そんなに急いでどこへ行く
2025-02-13
車を運転していて
他の車が急に前方に割り込んできて
ひやっとすることがあります。
何か先を急いでいる様子で
それからも左右に車を切り返しては
見えなくなりました。
さぞ遠くに行ってしまったかと思いきや
次の交差点で信号待ちしている車を見つけて
苦笑いするようなことです。
他人事ではありません。
私もこんなことが何度もありました。
「せまい日本 そんなに急いで どこに行く」と
交通安全の標語がありました。
今でいうタイパです。
時間の節約とでもいうことですが
運転を急いでスピード違反や事故を起こしたりしては
もともこもありません。
私たちの人生の道行きです。
「急がなくてもよいことを急いで
毎日をあくせく生きている」と
私たちの有り様をお経さまに説かれてあります。
自分中心の思いはからいでアクセルを踏み続け
ゆっくり人生の道行きを楽しむことなく
常に前を向き頑張って生きている私たちです。
二度とないこの人生です。
私たちは何のために生まれてきて
どこを目ざして生きているのでしょうか。
お念仏申して
「われにまかせよ 必ず救う」との
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞きつつ
阿弥陀さまのお慈悲の中に安心して
一日一日をゆくりゆったり
ある時には立ち止まって
往生浄土のお念仏の道行きを
あなたと私自他皆共にご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.13)

「願」※転載
2025-02-12
もしも願いがかなうなら……
皆さんは何を願われますか?
私は、家族が健康で
私より長生きしてくれることを願います。
ところが先日、妻に
「僕が先にお浄土にいきたい」と話したところ
「勝手やな!残される家族のこと考えてる?」と
一喝され、ハッとしました。
家族への率直な願いの奥底に
大切な人が亡くなる苦しみを
「私が」味わいたくないという
自分本位な思いが潜んでいたのです。
私の願いには
たとえそれが他者へのものであっても
利己的な思いが潜んでいるという
親鸞聖人のお示しを痛感しました。
阿弥陀さまの願いは
迷いの世界に沈むこの私の救い一点です。
そこに利己的な思いは
一切ありません。
私がお浄土に生まれることができなければ
仏にならないとまで誓われました。
そして、自分中心にしか
物事を見ることができない私を救おうと
今このときも願いはたらき続けてくださっています。
いつ命を終えるか
どちらが先かはわかりませんが
阿弥陀さまの願いが成就した世界
またともに会えるお浄土に生まれさせていただくことを
ありがたく思います。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(林 龍樹 本願寺派総合研究所研究員)より転載
ー本願寺新報2025年2月10日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.12)

一番身近な選挙
2025-02-11
今度の日曜日に投開票の
市会議員選挙が告示されました。
国政県政市政と選挙が何度もあります。
地縁血縁諸々の縁で
顔が見える知り合いも立候補されることもあって
市政は一番身近な選挙ですが
何か関心が薄いようにも感じます。
特にこの人という推しの方がいないなかで
今朝の新聞で初めて候補者54人の一覧を見ました。
現職新人元職と
これまで馴染みの方もいますが
全く知らない方が大半です。
さて誰に投票するか
紹介一覧には写真と簡単な経歴が載っているだけで
どの候補者にも決まって書かれてあるのは
年齢・所属の政党(無所属も)そして最終学歴です。
どんな政治信条で何をやってきた人で
市議になって何をやろうとしているのかが
投票する大きな判断材料です。
詳細はこれから新聞やチラシ等で知るところですが
今はネット選挙で日々情報を発信している
候補者も多いと思います。
その人の属性ということでいうと
学歴記載に違和感をもちます。
今までも学歴詐称問題をおこした政治家がいて
学歴が大きな投票の判断材料に
なっているのでしょうか。
学歴記載の有無は候補者自身の判断でいいし
学歴を一つの投票材料にするかしないかも含めて
私たち有権者のものの見方価値観によるところです。
何を依りどころに生きているのか
私のものの見方が問われるところです。
お念仏申されるように
お念仏の視座で
あなたも私も自他共に
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながり
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
心豊かに生きて往ける社会をめざして
選挙にのぞみ投票したいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.11)

お墓参りウォーキング
2025-02-10
毎日30分程ウォーキングをして
お墓参りするというお方のお話を聞きました。
高齢になってなるべく体を動かそうということで
お墓参りです。
ウォーキングとお墓参りの
一挙両得のコスパです。
毎日時間を決めて
お墓参りをする人の話をよく聞きます。
自宅の近くに墓地があることで
生活の日課になっているとのことです。
最近墓じまいの話をよく聞きます。
後を見る人がいないということですが
遠方にある墓苑のお墓をしまうというお話です。
高度経済成長期の頃
海の見える高台の墓苑が大々的に売り出されました。
青い海と空が合いまった光景を思い浮かべますが
お墓参りとなると
遠方にあって交通機関が少なく
マイカーで行くということでした。
それでもお墓を求めたときは
自然豊かな郊外にドライブするような
気分だったのでしょうが
高齢になって車の運転ができなくなり
お墓参りが思うようにできなくなったということです。
お墓には大切なご先祖のお遺骨が
ご安置されています。
もうすでに亡くなって
懐かしいお姿に会うことはできませんが
お墓に参ることで会いに行くんですね。
懐かしい方々に会いに行けるところが
お墓といただければ
お墓参りは大変意義深いものになるでしょう。
これも人それぞれのものの見方でしょうが
毎日お墓参りして先に往かれたお父さんお母さん
おじいちゃんおばあちゃんに会いに行くことで
ウォーキングすることができ
手を合わせお念仏申すことができます。
先に往かれた仏さまが
私たちがお念仏申されるように仕向けてくださった
南無阿弥陀仏のおはたらきと味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.10)

ダーナの日
2025-02-09
私たちの宗派(浄土真宗本願寺派)では
2月の第2日曜日をダーナの日と定めて
さまざまな社会福祉活動に取り組んでいます。
ダーナとは布施のことで
仏事にお包みする「御布施」を思い浮かべる人が
多いと思いますが
布施は煩悩を捨ててさとりを目ざす仏道修行の一つで
見返りを求めないというお心を教えます。
あなたと私が自他共に営む社会経済生活は
ギブアンドテイクの関係で成り立っています。
ものに値段をつけて売買が成立し商業活動ができ
仕事に見合った金銭ということで賃金が支払われます。
御布施もまた仏事を勤める僧侶に対する代価と
思っている人が多いと思いますが
御布施には決まった金額はありません。
僧侶は仕事の代価として御布施をいただくのではなく
御布施は仏さまへお供えするもので
「御布施はどのくらいですか?」ときかれて
「お気持ちをお包みください」とお答えします。
僧侶が施す布施は法施といって
仏事をお勤めしお経を読誦し
ご法話お取り次ぎをします。
一方仏事の施主である方の布施は財施で
お金や品物を仏さまにお供えします。
布施には三輪清浄という決まりがあります。
三輪とは、布施をした人、布施を受けた人
布施されたものをいい
三つの全てが煩悩を離れて清浄でなければ
本当の布施にはならないという
仏道修行のいわれです。
布施によって対価を求めたりしないと
自ら欲を捨て見返りを求めないというのです。
見返りを求めない布施の心はお念仏の心です。
阿弥陀さまが先手で一方的に
「われにまかせよそのまま救う」とおはたらきの
南無阿弥陀仏のお心です。
「お念仏の心で させていただく ありがとう」と
あなたも私も自他共にお念仏申されるように
仏さまのお慈悲の中にご縁をいただいて
「おかげさま」とお互いに
私にできるダーナをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.9)
