弥生三月です
2022-03-01
3月になりました。
弥生三月です。
冬が終わって春をなり
弥生とはいよいよ草木が芽吹き生い茂る季節といいます。
新たないのちの誕生です。
昨日お花屋さんに用事があって行くと
店員さんがお花をたくさんアレンジメントしていました。
明日が卒業式で忙しいと言われます。
ああそうか!3月は卒業式の時節です。
今日3月1日は高校の卒業式です。
今朝のテレビで「春は別れと出会いの季節」と
言っていました。
学校だけではなく
職場も3月は転勤移動の季節です。
別れを惜しみ
新たな出会いに心ときめかします。
3月は年度終わりの月で
この一年を振り返る時期です。
これまでのことを整理して
4月からの新しい旅立ちに備える大切な月でもあります。
私たちは季節の移ろいの中で
人との出会いと別れを繰り返して生きています。
仏教は諸行無常と教えます。
この世のすべての事象は一瞬たりとも止まることなく
常に移り変わっているという真理です。
移り変わると聞いて
より良くなりたいと思うのが私たちです。
より良くなるために努めるのも私たちです。
ただ私の思いや力が届かないところで
思ってもいない誰も望まない悪い事態にあって
何をどうしていいのかわからない
苦悩の中に命の危険に脅かされることが
今この地球上で起こっています。
自己中心の人間がつくる業です。
本当に悲しく虚しく思います。
今月のことばは
「お念仏の華開き お浄土の春到来」です。
煩悩具足罪業深重の身を生きる私を
阿弥陀さまは放っておけず
南無阿弥陀仏のお喚び声の仏さまとなって
そのまま救うおはたらきです。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
聞かせていただきましょう。
お念仏申す身に
させていただきましょう。
阿弥陀さまのお心にかなう
私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.1)
この私をお念仏申す身にお育てくださる仏さまのご縁です
2022-02-28
昨日満中陰四十九日のご法事にお参りして
お勤めの後で納骨をさせていただきました。
お葬儀はご遺族有縁の方々にとって
お通夜お葬式のお勤めだけではなく
火葬され遺ったお遺骨をお家の仏間にご安置し
初七日から四十九日間の中陰の期間
七日七日のご縁をいただいて
満中陰が大きな節目のご縁になります。
お遺骨をお墓に納骨して
お仏壇のある仏間の風景が
普段の平生に戻ります。
中陰の期間の一連の葬儀の流れの中に
遺された家族有縁の方々の日暮らしがあります。
七日七日のご縁にお参りして
皆さんとご一緒に御仏前に座らせていただき
お正信偈さまのお勤めをして
ご法話お取り次ぎをさせていただくことです。
ご遺族有縁のいつもの方がお参りです。
満中陰は大きな節目のご縁ですが
「これで終わりではありません」と
付け加えてお話します。
大切な方とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただける有難さですと
お取り次ぎさせていただきます。
仏さまのご縁はこれからも
百か日、初の盆、一周忌、三回忌と
ずっとずっと続きます。
先にお浄土に往かれた大切なお方は
南無阿弥陀仏のおはたらきで私のところに還って来て
私たちに南無阿弥陀仏のお心を聞いて
南無阿弥陀仏とお念仏申す身になってくれよと
お念仏をお勧めくださるのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
「いつも私が一緒だよ
どんなことがあってもあなたを見捨てることはないから
大丈夫安心して
あなたはあなたの命を精いっぱい輝かせて
お浄土への道を一緒に生きて往こう」と
ご一緒くださるのです。
御仏前に座らせていただき
先に往かれた方を仏さまと仰いで
手を合わせお念仏を申してお礼ができる私に
お育ていただく
悲しみのご縁ですがそのまま仏さまのご縁といただける
有難さ尊さです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.28)
閑散とした平生のご本山でお念仏申して安心です(2013年アーカイブ)
2022-02-27
一昨日昨日と会議があって
久しぶりに京都のご本山にお参りさせていただきました。
法要の時にお参りするときとは違って
御堂や境内が大勢の人で埋め尽くされている
ということではありません。
親鸞聖人の大遠忌の法要が終わって
山門前に立てられていた案内板や仏旗も一切ありません。
大遠忌法要前に10年間御影堂の修復工事があり
大屋根を覆うように大きな素屋根がかかっていましたが
今はありません。
いつもの平生のご本山の佇まいのなかに
大きな御堂が二つ
向かって左側は親鸞聖人のご真影さまをご安置する御影堂
右側が阿弥陀さまをご安置している阿弥陀堂です。
