雨の彼岸の入りです
2022-03-18
今日は朝から久しぶりの大きな雨になりました。
この時期はなたね梅雨といって結構雨が多いのですね。
命芽生える季節で
雨が降ってまたいよいよ命がめばえてくる
大きな季節の変わり目です。
今日は春の彼岸の入りです。
「暑さ寒さも彼岸まで」との
古人の言葉に頷きます。
春の彼岸のお中日には
この辺では昔から弘法さんのおせったいがあって
私も友だちや兄妹で近くのお家の弘法さんにお参りしては
おせったいのお菓子をもらったものです。
何故か雨のおせったいの思い出があって
お彼岸には雨がよく降るという印象があります。
昨日宮崎のお寺さんからハガキが届きました。
私と同学年の宮崎のお寺のご院家さんが
急にお亡くなりになったとの連絡でした。
京都の龍谷大学で私がお世話になった時に知り合った方で
同じ先生のゼミでご一緒でした。
今から思うと面白いゼミでした。
お寺のご縁の方で一般の大学で勉強された方や
色んな学歴経歴の持ち主を受け入れてくれて
お寺の世界の感覚とはまた少し違う
興味深い話題を聞くことができました。
一年間だけのご縁でしたが
それぞれお寺に帰った後もご縁があって有難かったです。
それぞれの持ち場持ち場で色んな活動をされることで
情報交換しながら大いに刺激もいただきました。
その方は学者さんではありませんが
自ら仏教真宗のお勉強をするなかで
お寺の活動実践を通してお書物も上梓され
現代の課題を提起してくださいました。
私はというと寺報の『ようこそ』を届けていましたが
お寺関係の会合でご一緒することもあり
お説教にもご出講いただいたりして
お念仏のご縁つながりをいただいたことで感謝します。
同年輩の方の往生の報に接するようになり
もう70歳を前にしていい歳になりました。
ただ私が最近思うのは
70歳という節目が本当に何か待ち遠しいことです。
70歳になって初めて見える景色が
あるのではないかと思うと楽しみです。
今までのことをただ懐かしいと振り返るのではなく
これまでご縁をいただいた人と色んなことがあっての
これからのご縁つながりということです。
南無阿弥陀仏のお念仏のご縁つながりです。
人のいのちは終えます。
会った人とは別れて往きますが
その往く先は同じ阿弥陀さまのお浄土です。
お念仏の先人は「生きても死んでもお慈悲の中」と
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
生かされてお念仏の道を生きて往かれました。
私たちの彼岸である阿弥陀さまのお浄土への道を
この春の彼岸のご縁に共々にたずねてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.18)
五濁悪世をお念仏申して生きる
2022-03-17
昨夜遅く東北地方で震度6強の
大きな地震があったということで
今朝のニュースはウクライナのことはさて置き
地震のニュースで持ちきりです。
昨日は新型コロナウイルスのまん延防止が
全国で一斉に解除になるという首相会見があり
そして地震が起こったということです。
コロナの疫病も地震の自然災害も
私たち人間の力の及ばないどうしようもないことですが
戦争は人間がしでかすもので
どうしようもないことではありません。
今朝のご和讃は
「末法五濁の衆生は」で始まりました。
末法五濁と親鸞さまは何度も言葉を重ねられています。
親鸞さまが生きた時代世の中の相ですが
私たちが生きているこの世の中にも
ピタリ当てはまる言葉です。
とりわけ戦争のことについては
これまで何度も何度も戦争の歴史を繰り返し
戦争に勝者はなくは殺りくと破壊の挙句に
悔恨と怨念が残るばかりです。
何でどうしてと思うことばかりですが
劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の
五濁の仏さまの教えに頷くことばかりです。
自己中心の煩悩をたぎらせる衆生濁です。
衆生が劣化するというのです。
一切の衆生が共生するこの地球を支配するように
わがもの顔に振る舞っている私たち人間の為せる業です。
人間だけが戦争ができるのです。
傲慢で愚かな私たち人間の深くて重い罪業です。
結果最後の命濁です。
命は短くなるを通り越して
無くなってしまうような事態も
核兵器の存在が可能にしてしまいます。
そんなに人間は愚かではないと思いたいですが
今のウクライナの事態は非常に悲観的です。
