一生懸命と一所懸命
2022-03-03
先ほど6時半の喚鐘を撞く時に
あらためて外が明るくなったなと感じました。
これから日に日に日の出が早くなり
朝が明るくなってまいります。
今日3月3日は桃の節句ひなまつりです。
季節の移ろいの中に
私たちは日々生きています。
一日一日を大切に一生懸命生きましょうと
親や人生の先輩に言われ
子どもや周りの人に言ったことがあります。
恵まれたいのちを大切に
一生懸命に生きることは本当に尊いことです。
一生懸命は一所懸命ともいいます。
どちらも「物事に命がけでする様子」をあらわす意味で
一生懸命は物事に対して全力に取り組む様であるのに対し
一所懸命は「一所」は「一か所」ということで
一つのことに力を尽くすというニュアンスにもとれます。
一生というといつもということで
一所というと今ということかなと思ったりします。
懸命とは命を懸けるということで
すごい言葉です。
一生を懸命に生きることは
中々できそうにありませんが
一所だったら何かできそうだと
皆さんはどう思われますか。
一所懸命に
今この時ここを命を懸けて生きることの尊さです。
一所は一処ということで
阿弥陀さまのお浄土を俱会一処の世界と
お経さまにご教示です。
コロナ禍が続きステイホームの生活が身について
今孤立孤独という問題がクローズアップされています。
私の居場所はどこですかという問いです。
わが家と答える人が多いと思いますが
高齢者や若者世代に独居暮らしが増えてきて
一日誰とも話さない生活実態があったなかで
このコロナ禍です。
ウクライナの戦争で故国の家を追われて
他国に避難する人がたくさんいらっしゃいます。
これほど悲しくて辛いことはありません。
かえる家がある安心です。
私たちが人の命終えて帰る一処を
阿弥陀さまがお浄土とつくってくださった
お念仏のご法義です。
阿弥陀さまは私たちに一所懸命に生きなさい
という仏さまではありません。
一所懸命なのは実は阿弥陀さまの方で
まさに命がけでこの私を必ず救うと
南無阿弥陀仏のお名号となって
お浄土から喚びかけてくださっているのです。
わが名を称えてくれよわが名を聞いてくれよと
南無阿弥陀仏と喚び続けてくださり
いつでもどこでもどんな状況にあろうとも
「私がいつも一緒だから大丈夫安心して
あなたはあなたの命を精いっぱい輝かせて
生きて往きましょう」とおはたらきなのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
私の居場所をこしらえてくださってあるのです。
そこは阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲の中で
あなたも私も共々に生かされてある
と聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.3)
私のよき友親友
2022-03-02
日々刻々と移り変わるウクライナ情勢のニュースに
世界中が注目しています。
今まさに私たちが生きているこの同じ地球上で
本当に起こっている事実です。
映画でもゲームでもない
架空のものではない現実です。
市街戦になって市民が日暮しする町中に
銃弾が飛び交う恐ろしい様相です。
そのなかで人々が負傷し死んでいく
悲惨な姿が見えてきません。
何百何千人という方が亡くなったといいますが
その人それぞれに家族がいて友人がいて
大変多くの方々が大きな悲しみの中にあるのです。
戦争はこの地球上で唯一人間だけが行う
本当に愚かな罪悪です。
敵味方に分かれて戦争当事者双方といいますが
今回はロシア軍が一方的に
ウクライナ国内に侵攻したことで
ロシアは世界中から非難されることになり
四面楚歌もいいところです。
世界の国々から強い非難の声があがり
経済的な制裁も次々に出されていますが
プーチン大統領は核使用にまで言及し
世界の動きを牽制して
戦争を止める気配すらありません。
一人の人間に権力が集中することの
怖さ危うさです。
政治の力は人々を幸せにすることに行使されるもので
自国民だけでなく他国とのつながりのなかで
バランスの取れたものでないとうまくいかないのに
軍事力という武力で自分の思い通りにしようとする様は
独裁者の仕業にみえて本当に不気味です。
プーチン大統領は今の状況の中にあって
自分のおかれている立場を
どう理解しているのでしょうか。
ウクライナを武力で制圧したところで
その後のことをどのように考えているのでしょうか。
全くわからない。
正気では考えられない狂気の沙汰だと見る向きも
広がってますます不安です。
プーチンさんに意見をする人がいないのでしょうか。
側近といわれる方の力量が問われますが