両堂にお参りしてご真影さま
阿弥陀さまにお礼をさせていただきました。
御堂に入りましたら
3人4人とお参りの方がいました。
正面から何やら声が聞こえます。
私も正面の方に行ってお礼をしましたが
お正信偈さまをお勤めされていました。
ご門徒の方だと思います。
自分の耳に届くくらいの声で棒読みです。
声を張り上げていることではありませんが
確かにお正信偈さまでした。
尊いことだなと思いました。
平生日々の生活の中でお念仏申す営みです。
特別なときにだけ阿弥陀さまは
お立ちになるのではありません。
日々の生活の中に阿弥陀さまはいつでも
お立ちくださっているという有難さです。
特別こうしたからこうするという
おはたらきの仏さまではありません。
いつでもどこでもどんな状況の中でも
阿弥陀さまは「まかせよ救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私を喚んでくださっているのです。
親鸞さまは90年という長いご生涯のなかで
いろんなことがあったと思いますが
平生日々の生活のなかに
お念仏申して生きて往かれました。
阿弥陀さまがいつもご一緒ですと
お念仏申して安心して
私たちが生きて往けることを
身をもって教えてくださいます。
お念仏申して安心して老いることができる
安心して病むことができる
そして安心して命終えていける
尊いいのちを今日もこうして
生かされて生きて往けることを有難く思います。
ご本山は法要行事がありますと
両堂は満堂になって境内にまで人があふれます。
日々のお念仏申す生活のなかに
志をもってご本山にお参りされた人たちです。
その人人がそれぞれのお家お家に帰って行かれて
日常の生活に戻られます。
お念仏申す生活です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.2.27)
在宅で緩和ケアです(2010年アーカイブ)
2022-02-26
昨日<緩和ケア>がテーマの講演会があって
聴講させていただきました。
ご講師は大分県で最初にできた緩和ケア専門の
「大分ゆふみ病院」初代院長さんで
去年大分市内に在宅の緩和ケアクリニックを開業された
山岡憲夫先生です。
緩和ケアの病院は
治療を尽くして病気を治すという病院と違い
末期の患者さんの総合的な痛みをとることで
安らかな最期を迎えることを促すことを
主なお役目にする病院です。
入院して1カ月かその前後に
亡くなっていかれる方が多いと聞きます。
その患者さんが最期に何をしたいのかというと
「家に帰りたい」という方が多いといいます。
家に帰って人生の最期を
終えていきたいというのです。
医療設備やスタッフが整った専門の病院で
医療を受ける利点はたくさんありますが
いろんな工夫を重ねて
在宅での医療が少しずつできるようになったといいます。
在宅での医療は
お医者さんが患者さんのお家に診療に出向くことで
今現在90人の患者さんがいて
講演会の当日も午前中に6人
講演会の後に2人と
毎日時間から時間に休みがない状況だと思います。
講演会で在宅ケアを実際にしていくなかで
本当にいいなあと思ったと
自宅ケアのすばらしさ有難さをお話くださいました。
あるおじいちゃんの診察に行ったときに
お孫さんがわいわい家の中を走り回っているといいます。
その時おばあちゃんが「静かにしなさい」と
注意するそうです。
おじいちゃんがいておばあちゃんがいてお孫さんがいる
日常普段の生活の風景です。
病院に入院すると病人だけれども
在宅で家に居るとやっぱりおじいちゃんなんですと
お話されました。
ある50代のお母さんのお話で
高齢出産で子どもさんが小学生といいます。
このお母さんが在宅での緩和ケアを希望したのは
子どもを朝「行ってらっしゃい」と見送って
帰ってきたら「お帰りなさい。今日どうだった」と迎える
日常生活の中に
子どもにとって病気のお母さんだけれども
お母さんはお母さんとしての役目を
最後まで果たして命を終えていきたいということでした。
家族や大切な方を亡くされる。
これほどの悲しみはありません。
何でこんな病気になったんやろうかと
それこそ自分を呪い人をも恨むという
心境にもなるといわれます。
緩和ケアをしていくなかで
最期を家族や大切な人と共に過ごし
生きる意味を考えさせていただくことにも
なるといいます。
一週間に1人2人とその人人の死を
看取っていくといわれます。
先に逝く人と後に遺る人の最期のご縁に
緩和ケアの先生が立ち会うことの意味です。
翻って私たちお坊さんは亡くなってから
後のご縁になります。
死と向き合うことは実は生と向き合うことで
私たちの日常生活の中にこそ仏法は届けられなければと
考えさせられたご縁になりました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.2.26)
見るがいい!われらが人間の愚かなすがたを!