今朝のご和讃があらためて有難いと思ったのは
『高僧和讃』の第四祖道綽禅師のところなのですが
道綽讃は七首しかありません。
昨日二首頂きましたから
今日六首頂くと一首足りないのです。
それで最後の第六首目にいただいたのは
『高僧和讃』の後で『正像末和讃』に移る間の
「五濁悪世の衆生の」で始まるご和讃です。
「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」
<さまざまな濁りと悪に満ちた世で
往生の行として念仏を選び取られた
本願を信じるものには
たたて尽くすことも、説き尽くすことも
思いはかることもできない
功徳が満ちているのである>とあります。
南無阿弥陀仏のお徳おはたらきが
私たち五濁悪世の衆生の身に
満ち満ちてくださるというのです。
五濁悪世のわれらこそ
阿弥陀さまのお救いのめあてであり
どうかお念仏のみ教えを聞かてくれよとの
親鸞さまのお勧めなのです。
戦争は私たち人間がつくった罪業です。
仏さまのみ教えに背を向けた
五濁悪世の衆生のわれらが為す業です。
この五濁悪世を生きる私を
お念仏のみ教えに聞かせていただきましょう。
仏さまのお心にかなうことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.17)
「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と私にできること
2022-03-16
連日ウクライナに関する報道です。
ロシアの国営放送で女性職員が
ニュース番組の最中に「戦争反対」のプラカードを持って
スタジオに入った映像が大きなニュースとなって
世界中に発信されています。
真実を伝えることが使命のメディアにあって
自分たちの国にとって都合の良い
嘘の情報を流していることに居たたまれない中での
覚悟の行動です。
今はネット社会で
どんなに報道規制してもこの身の上で起こった事実は
スマホで自ら映像に撮って全世界に発信できる時代です。
何が本当の事実かです。
実際起こっていることは
ほぼ皆さんわかっているのですが
ロシア国内で「戦争反対」の声をあげれば
即刻逮捕されます。
いつ空爆や銃撃で命の危機を迎えるか分からず
子どもを抱え食料も足りない不安な中で
生きている方が窮状を訴えているのです。
そうした情報を受け取っている
日本にいる私たちです。
何ができるかといって
ただただ早く戦争を止めてほしいということですが
何でどうしてこんなことになったのかと
ただただもどかしい思いでいっぱいです。
ウクライナの窮状を見るにつけ
人間業とは思えないという言い方をします
これが人間のすることかといった最大級の非難ですが
仏さまから言わせると違います。
人間だから戦争ができるのです。
戦争といった残酷なことは
他の動物にはできませんよ。
動物の世界も弱肉強食の摂理で
強いものが弱いものの命を奪って生きていますが
それ以上の殺りくはしません。
人間だからです。
もっと言ったら私もしっかり具えている
煩悩はからいです。
どこまでも自己中心にものを見思い生きてる私です。
自分の都合に合わせて周りの人を善人悪人と見定め
敵味方をつくっては都合の悪い人を排除する行為です。
その極みが国と国になったら
戦争です。
国のリーダーの思い一つで戦争が始まります。
一般国民のそれぞれの思いは戦争一つに縛られ
どうにもしようがない状況に陥ってしまうのです。
これは遠い遠い国の話ではなくて
過去の歴史を振り返れば日本もそうだったのです。
太平洋戦争末期のことです。
圧倒的に不利な戦況の中にも
日本が勝つ神風が吹くと信じ込まされ
一般国民は無差別空襲にさらされることになり
広島長崎への原爆投下になって終戦を迎えます。
原爆投下したアメリカは戦勝国で
今も原爆投下で戦争が終結したと主張しています。
とんでもない悲惨な行為が
戦時下では正義としてまかり通るのです。
日本も中国東南アジアで
それこそ人間業とも思えない残酷な行為を重ねました。
人間がするんです。
人間だからできるのです。
仏さまから見ると愚かな極みですよ。
ただ他人事ではないこの私のことです。
この私も「さるべき業縁のもよおさば
いかなるふるまいもすべし」深く重い罪業を
もちあわせているというのです。
普段は善人ずらして生きている私ですが
条件がそろえば何をしでかすか分からない
そして自分の正義を主張して
