五濁悪世をお念仏申して生きる
2022-03-17
昨夜遅く東北地方で震度6強の
大きな地震があったということで
今朝のニュースはウクライナのことはさて置き
地震のニュースで持ちきりです。
昨日は新型コロナウイルスのまん延防止が
全国で一斉に解除になるという首相会見があり
そして地震が起こったということです。
コロナの疫病も地震の自然災害も
私たち人間の力の及ばないどうしようもないことですが
戦争は人間がしでかすもので
どうしようもないことではありません。
今朝のご和讃は
「末法五濁の衆生は」で始まりました。
末法五濁と親鸞さまは何度も言葉を重ねられています。
親鸞さまが生きた時代世の中の相ですが
私たちが生きているこの世の中にも
ピタリ当てはまる言葉です。
とりわけ戦争のことについては
これまで何度も何度も戦争の歴史を繰り返し
戦争に勝者はなくは殺りくと破壊の挙句に
悔恨と怨念が残るばかりです。
何でどうしてと思うことばかりですが
劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁の
五濁の仏さまの教えに頷くことばかりです。
自己中心の煩悩をたぎらせる衆生濁です。
衆生が劣化するというのです。
一切の衆生が共生するこの地球を支配するように
わがもの顔に振る舞っている私たち人間の為せる業です。
人間だけが戦争ができるのです。
傲慢で愚かな私たち人間の深くて重い罪業です。
結果最後の命濁です。
命は短くなるを通り越して
無くなってしまうような事態も
核兵器の存在が可能にしてしまいます。
そんなに人間は愚かではないと思いたいですが
今のウクライナの事態は非常に悲観的です。
今朝のご和讃があらためて有難いと思ったのは
『高僧和讃』の第四祖道綽禅師のところなのですが
道綽讃は七首しかありません。
昨日二首頂きましたから
今日六首頂くと一首足りないのです。
それで最後の第六首目にいただいたのは
『高僧和讃』の後で『正像末和讃』に移る間の
「五濁悪世の衆生の」で始まるご和讃です。
「五濁悪世の衆生の 選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」
<さまざまな濁りと悪に満ちた世で
往生の行として念仏を選び取られた
本願を信じるものには
たたて尽くすことも、説き尽くすことも
思いはかることもできない
功徳が満ちているのである>とあります。
南無阿弥陀仏のお徳おはたらきが
私たち五濁悪世の衆生の身に
満ち満ちてくださるというのです。
五濁悪世のわれらこそ
阿弥陀さまのお救いのめあてであり
どうかお念仏のみ教えを聞かてくれよとの
親鸞さまのお勧めなのです。
戦争は私たち人間がつくった罪業です。
仏さまのみ教えに背を向けた
五濁悪世の衆生のわれらが為す業です。
この五濁悪世を生きる私を
お念仏のみ教えに聞かせていただきましょう。
仏さまのお心にかなうことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.17)
「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と私にできること
2022-03-16
連日ウクライナに関する報道です。
ロシアの国営放送で女性職員が
ニュース番組の最中に「戦争反対」のプラカードを持って
スタジオに入った映像が大きなニュースとなって
世界中に発信されています。
真実を伝えることが使命のメディアにあって
自分たちの国にとって都合の良い
嘘の情報を流していることに居たたまれない中での
覚悟の行動です。
今はネット社会で
どんなに報道規制してもこの身の上で起こった事実は
スマホで自ら映像に撮って全世界に発信できる時代です。
何が本当の事実かです。
実際起こっていることは
ほぼ皆さんわかっているのですが
ロシア国内で「戦争反対」の声をあげれば
即刻逮捕されます。
いつ空爆や銃撃で命の危機を迎えるか分からず
子どもを抱え食料も足りない不安な中で
生きている方が窮状を訴えているのです。
そうした情報を受け取っている
日本にいる私たちです。
何ができるかといって
ただただ早く戦争を止めてほしいということですが
何でどうしてこんなことになったのかと
ただただもどかしい思いでいっぱいです。
ウクライナの窮状を見るにつけ
人間業とは思えないという言い方をします
これが人間のすることかといった最大級の非難ですが
仏さまから言わせると違います。
人間だから戦争ができるのです。
戦争といった残酷なことは
他の動物にはできませんよ。
動物の世界も弱肉強食の摂理で
強いものが弱いものの命を奪って生きていますが
それ以上の殺りくはしません。
人間だからです。