2022-02-25
今朝のどの新聞の一面も大きく
「ロシアがウクライナ侵攻」の見出しです。
テレビのニュースも連日ウクライナ情勢に
関することばかりです。
果たしてロシアのメディアは
今回の事態をどのように伝えているのでしょうか。
ウクライナ国内の親ロシア派の人たちを
守る自衛のための戦争であり
責任は全てウクライナ欧米諸国にあると
「正義は我にあり」とばかりに
プーチン大統領は高らかに言い放ちました。
戦争の口実は何とでも言えることで
これまでも名だたる世界の指導者から聞いた言葉です。
ネット社会の今は世界中が瞬時につながる時代で
その人人の思惑はともかく
今の現実確かな事実はそのまま映像で入ってきます。
明らかにおかしな理不尽なことが
今この地球上で起こっているという事実です。
正義のための戦争とか平和のための戦争とか
どんなに言い繕っても
戦争は所詮地球環境を破壊するものであり
人々の日常生活を一方的に奪う暴挙でしかありません。
軍事施設限定の攻撃で
一般市民に被害を及ぼすものではないといって
軍人であろうとなかろうと人殺しがほめたたえられ
人々は家を失い故郷を追われ
大切な人を亡くして路頭に迷うのです。
戦争をして何か良いことがあるかといって
何も良いことはないと
これまでの歴史が何度も何度も繰り返し教えているのに
この地球上で戦争のない日は一日もないと言われるように
人間は戦争を繰り返してきました。
仏さまが救いのめあてとする
十方衆生の一握りの人間がわがもの顔に
地球の絶対的な支配者であるかのように振る舞い
同じ地球に共に生きる無数のいのちを殺し傷つける様は
罪業深重の愚かな凡夫のすがたです。
戦争は人間同士を敵味方に分断し
互いに正義を主張し合って殺し合うのです。
戦争に正義はなく
勝ったものも負けたものもありません。
これまでの歴史的な経緯や国と国との関係など
自分に都合の良い理屈を並べ主義主張を展開しても
戦争になったら
今回のように強大な軍事力をもった国が
堂々と他国を侵略することで
世界の人びとはただただ無力感を味わうばかりです。
戦争は怨み憎しみを深く遺します。
戦争の歴史はそうした怨み憎悪の連鎖です。
お釈迦さま
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば
ついに怨みの息むことはない」と教えられます。
戦争で解決するものは一つもありません。
戦争に勝って安心ではなく
愈々不安の中に苦悩していくのです。
プーチンさんだけの話ではありません。
世界のリーダーといわれる大国の指導者たちです。
強い口調で非難の大合唱ですが
どれだけ本気に自らの命をかけるほどに
外交交渉をしてきたのでしょうか。
それぞれの自国中心の思惑が垣間見えてきます。
具に見るがいいですよ。
戦争の当事者だけではありません。
罪業深重の凡夫こそこの私だと知らされます。
自己中心の思いで生きては
周りの人を傷つけている様は
実に私のことです。
強大な権力をもち武力をもつと
本当のことが分からなくなるのでしょうね。
これほど怖いことはありません。
化けの皮をはがされた愚かな人間
私の本当のすがたです。
見るがいいです。
愚かな人間のすがたを具に見ておきましょう。
見るがいいです。
我が心根です。
そしてこの私を見守ってくださって
そのまま丸ごと引き受けてくださる
仏さまがいらっしゃることを
仏法に聞かせていただきましょう。
愚かな凡夫の私のすがたを見た時に
「悲しいね」って大悲の涙を流して立ち上がり
南無阿弥陀仏と私のところに来てくださって
そのまま抱きしめてくださる仏さまです。
お念仏申して阿弥陀さまのお慈悲のお心おはたらきを
聞かせていただきましょう。
南無阿弥陀仏のお心にかなう
私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.25)