悪いのは周りのあなたたちだと
どこまでも自己弁護するのでしょうね。
お釈迦さまは「仏法が広まるところには
軍隊も武器も要らない」と言われたといいます。
親鸞さまのお言葉に
「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」とあります。
お釈迦さまは親鸞さまは
今のウクライナの戦況を見て
どう思われどんな行動をとられるのでしょうかね。
十方衆生をそのまま必ず救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏の法を聞かせていただきましょう。
「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と
私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.16)
あたたかい春です
2022-03-15
急に暖かくなって
今朝早くうっすら汗をかくて起きました。
つい先日までの朝の冷え込みではありません。
この陽気に誘われて蚊も飛び回っています。
何か春が来たということではなく
今が春の真っ盛りといった感じです。
外の花壇にお花がたくさん
咲いてきれいです。
今日は3月15日
桜の開花の便りももうすぐです。
春よ来いと
春が本当に待ち遠しいのは
寒く暗く閉ざされた世界から解き放たれて
暖かく明るい世界に世界に飛び出していく
春はいのちの芽生えの季節です。
私たちのいのちですが
お花も植物も土の中から芽を吹いて出てくる様は
この目で見えるいのちの輝きで感動的です。
そうした命を今日もいただいて
こうして生きているということです。
このいのち
私が生きよう生きようと頑張って生きている命ではなく
まさに生かされてある命と聞かせていただきます。
この私のいのちを育んでくださっている
大きなおはたらきの源を
南無阿弥陀仏といただいているというのが
浄土真宗阿弥陀さまのお救いのみ教えです。
南無阿弥陀仏を私の生死のいのちの
帰依処畢竟依と教えていただきます。
私の生きる依り処であり
死して帰る処です。
仏教は生死を超える教えといいます。
生死の迷いを超えてさとりの仏に成る教えです。
人間の命を恵まれて生きていきます。
生きて老いて病んで死んでいく命ですが
老いていくなかも病んでいくなかも
いつでもどこでも阿弥陀さまが
南無阿弥陀仏とご一緒してくださって
この命終わる時にそのままお浄土に生まれて
さとりの仏さまにさせていただきます。
死んだら終いの命ではありません。
今日もお念仏申して往生浄土の人生を
念仏を申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.15)
南無阿弥陀仏のご縁つながりのご法事のご縁です
2022-03-14
昨日はご法事のご縁で
施主のお母さんの17回忌法要でした。
子どもが二人孫が五人曾孫が二人全員が
御仏前に揃いました。
南無阿弥陀仏のお念仏のご縁つながりです。
今は近くに親戚がいても
お互いのお家を行き来することが少なくなりました。
何か特別な時にということですが
例えば結婚式は現地集合現地解散で
お家に行き来することではありません。
ところがご法事のご縁は
お家のお仏壇でお勤めすることで
お家にお参りさせていただけるのです。
お仏壇の御仏前に待ったなしで座ることができる
有難い仏さまのご縁です。
昨日は17回忌のご縁で
曾孫さんは曾ばあちゃんに会ったことはありません。
直接会ったことがないけれども
大事な命の大恩人のご縁ですよというお話です。
曾ばあちゃんがいなかったら
みんなこの御仏前に一緒に座ることができませんでした。
南無阿弥陀仏のご縁つながりのなかに
私たちは生かされて生きてきました
今ここに生きています
そしてこれからも生きて往けると
聞かせていただきます。
ご法事のご縁に家族親族有縁の方々が
御仏前に一堂に会して
先に往かれた浄土の仏さまを思い
お念仏申して御礼をさせていただく有難さです。
今はコロナ禍でもあり
日頃のお付き合いが薄くなったりで
皆さんが一堂に集うことは難しいことですが
だからこその仏さまのご縁です。
仏さまが御仏前の一処に私たちを集めてくださり
お念仏申す身にしてくださる尊さです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.14)