側近ほどプーチンさんのことをよくご存知で
本当のことが言えないのでしょうか。
傍から見たら何か裸の王様のようですが
こういう時こそ本当のことを言ってくれるのが親友です。
誰一人として完璧な人間などいません。
人間それぞれに長所もあれば短所もあり
不完全な人間同士が互いに支え合うなかに
私たちの社会が成り立つのです。
自分に見えないところを見せてくれて
自分に不都合な聞きたくないことを
言ってくれる人です。
今現にウクライナで戦争が行われている事実を
世界中の私たちはそのまま見ています。
その事実に立って
本当のことを言ってくれるのが真の友人です。
親鸞さまは『正像末和讃』に
「他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば
すなはちわが親友ぞと 教主世尊はほめたまふ」
(他力の信心を得る人は、仏の教えを敬い信じて喜ぶので
釈尊はこのものを、わたしのまことの友である
とおほめになっている)と讃嘆しています。
お釈迦さまは仏法を敬い信じるものこそ
まことの友であるとほめたたえるのです。
南無阿弥陀仏のお念仏のみ教えに
同じく生きるものです。
お念仏のみ教えを聞かせていただくと
この私の本当のすがたをズバリ教えてくださいます。
五濁悪世の末法の世に生きる
煩悩具足罪業深重の凡夫の身と知らせてくださって
念仏こそが私たちが救われていく唯一の道であると
お念仏を勧めてくださるのです。
煩悩多く罪深きものの
「さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまひもすべし」
この身を知らせてそのまま救うと
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
昨日今日と続いて
「南無阿弥陀仏をとなふれば」で始まる
現世利益和讃を拝読させていただきました。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
本当のことを言ってくださる阿弥陀さまがご一緒です。
私にとって都合の悪い
聞きたくないことかもしれませんが
私に本当に幸せになってほしいと願い
私のことをいつも思い案じて
ご一緒してくださる安心です。
今のウクライナの状況を見て
私に何ができるだろうかと思うばかりですが
お念仏を申していよいよ南無阿弥陀仏のお心を
聞かせていただきたいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.2)
弥生三月です
2022-03-01
3月になりました。
弥生三月です。
冬が終わって春をなり
弥生とはいよいよ草木が芽吹き生い茂る季節といいます。
新たないのちの誕生です。
昨日お花屋さんに用事があって行くと
店員さんがお花をたくさんアレンジメントしていました。
明日が卒業式で忙しいと言われます。
ああそうか!3月は卒業式の時節です。
今日3月1日は高校の卒業式です。
今朝のテレビで「春は別れと出会いの季節」と
言っていました。
学校だけではなく
職場も3月は転勤移動の季節です。
別れを惜しみ
新たな出会いに心ときめかします。
3月は年度終わりの月で
この一年を振り返る時期です。
これまでのことを整理して
4月からの新しい旅立ちに備える大切な月でもあります。
私たちは季節の移ろいの中で
人との出会いと別れを繰り返して生きています。
仏教は諸行無常と教えます。
この世のすべての事象は一瞬たりとも止まることなく
常に移り変わっているという真理です。
移り変わると聞いて
より良くなりたいと思うのが私たちです。
より良くなるために努めるのも私たちです。
ただ私の思いや力が届かないところで
思ってもいない誰も望まない悪い事態にあって
何をどうしていいのかわからない
苦悩の中に命の危険に脅かされることが
今この地球上で起こっています。
自己中心の人間がつくる業です。
本当に悲しく虚しく思います。
今月のことばは
「お念仏の華開き お浄土の春到来」です。
煩悩具足罪業深重の身を生きる私を
阿弥陀さまは放っておけず
南無阿弥陀仏のお喚び声の仏さまとなって
そのまま救うおはたらきです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
聞かせていただきましょう。
お念仏申す身に
させていただきましょう。
阿弥陀さまのお心にかなう
私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.1)
この私をお念仏申す身にお育てくださる仏さまのご縁です
2022-02-28
昨日満中陰四十九日のご法事にお参りして
