電力需給ひっ迫警報
2022-03-23
6時の梵鐘を撞く頃
朝が明るくなりました。
本堂の外灯を今日から消しました。
暗い中に電気の灯りが明るく光り
本堂にお参りする皆さんをあたたかく迎えてくれます。
昨日は政府から急に「電力需給ひっ迫警報」が出され
東京電力管内で大規模な停電が起こると
一日中大騒ぎになりました。
私たちの生活はまさにオール電化といっていいほど
あらゆるところで電気を享受して豊かな生活をしています。
それこそ使い放題のように当たり前のように使っている
電気がストップすると私たちの生活は
すぐパニックになるということです。
電気水道ガスのライフラインといわれます。
大震災のトイレです。
今は昔の汲み取り式は少なく水洗トイレですが
水で流すのも電気で作動するのです。
電気がないと本当に生活が困難に直面して
どうしようもありません。
電力は需要と供給のバランスで管理しているそうで
需要に応じて供給を余るぐらいに備えておくのです。
電気は溜めておくことができないのです。
その都度その都度の需要と供給のバランスです。
早速昨日のテレビの二ュース番組で
「節電のために照明を暗くしています」と
アナウンスがあって放送が始まりました。
私たちの生活は自分が一人で都合の良いように
自給自足できるほど単純にはできていません。
縁起の道理です。
すべての事象がいろんな多くのものごとが複雑に
縁り合いつながって起こっているのです。
そこでいつも当たり前のことができなくなると
パニックに陥るのです。
今ウクライナで戦争をやっています。
ライフラインの破壊です。
私たちの生活でいうと
マイナスマイナスマイナスのことを
やっているのです。
当然生活に大きな支障が出てきて困窮して
亡くなる方も多くなります。
分かっていることですがやっている。
これほど愚かなことはありません。
私たちのことです。
本当にものの真実を知らないこと愚かさです。
知識があるとかないとか
知識がある人が賢くて
知識がない人が愚かということではありません。
仏さまから見ると
知識がある者の方がかえって愚かですよ。
本当のことが分からない知らない
知ろうとしないのです。
常に自分を中心にしか考え
ものごとを見ることができないのです。
そんな愚かな私を見て取って
阿弥陀さまは「愚かものめ」といって
この私を懲らしめるのかというと違います。
阿弥陀さまは愚かな私を知らせて
そのまま私に寄り添って泣いてくださるのです。
その大悲のお心が南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
私に届いてくださってあるのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申して
阿弥陀さまの大悲のお心おはたらきを聞かせていただき
私にできることをさせていただきましょう。
日々の生活のなかで私たちは
結構無駄なことをやっていませんか。
電灯やテレビ、インターネットなどの
つけっ放しってありませんか。
一人一人の生活です。
わが身のことを考え見直すことも
昨日の急な「電力需給ひっ迫警報」に思いました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.23)
合同墓の墓碑に「南無阿彌陀佛」と標しました
2022-03-22
今日は雨になりました。
昨日はおかげさまで円光寺墓地に合同墓を建立し
建碑式のお勤めをさせていただきました。
お天気に恵まれてということです。
墓地の墓碑は大抵「〇○家之墓」と標されています。
円光寺墓地に行きますと
この20年内に建立されたお墓には
「南無阿弥陀仏」と標されたお墓が多くあります。
合同墓の墓碑も「南無阿彌陀佛」と標しました。
名号本尊の仏さまです。
皆さんのお家のお仏壇のご本尊は
阿弥陀如来さまのお木像かご絵像のお姿ですが
「南無阿弥陀仏」もご本尊なのです。
ご縁がありましたら
よく注意して見てください。
「南無阿彌陀佛」のお名号を金色で彩色しています。
黒い御影石に金色で「南無阿彌陀佛」と目立ちます。
金色は光を表します。
私たちの阿弥陀さまは
限りない無量のいのちと光の仏さまといいます。
光は暗闇を破るはたらきです。
私が抱えている暗闇です。
欲の心怒りの心愚かな心の煩悩の心を
打ち破ってくださるのです。
煩悩のこの身は変わりませんが
そのまま「南無阿弥陀仏」とお念仏申す身に
お育ていただく弥陀さまのお救いのご法義なのです。
南無阿弥陀仏とお墓にお参りするときにも
お念仏を申して御礼をさせていただきます。
そして合同墓のご本尊の「南無阿彌陀佛」の仏さまは
蓮の華の台にお立ちです。
人の命終えて南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
阿弥陀さまのお浄土の蓮の台にポーンと花開かせて
南無阿弥陀仏と生まれさせていただくのです。
墓碑に名号本尊を標させていただく意味はありますが
「〇○家之墓」もいいんですよ。
お遺骨になったお家のご先祖有縁の仏さまを思うて
南無阿弥陀仏とお念仏を申して御礼ができるところが
お墓なのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.22)
南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
2022-03-21
今日は春分の日の祝日で
春のお彼岸のお中日です。
この後納骨堂そして円光寺墓地で
お彼岸のお勤めをさせていただきます。
お彼岸といえばお墓参りを連想するように
日頃は仏教とか関係ないという人も
ご先祖のお墓にお参りして合掌することに
違和感をもつことがないように
私たちの生活に根づいたものになっています。
お墓には私の大切な命の恩人のご先祖が
お遺骨となってご安置させているという
皆さんにとっては特別な場所です。
死んだらお終いではないと
浄土真宗の教えをお取り次ぎをさせていただきます。
先に往かれた方は
人の命は終えましたが
