いとか
何やかんや言っているのでしょうね。
そうした私たちのものの見方を超えて
みんなすべてつながってあり
大きないのちのつながりのなかに
仏さまのご縁といただけるのです。
水曜学校の修了式です。
終了、終わりです。
何でも始めがあれば終わりがありです。
私たちのこの命も
この世に生まれたということは
いつか必ずこの命を終えていかねばなりません。
人の命の終わりですが
これからもずっとつながってあるというのです。
過去現在未来と時間的なつながりでもありますが
空間的にもつながって
大分、日本、中国、アメリカ、ヨーロッパ、
アフリカ、オーストラリアとみんなつながってあるのです。
南無阿弥陀仏のご縁つながり
お念仏のみ教えです。
大きないのちのつながりの中に
みんな互いに生かされて生きてあると聞かせていただくと
本当によかったとほっと安心できます。
この目には見えないけれども仏さまのご縁つながりです。
こうして御仏前に座らせてもらうと
阿弥陀さまのおすがたがそのままこの目に見えます。
私のことをいつも思ってくださり
「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私をそのまま摂め取って捨てない
大慈悲のおすがたです。
お念仏のおはたらきは私一人だけではなくて
私の隣の人も隣の人も
人間だけではなくてあらゆるいのちも
御仏前に確かに確かにつながってあることに
安心できるのです。
ここだけではありません。
仏さまのおはたらきは
私たちが生きているすべてのところにどこでも
南無阿弥陀仏と届いてくださり
私と共に生きてくださってあるのです。
そのおはたらきのすがたが
南無阿弥陀仏なのです。
南無阿弥陀仏は
いつでもどこでもだれにでも届けられている
阿弥陀さまの「まかせよ救う」のおはたらきです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日も一日共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2014.3.13)
だいじょうぶ仏教です(2013年アーカイブ)
2022-03-12
昨日3月11日は2年前に起こった東日本大震災の日で
被災地そして日本各地で追悼行事があり
円光寺でも三回忌法要をご門徒皆さんと
お勤めさせていただきました。
新聞テレビ等で読んだり観たりすることで
二年経ってあの時こんなことがあったのかと
思い知らされます。
地域の方々で構成された消防団員の方も
震災当日救援活動に出て何人もお亡くなりになっています。
ボランティア消防団員さんです。
水門を閉じに行ったり
避難をすすめる半鐘を鳴らし続けたり
寝たきりの方を最後まで救助しようとして
津波にのみ込まれて亡くなっていかれたといいます。
生き残った団長さんが亡くなった団員の方の自宅に
お参りをすることができなかったということで
やっと去年の12月にお参りできたといいます。
ご遺族ご家族の方が温かく迎えてくれたといいます。
逃げようと思ったら逃げられたわけです。
でもすぐ周りに倒れている人がいて
そのまま見過ごすことができなかったということです。
まさに仏さま菩薩さまのお心行いです。
先日結婚式の披露宴のスピーチで
「私たちの仏教はだいじょうぶ仏教だ」と聞きました。
大乗とは大きな乗物です。
大乗仏教とは自利利他といって
他を利する他を救うことによって
自利自らが救われていくという教えです。
私が救われてそれから他を救うと
自らの救いを優先するのではありません。
他を救うことによって
私もまた救われるのが大乗仏教です。
私の聞き違いかもしれませんが
だいじょうぶ仏教と聞こえました。
大丈夫の大丈夫仏教です。
「いつでもどこでもどんな状況にあろうとも
私が一緒だから大丈夫だよ」という
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声です。
その南無阿弥陀仏のお喚び声おはたらき一つにまかせて
私たちはどんなことがあっても
この人間界を生き抜くことができるよとおっしゃるのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申したところで
あの地震津波の被害がなくなるのか少なくなるのか
そういうことではありません。
私たちはこの限りある人生