お勤めの後で納骨をさせていただきました。
お葬儀はご遺族有縁の方々にとって
お通夜お葬式のお勤めだけではなく
火葬され遺ったお遺骨をお家の仏間にご安置し
初七日から四十九日間の中陰の期間
七日七日のご縁をいただいて
満中陰が大きな節目のご縁になります。
お遺骨をお墓に納骨して
お仏壇のある仏間の風景が
普段の平生に戻ります。
中陰の期間の一連の葬儀の流れの中に
遺された家族有縁の方々の日暮らしがあります。
七日七日のご縁にお参りして
皆さんとご一緒に御仏前に座らせていただき
お正信偈さまのお勤めをして
ご法話お取り次ぎをさせていただくことです。
ご遺族有縁のいつもの方がお参りです。
満中陰は大きな節目のご縁ですが
「これで終わりではありません」と
付け加えてお話します。
大切な方とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただける有難さですと
お取り次ぎさせていただきます。
仏さまのご縁はこれからも
百か日、初の盆、一周忌、三回忌と
ずっとずっと続きます。
先にお浄土に往かれた大切なお方は
南無阿弥陀仏のおはたらきで私のところに還って来て
私たちに南無阿弥陀仏のお心を聞いて
南無阿弥陀仏とお念仏申す身になってくれよと
お念仏をお勧めくださるのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
「いつも私が一緒だよ
どんなことがあってもあなたを見捨てることはないから
大丈夫安心して
あなたはあなたの命を精いっぱい輝かせて
お浄土への道を一緒に生きて往こう」と
ご一緒くださるのです。
御仏前に座らせていただき
先に往かれた方を仏さまと仰いで
手を合わせお念仏を申してお礼ができる私に
お育ていただく
悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただける
有難さ尊さです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.28)
閑散とした平生のご本山でお念仏申して安心です(2013年アーカイブ)
2022-02-27
一昨日昨日と会議があって
久しぶりに京都のご本山にお参りさせていただきました。
法要の時にお参りするときとは違って
御堂や境内が大勢の人で埋め尽くされている
ということではありません。
親鸞聖人の大遠忌の法要が終わって
山門前に立てられていた案内板や仏旗も一切ありません。
大遠忌法要前に10年間御影堂の修復工事があり
大屋根を覆うように大きな素屋根がかかっていましたが
今はありません。
いつもの平生のご本山の佇まいのなかに
大きな御堂が二つ
向かって左側は親鸞聖人のご真影さまをご安置する御影堂
右側が阿弥陀さまをご安置している阿弥陀堂です。
両堂にお参りしてご真影さま
阿弥陀さまにお礼をさせていただきました。
御堂に入りましたら
3人4人とお参りの方がいました。
正面から何やら声が聞こえます。
私も正面の方に行ってお礼をしましたが
お正信偈さまをお勤めされていました。
ご門徒の方だと思います。
自分の耳に届くくらいの声で棒読みです。
声を張り上げていることではありませんが
確かにお正信偈さまでした。
尊いことだなと思いました。
平生日々の生活の中でお念仏申す営みです。
特別なときにだけ阿弥陀さまは
お立ちになるのではありません。
日々の生活の中に阿弥陀さまはいつでも
お立ちくださっているという有難さです。
特別こうしたからこうするという
おはたらきの仏さまではありません。
いつでもどこでもどんな状況の中でも
阿弥陀さまは「まかせよ救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私を喚んでくださっているのです。
親鸞さまは90年という長いご生涯のなかで
いろんなことがあったと思いますが
平生日々の生活のなかに
お念仏申して生きて往かれました。
阿弥陀さまがいつもご一緒ですと
お念仏申して安心して
私たちが生きて往けることを
身をもって教えてくださいます。
お念仏申して安心して老いることができる
安心して病むことができる
そして安心して命終えていける
尊いいのちを今日もこうして
生かされて生きて往けることを有難く思います。
ご本山は法要行事がありますと
両堂は満堂になって境内にまで人があふれます。
日々のお念仏申す生活のなかに
志をもってご本山にお参りされた人たちです。
その人人がそれぞれのお家お家に帰って行かれて
日常の生活に戻られます。
お念仏申す生活です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.2.27)