もっと言ったら私もしっかり具えている
煩悩はからいです。
どこまでも自己中心にものを見思い生きてる私です。
自分の都合に合わせて周りの人を善人悪人と見定め
敵味方をつくっては都合の悪い人を排除する行為です。
その極みが国と国になったら
戦争です。
国のリーダーの思い一つで戦争が始まります。
一般国民のそれぞれの思いは戦争一つに縛られ
どうにもしようがない状況に陥ってしまうのです。
これは遠い遠い国の話ではなくて
過去の歴史を振り返れば日本もそうだったのです。
太平洋戦争末期のことです。
圧倒的に不利な戦況の中にも
日本が勝つ神風が吹くと信じ込まされ
一般国民は無差別空襲にさらされることになり
広島長崎への原爆投下になって終戦を迎えます。
原爆投下したアメリカは戦勝国で
今も原爆投下で戦争が終結したと主張しています。
とんでもない悲惨な行為が
戦時下では正義としてまかり通るのです。
日本も中国東南アジアで
それこそ人間業とも思えない残酷な行為を重ねました。
人間がするんです。
人間だからできるのです。
仏さまから見ると愚かな極みですよ。
ただ他人事ではないこの私のことです。
この私も「さるべき業縁のもよおさば
いかなるふるまいもすべし」深く重い罪業を
もちあわせているというのです。
普段は善人ずらして生きている私ですが
条件がそろえば何をしでかすか分からない
そして自分の正義を主張して
悪いのは周りのあなたたちだと
どこまでも自己弁護するのでしょうね。
お釈迦さまは「仏法が広まるところには
軍隊も武器も要らない」と言われたといいます。
親鸞さまのお言葉に
「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」とあります。
お釈迦さまは親鸞さまは
今のウクライナの戦況を見て
どう思われどんな行動をとられるのでしょうかね。
十方衆生をそのまま必ず救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏の法を聞かせていただきましょう。
「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と
私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.16)
あたたかい春です
2022-03-15
急に暖かくなって
今朝早くうっすら汗をかくて起きました。
つい先日までの朝の冷え込みではありません。
この陽気に誘われて蚊も飛び回っています。
何か春が来たということではなく
今が春の真っ盛りといった感じです。
外の花壇にお花がたくさん
咲いてきれいです。
今日は3月15日
桜の開花の便りももうすぐです。
春よ来いと
春が本当に待ち遠しいのは
寒く暗く閉ざされた世界から解き放たれて
暖かく明るい世界に世界に飛び出していく
春はいのちの芽生えの季節です。
私たちのいのちですが
お花も植物も土の中から芽を吹いて出てくる様は
この目で見えるいのちの輝きで感動的です。
そうした命を今日もいただいて
こうして生きているということです。
このいのち
私が生きよう生きようと頑張って生きている命ではなく
まさに生かされてある命と聞かせていただきます。
この私のいのちを育んでくださっている
大きなおはたらきの源を
南無阿弥陀仏といただいているというのが
浄土真宗阿弥陀さまのお救いのみ教えです。
南無阿弥陀仏を私の生死のいのちの
帰依処畢竟依と教えていただきます。
私の生きる依り処であり
死して帰る処です。
仏教は生死を超える教えといいます。
生死の迷いを超えてさとりの仏に成る教えです。
人間の命を恵まれて生きていきます。
生きて老いて病んで死んでいく命ですが
老いていくなかも病んでいくなかも
いつでもどこでも阿弥陀さまが
南無阿弥陀仏とご一緒してくださって
この命終わる時にそのままお浄土に生まれて
さとりの仏さまにさせていただきます。
死んだら終いの命ではありません。
今日もお念仏申して往生浄土の人生を
念仏を申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.15)
南無阿弥陀仏のご縁つながりのご法事のご縁です
2022-03-14
昨日はご法事のご縁で
施主のお母さんの17回忌法要でした。
子どもが二人孫が五人曾孫が二人全員が
御仏前に揃いました。
南無阿弥陀仏のお念仏のご縁つながりです。
今は近くに親戚がいても
お互いのお家を行き来することが少なくなりました。
何か特別な時にということですが
例えば結婚式は現地集合現地解散で
お家に行き来することではありません。
ところがご法事のご縁は
お家のお仏壇でお勤めすることで
お家にお参りさせていただけるのです。