無常の人生を生きていかねばなりませんが
南無阿弥陀仏の真実まことの依り処をいただいて
生きて往けるというのです。
この命はいつかは必ず終えていきますが
南無阿弥陀仏のおはたらきで阿弥陀さまのお浄土に生まれて
仏さまと成ってこの迷いの世に還って来て
自利利他の菩薩行ができると聞かせていただきます。
「大丈夫だよ」のお喚び声を聞きつつ
今日もお浄土への人生を生き抜かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.3.12)
一人一人の生死のいのちに向き合う
2022-03-11
今日3月11日は東日本大震災が起こった日で
今年で11年になります。
1万5900人の方がお亡くなりになり
今も2523人の方が行方不明ということです。
一人一人の方が亡くなっていくことは
その人人の話ではなくてこの私のことなのです。
私たちはどんな人も
人間に生まれて生きてそして命を終えていきます。
死の縁無量といって
命を終える縁は人それぞれ違います。
歳を重ねる中に病気になって
命終えていくということでしょうが
思い通りにはいきません。
東日本大震災では老若男女老少不定の理にあって
家族友人大切な人との突然の別れに
深い悲しみに打ちひしがれた方が多くいらっしゃいます。
そして今この時間もウクライナは戦争の最中にあって
たくさんの人が亡くなっています。
コロナ禍で亡くなる方も
後を絶ちません。
昨日の夜電話がありまして
ご門徒さんが亡くなったということで
これから臨終勤行にお参りします。
それぞれの死
それはその人その人のいのちの人生ですが
仏法を聞かせていただきますと
死んだら終いではなくて
このいのちはこれからもずっとつながっていくと
教えていただきます。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
私たちは生かされて生きてあるというのです。
大震災は大自然の脅威の中に
為すすべもありませんが
戦争はどういうことでしょうかね。
人間の思いはからいが集団になると
自分一人の力を超えた
思い通りにならないどころの話ではなく
どうしようもない無力感のなかに
為すすべもありません。
戦争は人間が為す行為ですから
止めることもできるのは人間です。
戦争に真の勝者も敗者もなく
多くの人が命を失いこれまで積み上げてきた生活も
自然環境も破壊して残るのは
何でどうしてという重苦しい焦燥感だけです。
これほどもったいない
愚かな行為はありません。
そしてこの大震災です。
何でどうして東北の地に大きな地震津波が襲って
多くの人が亡くなっていくのかと
今も何でどうしてと自問自答するなかに
私たちの日暮らしがあることを
聞かせていただくことの大切さです。
お念仏を申してそれこそ自分の思い通りに
生きていければいいのかもしれませんが
思い通りにいかなくて呻吟するなかで
有ること難いこのいのちを
今日も生かされて生きて往けるのです。
今日の一日も精いっぱい
私にできることをさせていただきましょう。
阿弥陀さまの大きな願いがかけられたいのちを
生かされて生きてあることを
今日の東日本大震災の日に聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.11)
仏壇店でお仏壇の話
2022-03-10
昨日用事があって近くの仏壇店に
久しぶりに行きました。
先客があって待ち時間に
少し店内を見学してまわりました。
仏壇店ですから
入店してすぐ目に入るのはお仏壇ですが
少しこれまでと様子が違っていました。
各宗派でお仏壇が違います。
浄土真宗でいったら
無量光明土のお浄土を表す金仏壇です。
ご門徒皆さんのお家のお仏壇も殆どが金仏壇で
仏間の中心にデンとご安置された大きなお仏壇もあります。
ところが金仏壇が見当たらないのです。
他宗派のお仏壇も含めて紫檀黒檀などの
家具調の仏壇が殆どというか皆そうでした。
後で店長さんに尋ねたら
金仏壇は二階にありますということでした。
要は金仏壇を求める人は皆無に等しく
営業にならないということです。
今皆さんが求められるのは
家具調のコンパクトな仏壇だそうです。
今のお家の造りでいいますと
仏間というお部屋はありません。
お仏壇をご安置する所が無いのです。
そして歳を重ねて大きなお家から
マンションやアパートに転居する方が多くなり
