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お念仏を申す生活法話

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つながるいのちをみなともに生かされて生きてまいりましょう

2022-01-18
 今朝西の空に真ん丸お月さんが
清かに輝いて見えました。
 大自然の営みの中に生かされている
有難さを思います。

 南太平洋のトンガ諸島近くで海底火山が爆発して
大変なことになっています。
 現地の被害の状況などが
海底ケーブルが爆発で遮断され通信ができないことで
分からないことが多く不安な事態です。

 私たちの現代の生活はスマホやパソコンなしでは
考えられないほどそうした機器に依存しています。
 遠方海外の人とも瞬時に画像を通して
交信ができる時代です。
 人流が極端に制限されるコロナ禍にあって
ネット社会は新たな生活様式を生み出しました。

 通信機器の障害は
一人家に居て当たり前にできていたことが
一瞬にしてできなくなるのです。
 大きな不安になり恐怖となって
日常生活に支障をきたすことになります。

 便利な生活が一転して
不便な生活に陥ることになるのです。

 近年地震津波や台風豪雨災害で
私たちは大自然の脅威を
身をもって思い知らされてきました。

 これからトンガの被害状況などが明らかになって
復興と検証が始まると思いますが
千年に一度というような大噴火ともいわれます。

 46億年の地球の有史以来地殻変動は常に続いており
この時代私たちはこの地球に生きているのです。
 今ここに大きな地震や噴火が起きて
地形が変わってしまうような
大自然の営みの中に私たちは共に生きているのです。

 自己中心のものの見方考え方で
自分の思うように生きようと
自分のことしか考えない見ようとしないで
自分のもの他のものと自他分別する中に
戦争をしたりミサイルを飛ばしたりして
地球の自然環境を破壊し続けている
私たち人間です。

 この地球は人間だけのものではなく
生きとし生けるものが恵まれた命を
共に生かされて生きるいのちの古里です。

 トンガには行ったこともないし知り合いもいませんが
共々につながってあります。
 人人のつながりだけではなくて
すべてのいのちがつながってあるということです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
みんないっしょにつながってあるのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.18)


「忘」の一字

2022-01-17
 今七日参りをしているお家で親戚の方から
「亡くなった母ちゃんが何回も夢に出てくるのですが
どういうことですか」と尋ねられました。
 すかさず隣にいた施主の兄さんが
「お前は母ちゃんにいつも心配をかけていたから
母ちゃんはお前のことが忘れられないのや」
と言われました。

 先に逝かれた方が夢に出てくるという話は
これまでにも聞いたことがあります。

 今日1月17日は阪神淡路大震災の日です。
あれから27年が経ちます。

 今朝の新聞に神戸市内の公園で竹灯籠に
「忘」の一字が浮かび上がる写真が載っていました。

 「忘」は公募で選ばれ
「忘れてはいけない」という思いだけでなく
「忘れてしまう」「忘れてしまいたい」など
さまざまな声が反映されていると
記事にありました。
 人それぞれの思いです。

 東日本大震災では今も行方不明の大切な方を
探してらっしゃるというお話です。
 夢でもいいから出てきてほしい
話すことはかなわないでも会いたいと
忘れられないのです。

 「忘」は心が亡いと書きます。
縦に亡いと書いてぼーっと頭から忘れるといいます。
 「忙」の字も同じ心が亡いと書きますが
横に書いて
忙しくて行ったり来たりと落ち着くところがないのです。

 私たちの日々の生活です。
何かバタバタ忙しく生きていませんか。
 私が私がと自分のことで精いっぱい
生きることで精いっぱいで
大切なことを置き去りにしていませんか。
 忙しくて本当に大事にすることを
忘れてしまっている私の生活ぶりを反省します。

 昨日は南太平洋のトンガ国の近くで
海底火山の大爆発があって
朝から日本の広い範囲の沿岸部に津波警報が出され
テレビに「あぶない、にげろ」の文字が踊り
携帯電話には非常の警戒音が鳴り響いて
慌てて避難された方がたくさんいらっしゃいました。
 東日本大震災の津波の映像を観ていますからね。