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
そのまま阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏さまとなって
今も私と共に生きてくださってある
と聞かせていただきます。
ただこの目に見えませんからね。
懐かしい声が聞こえてくるわけではありませんからね。
その証しってどこにあるのということでしょうが
南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
私のところに還って来ているというのです。
南無阿弥陀仏と今日も皆さんの口から
お念仏申しましたよね。
私の声です、隣の人の声ですが
この南無阿弥陀仏の声の大本は
阿弥陀さまの「まかせよ救う」の
南無阿弥陀仏のお喚び声といただきます。
生きとし生けるものすべてを分け隔てなく必ず救うと
阿弥陀さまのご本願のお心おはたらきが
南無阿弥陀仏となって
私たちのお念仏の先人のご縁を通じて届けられ
今日のお念仏申す皆さんがいらっしゃるのです。
お彼岸のお中日です。
先に往かれた方を思いお浄土を思い
南無阿弥陀仏と声に出してお念仏を申す一日に
させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.21)
「後世をしるを智者とすといえり」(2009年アーカイブ)
2022-03-20
お彼岸のお中日です。
今日20日拝読の御文章は「八万法蔵章」です。
「八万の法蔵をしるというとも
後世をしらざる人を愚者とす
たとい一文不知の尼入道なりというとも
後世をしるを智者とすといえり」
<釈尊がお説きになった教えを
すべて知っているとしても
後世のことを知らないものは愚者であり
たとえ文字一つ知らないとしても
浄土に往生するいわれを知るものは
智者である>とあります。
仏教のお勉強をたくさんされて
仏教のことは何でも知ったわかったといっても
それは仏教の知識であって
知識をいくら身につけても
この私の後世、後生の一大事である
いのちの行き先を知らないものは
愚者だよという厳しい戒めです。
現代社会に生きる私たちは
ものが豊かで便利な生活を享受しています。
学問する機会にも恵まれ
多く知識を得て豊かになりました。
ただ知識もわが身についたはからいで
知識が増えれば増えるほど
何でも理屈で物事を考えて
仏道修行の邪魔をすることにもなりかねません。
仏法を頭で分かっているつもりでも
本当にこの身につかないのです。
仏さまは私を煩悩具足の迷いの凡夫と言われます。
煩悩をいっぱい抱えて悩み苦しむこの私を
阿弥陀さまはすでにご存知で
そのまま救うと誓いを立てられ
長い長い間厳しい修行を積まれて
南無阿弥陀仏の仏さまに成ってくださったのです。
「おまえの命の行く先はここぞ」と
この私のために阿弥陀さまは
お浄土を建立してくださったのです。
お浄土は私一人に開かれたものではなく
私の大切なご先祖有縁の方々も往ってらっしゃる
仏さまのさとりの国です。
そのお浄土への道をたずねて
仏法を聞かせていただくご縁が
今日のお彼岸のご法座です。
今日だけではありませんが
日頃は私が私がと自分のことで精いっぱい
生きることで精いっぱいの私たちお互いが
共々にいただく仏さまのご縁です。
お誘い合わせお参りください。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.3.20)
仏さまは見てござる(2011年アーカイブ)
2022-03-19
今朝の大分合同新聞のコラムに
東日本大震災の中で不届き者がいる
という記事がありました。
大震災の非常時に義援金詐欺や
円相場が急激に円高になる中で
金儲けをもくろむ投資家がいるとの指摘です。
全国各地で予定されているイベントが
軒並み中止か延期になっています。
開催するか中止するかどうするか
関係者は大変苦慮するところです。
昨日のニュースで春のセンバツ高校野球は
そのまま開催することになったそうです。
わからないことではありません。
高校生の球児にとって3年間のこの時期だけの
それも全国何千の学校から選ばれての出場ですからね。
一方プロ野球は
直接被災した仙台球場を本拠地とする
楽天が所属するパリーグは早々に
4月中旬の開催延期を決めましたが
セリーグは予定通り3月25日の開催を決定したところ
早速各球団に抗議の電話が殺到したといいます。
選手会は今も行方不明者の救出活動をしている最中で
球場使用について特にナイターは
電力をたくさん使うということで
こうした状況でプレーしていいものかとの
声が多いといっていますが
経営者のオーナー側は
こういう時だからこそ野球を見せることが
被災者を勇気づけ元気づけることになるというのです。
何かもっともらしい意見ですが
ちょっとどうかなと思います。
新聞のコラムの最後に
この非常時にその人人のあり様がよく見える
よく見えてくると書かれていました。
その人の心根です。
日頃から何を大事に考え生きているかということです。
日頃のその人のあり様が
非常時に形となって出てくるということなのでしょう。
仏さまは見てござるです。
常日頃から私のことを思って
見守ってくださっているのです。
こんなことでは駄目だよ
こうしなさいという見方ではありません。
どこまでも自己中心に生きている私を
悲しいねって見てござるのです。
大震災に遭って大切な人を亡くされ
帰る家も無くして
何でどうしてと一人悲しみの中にある私を
どこまでも見守ってくださるのです。
いつでもどこでもどんな状況にあろうとも
南無阿弥陀仏とこの私に寄り添って
そのまま救うとおはたらきくださっているのです。
「われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏のお喚び声がこの私に届き聞こえたとき
この非常時にあって私たちは何をすべきか
人それぞれに違うと思いますが
私にできる精いっぱいのことをさせていただこうと
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.3.19)