益々昔ながらのお仏壇の需要が減り
若い世代を中心に家具調のものが
主流になったというのです。
そして仏壇を選ぶ大きな基準が価格ということで
大体20万円から30万円位のものを求められるといいます。
小さなものでいったら仏具を入れて
10万円以内で抑えられるものもありました。
今は何でもネットで購入できることで
仏壇店もお商売が大変でしょうと聞くと
ネットで予め情報を仕入れてきて
直接価格交渉されるといいます。
値引きが始まるのです。
仏さまのことで値引きってと思いますが
今は何でもそういう時代ということでしょう。
私たちのものの見方です。
変わるんですよね。
その時代社会のあり方で移り変わることは世の常で
それなりに対応していくことが肝心ですが
お仏壇を求めるということは
お家にお仏壇をご安置する気持ちがあるということです。
お仏壇の前に座って手を合わせお礼ができるのです。
お家の中心に座らせていただき手が合わさり
この口からお念仏が出てくださる
お仏壇の効能有難さです。
それこそお仏壇を求めるということすら無くなったら
どこに向かって私たちは手を合わせるのでしょうかね。
お礼ができる頭が下がるのでしょうかね。
ご先祖を偲ぶことができるのでしょうかね。
お寺と仏壇店さんお互いに
仏事のご縁をいただいく者同士
仏さまのご縁を愈々大事にしていきましょうと
お話したことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.10)
阿弥陀さまのお慈悲の中にこれからもずっと一緒です
2022-03-09
昨日お朝事の後に電話がありまして
お葬式ができました。
数日前に「お寺の納骨堂に空きがありますか」と
相談にみえたお家の方です。
お話を聞きますとご主人が悪くて
取り詰めているということでした。
初めてお会いする方でしたが
お寺のご門徒のご縁の方で
葬儀社も決めているということで
「その時はお願いします」と帰られました。
早速臨終勤行に葬儀社にお参りしました。
奥さんと子どもさんたち家族がいらっしゃいました。
お勤めの後でお話を聞きますと
20日余り入院していた緩和ケアの病院で
お亡くなりになったということです。
50代の方です。
ご自身の病状も分かっていたと思います。
心残りも色々あったと思いますが
一家の大黒柱として最後のおつとめです。
お葬式のことその後のことを
奥さん子どもさん家族で話していたのでしょうね。
お仏壇も申されたということです。
それで納骨堂の話だったのかと合点がいきました。
お家お家それぞれにご事情が違います。
色々とお話を聞くなかに仏事のことをお話し
ご相談させていただきます。
日頃からご縁のある顔が見えるご門徒さんばかりでなく
初めてお会いする方ばかりのご縁もあります。
大切な方が亡くなってお通夜お葬式と
数日間でおつとめしなければならないこともあり
何をどうしていいのか戸惑うことばかりだと思います。
このたびは昨日の朝早く亡くなられてということで
昨日がお通夜で今日がお葬式と思ってお参りしたのですが
夜遅く亡くなってみんな眠ってなく
二晩ゆっくり一緒に過ごしたいということで
今日のお通夜で明日がお葬式になりました。
ご家族のあたたかい思いが感じられていいですね。
もう亡くなっていますがお姿はそのまんまです。
声をかけたらすっと起き上がってきそうな
きれいなお顔でした。
父と子、連れ合いのご夫婦
家族です。
今生の別れを惜しみつつ
ご一緒に過ごさせていただくなかに仏法です。
悲しみのご縁ですが死んだら終いじゃないよと
仏さまのご縁に遇わせていただける有難さです。
後に遺った方々にとって
初めて仏法を聞くようなことだと思いますが
自信をもってお話できます。
真実まことの仏さまのみ教えだからこそ
自信をもってお伝えできるのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きている私たちです。
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて生きてきました
生かされて生きています
そしてこれからもずっと先に往かれた大切な方もご一緒に
生かされて生きて往けると
南無阿弥陀仏のお救いの法を
お念仏申して聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.9)