 でも日常私たちは忘れているのです。
「災害は忘れた頃にやってくる」との先人の言葉です。

 仏事の話に重ねて
年忌のご法事は三回忌までの二年間は
何度も何度もほぼ同じメンバーが御仏前にお参りされて
法要を勤め先に往かれた方を偲びます。

 ところが三回忌以降は
七回忌13回忌17、25、33、50回忌と
飛び飛びにやってきます。
 お寺から年忌のご通知をして
「すっかり忘れていました」と言われます。

 ご法事は忘れた頃にやってくるのです。
日々の生活に忙しい私のことを見て取って
いつでもどこでも思うてくださり
ご法事の仏さまのご縁を用意してくださって
「御仏前に座っておくれ。
南無阿弥陀仏とお念仏を申しておくれ。
お念仏申すところに私がいるよ大丈夫だよ」と
おはたらきなのです。

 私が仏さまのことを忘れても
仏さまは私のこと忘れないと
仏さまがいつもご一緒してくださっていることを
有難くお聞かせいただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.17)


ご開山親鸞聖人

2022-01-16
 今日1月16日は親鸞聖人の新暦の祥月の御命日です。
ご本山京都西本願寺では9日から七昼夜にわたって
親鸞聖人のご恩徳に報謝する
御正忌報恩講法要が勤修され
今日がご満座です。

 この時間もご本山でお朝事ご晨朝のお勤めがあり
その後10時からご満座のお勤めです。

 親鸞聖人のご法事で
今年が760回忌になります。

 親鸞聖人のことをお念仏の先人は
ご開山と親しくよばれてお慕いしてこられました。

 開山とは山を開くと書きます。
山は真実変わらない教えのことで
一宗一派の教えを開かれたということで
お敬いの心でご開山と呼ばせていただくのです。

 皆さんはお大師さんといったら
どなたのことを言っていますか。
 弘法大師です。
真言宗を開かれた弘法大師空海さまです。

 お大師さんといったら弘法大師のことですが
高僧方は皆さん大師号を天皇からいただいていますから
皆さん「お大師さん」なのです。

 天台宗を開かれた最澄さまは
法然さまは円光大師親鸞さまは見真大師です。

 ご開山もそうです。
各宗派を開かれた高僧方は皆さん「ご開山」なのです。

 「お大師さん」といえば空海さまで
「ご開山」といえば親鸞さまと言われるように
お念仏のみ教えを開いてくださったことに
お念仏の先人は親鸞さまをお慕いしてこられたのです。

 親鸞さまが主著『教行信証』の「教の巻」の冒頭に
「大無量寿経 真実の教 浄土真宗」とあって
『大無量寿経』に説かれる教えが「真実の教え」であり
そのことを浄土真宗と示されています。

 「動かざること山のごとし」と
戦国の武将甲斐の国の武田信玄は
「風林火山」の旗印にうたっています。

 山は動かない変わらないといい
真実変わらない教えといただきます。
 大無量寿経に説かれた真実の教えは
阿弥陀さまの本願を要とし名号を本質として
南無阿弥陀仏の救いの法を示されるのです。

 私たちは日々生滅変化する事象のなかにあって
自己中心の心は目まぐるしく動き回り
落ち着くところがありません。

 そのあり様を迷いと見られた阿弥陀さまは
迷いの中に苦悩するものを必ず救うと本願をたて
南無阿弥陀仏の名号となっておはたらきなのです。

 真実変わらない南無阿弥陀仏のみ教えを
開いてくださったご開山親鸞聖人です。

 今日は10時から親鸞聖人祥月御命日の
常例法座をお勤めします。
 どなたもお参りください。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.16)


阿弥陀さまがご一緒くださる私の人生です

2022-01-15
 昨日は体操の内村航平選手の
現役引退会見がありました。

 キングと世界中の選手から
尊敬の念を込めて親しく呼ばれていたといいます。
 10年余りずっと世界選手権そしてオリンピックと
チャンピオンに君臨した
内村選手だけに与えられる称号です。