お仏壇の御仏前に待ったなしで座ることができる
有難い仏さまのご縁です。
昨日は17回忌のご縁で
曾孫さんは曾ばあちゃんに会ったことはありません。
直接会ったことがないけれども
大事な命の大恩人のご縁ですよというお話です。
曾ばあちゃんがいなかったら
みんなこの御仏前に一緒に座ることができませんでした。
南無阿弥陀仏のご縁つながりのなかに
私たちは生かされて生きてきました
今ここに生きています
そしてこれからも生きて往けると
聞かせていただきます。
ご法事のご縁に家族親族有縁の方々が
御仏前に一堂に会して
先に往かれた浄土の仏さまを思い
お念仏申して御礼をさせていただく有難さです。
今はコロナ禍でもあり
日頃のお付き合いが薄くなったりで
皆さんが一堂に集うことは難しいことですが
だからこその仏さまのご縁です。
仏さまが御仏前の一処に私たちを集めてくださり
お念仏申す身にしてくださる尊さです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.14)
水曜学校の修了式です(2014年アーカイブ)
2022-03-13
昨日は子ども会の水曜学校の修了式を行いました。
この一年も毎週水曜日の4時から5時までのプログラムで
水曜学校を続けてきましたが
各学年の修了式そして6年生の卒業式です。
二人の六年生のお友だちが
一年生の頃からずっと水曜学校に通って来てくれました。
できることのようで中々難しい
大変なことです。
子どもたちもそれぞれ忙しいのです。
水曜日は小学校の全学年で
午前中で授業が終わり給食の後下校になります。
そこでこの時間に水曜学校を始めたのですが
スポーツ少年団も塾や習い事も同じように
この時間に合わせようとしますし
子どもの一番の楽しみは
友だちと自由に好きな遊びをすることでしょう。
実に水曜日の4時から5時までは
子どもたちにとって本当に貴重な時間なのです。
ようこそ円光寺の水曜学校に
通ってくださいました。
私たちは仏さまの教えを聞かせていただきますが
仏教は縁起の教えといいます。
ご縁ということです。
ご縁つながりと申します。
仏さまからいうと
私たちのいのちはすべてつながっているといいます。
同じ根っこにつながったいのちなのです。
お花もみんな根っこがありますが
この目には見えません。
根っこがなかったらきれいな花を咲かせることも
実をつけることもできません。
根っこは見えませんが
いのちの根っこは肝心要です。
私たちのいのちの根っこも見えないので
この目で見えるところで善いとか悪いとか
美しいとか醜いとか
何やかんや言っているのでしょうね。
そうした私たちのものの見方を超えて
みんなすべてつながってあり
大きないのちのつながりのなかに
仏さまのご縁といただけるのです。
水曜学校の修了式です。
終了、終わりです。
何でも始めがあれば終わりがありです。
私たちのこの命も
この世に生まれたということは
いつか必ずこの命を終えていかねばなりません。
人の命の終わりですが
これからもずっとつながってあるというのです。
過去現在未来と時間的なつながりでもありますが
空間的にもつながって
大分、日本、中国、アメリカ、ヨーロッパ、
アフリカ、オーストラリアとみんなつながってあるのです。
南無阿弥陀仏のご縁つながり
お念仏のみ教えです。
大きないのちのつながりの中に
みんな互いに生かされて生きてあると聞かせていただくと
本当によかったとほっと安心できます。
この目には見えないけれども仏さまのご縁つながりです。
こうして御仏前に座らせてもらうと
阿弥陀さまのおすがたがそのままこの目に見えます。
私のことをいつも思ってくださり
「必ず救うまかせよ」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私をそのまま摂め取って捨てない
大慈悲のおすがたです。
お念仏のおはたらきは私一人だけではなくて
私の隣の人も隣の人も
人間だけではなくてあらゆるいのちも
御仏前に確かに確かにつながってあることに
安心できるのです。
ここだけではありません。
仏さまのおはたらきは
私たちが生きているすべてのところにどこでも
南無阿弥陀仏と届いてくださり
私と共に生きてくださってあるのです。
そのおはたらきのすがたが
南無阿弥陀仏なのです。
南無阿弥陀仏は
いつでもどこでもだれにでも届けられている
阿弥陀さまの「まかせよ救う」のおはたらきです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日も一日共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2014.3.13)