 引退の理由は「世界一の練習ができなくなった」と
「これからも好きな体操を楽しみたい」とも
言っていました。
 人間業とも思えない技を生み出し演じ切るには
大変な練習も困難もあって
きついしんどいつらいことが多かった
と思うのが私たちですが
体操するのが楽しみで楽しかったとさらっと言われて
もう達人の域です。
 33歳です。

 大相撲では玉鷲が昨日
絶対王者の横綱照ノ富士に勝ちました。
 37歳です。

 30歳代で一つの人生を究めるということです。

 今は人生100年時代といわれます。
内村さんも玉鷲さんも
これからの人生まだまだ長い人生です。

 人生の値打ちということについて
「人間は生きているということに
まず一番目の値打ちがあるのであって
生きている間に何を成し遂げたか
どのような人生を送ったかということは
二番目三番目の問題として考えてもいいのじゃないか」
ということばに遇いました。

 人と生まれてこの身を生きるなかで
その人生観価値観は人それぞれに多種多様です。
 ただどんな人も今を生きていることは確かなことです。
そして私だけではなくすべてのいのちがつながって
共に生かされて生きているのです。

 どんなに頑張っても内村選手には誰もなれませんが
私になれるのです。
 私は私のいのちを生きています。
確かな真実です。
 お念仏のご法義でいうならば
南無阿弥陀仏のいのちに生かされて生きているのです。

 どんな生き方をしようとも
自分の思い通りのことができなくても
いつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒くださる
私の人生なのです。

 そしてこの命終えていきますが
南無阿弥陀仏のいのちと成って
これからもずっと生きていくのです。

 しんどいのではありません。
私が頑張ることではないのです。
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つであり
阿弥陀さまの楽しみ喜びなのです。

 一人でも多くの方にお念仏のみ教えに遇うてほしい
南無阿弥陀仏とお念仏申すなかに
この人生を生き抜いてほしいと
阿弥陀さまのお喚び声南無阿弥陀仏のお念仏が
この身に届けられ
この口からお念仏が出てくださるのです。

 今日一日もお念仏を申して
お浄土への人生を生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.15)


スマホで弔辞?

2022-01-14
 昨日お葬儀があって
ちょっとびっくりしたことがありました。

 お勤めの間にご親族の方が「御礼のことば」を
御仏前で読まれました。
 通常弔辞などを読まれることですが
紙に書かれたものではなく
ポケットから取り出したのはスマホだったのです。
 スマホを見て読まれたのです。
えっと思いました。

 後で新院にそのことを話したら
今はそういうこともありうる時代だ
というようなことでした。

 私も後でスマホで検索したら
弔辞や挨拶の文例が載っていました。
 その文例に少しその人の人柄や
思い出などを添えて述べるわけですが
前後の文章はほぼ決まった同じものです。

 今の時代といえばそうかもしれませんが
弔辞は先に逝かれた方へのお手紙であり
御仏前にお供えするものです。

 23年前の父の葬儀の弔辞は
今も残っています。
 あらためて読むということではありませんが
父への手紙はそのまま遺った私たちに
届けられたものでもあるのです。

 このお朝事のご縁に毎日拝読させていただく
正信偈和讃と御文章は
親鸞さま蓮如さまからのお手紙便りです。

 これもスマホにすれば
いつでも読まれるもので便利ですが
このお朝事のご縁に皆さんとご一緒にお勤めをし
拝読させていただける有難さを思います。

 その人人の受け止め方はそれぞれですが
何か違和感とともに寂しく思いました。

 今のお葬儀は家族を中心とした
身内だけの小規模葬が一般的になって
有縁の方のお参りや弔辞は殆ど無くなりました。
 これからもお葬儀のあり方は変わってくるでしょう。

 お葬儀だけではなく
コロナということもあって
いろんな行事の見直し簡素化が言われますが
自分たちの都合だけの見方でなく
それ本来のお心意味をたずねていくことの大切さを
あらためて思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.1.14)


円光寺
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