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お念仏を申す生活法話

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ツ子ばあちゃんの口癖

2022-02-10
 今日2月10日は先々代円光寺第16世の
藤並ツ子坊守の祥月命日です。

 昭和35年の往生ですから
63回忌のご縁です。
 私が小学校1年の2月のことで
もうすぐ2年生になる時です。

 昭和35年当時からいうと
お寺の佇まいも周囲の生活環境もすっかり変わりましたが
自然環境はそんなに変わっていません。
 2月のこの時期は立春を過ぎて
朝陽が明けるのが早くなり夕方暮れるのが遅くなって
いよいよ春到来と暖かい春が待ち通しのですが
まだまだ寒いです。

 そうした自然環境日々の生活のなかで
祥月命日をご縁に先に往かれた方のことを偲びます。

 74歳でした。
父も74歳です。
 私も今年70歳になります。
段々近づいてきました。
 62年経って遠くなるのではなく
いよいよ近くなって懐かしく思います。

 ツ子ばあちゃんの口癖が
「あがりよ」「たべよ」だったと
後でいろんな人から聞きました。

 「あがりよ」とご縁の方を家に招き入れて
「たべよ」と食べ物をすすめるのです。
 戦後の物のない時代です。
「あがりよ」「たべよ」と言われて
多くの方がお寺で安心のひと時を過ごされたと思います。

 お寺に豊富に物があったのではありません。
お寺も貧しかったのですが
仏さまのお供えがありました。

 お寺にはお米があがっていました。
今もお仏飯米というご門徒皆さんのご懇志です。
 仏さまにお供えされたお米がお寺の生活の糧であり
お仏飯でお育ていただくのです。

 このお米をばあちゃんは
ポンポン菓子にしていました。
 ポンポン菓子屋さんがたまに来ては
お寺の山門前でポンポン菓子を作ってくれるのです。
 庫裡の内所にポンポン菓子のいっぱい入った
大きな缶包みがありました。

 日頃お寺に来られた人に
ポンポン菓子を紙袋に入れては
「たべよ」とあげるのです。
 有り難いご縁だと思います。

 今はお家にもあったり
お店で買えば何でも手に入りますから
かえってそんなものは迷惑かもしれません。

 でもその当時です。
お寺にお参りして
仏さまのお供えのお下がりをいただくのです。

 日々の生活そのものが
お念仏の生活だったなと思います。
 懐かしく思うだけではありません。
今でもできることがあるのではないかと思います。

 私もこれからどれだけ命あるか分かりませんが
ツ子ばあちゃんの「あがりよ」「たべよ」のお心を
何らかの形にして今できることを
精いっぱいさせていただきたいと
2月10日ツ子ばあちゃんの祥月命日に思うことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.10)


私の本当の応援団

2022-02-09
 今北京冬季オリンピックが開催中で
連日テレビで日本選手の活躍を観ています。

 4年に一度のオリンピックは
他の世界大会とは別物で
いろんなことがおこります。

 昨日は男子フィギアで三連覇を狙う羽生選手が
ショートプログラムまさかの8位スタートで
金メダル獲得が厳しい状況です。

 オリンピックのメダルは特別なものなのでしょう。
選手関係者だけでなく多くの人から
期待を込めて注目されます。

 結果が全てという言い方をされます。
メダリストと4位の選手の違いをみると明らかです。
 メダリストはすぐテレビに出演して
みんなの称賛の的ですが
4位になるとテレビに出ることもありません。

 一昨日はスキージャンプの混合団体競技で
日本女子のエース高梨選手が一回目大きなジャンプの後で
失格になって結局はメダルには届きませんでした。

 口を真一文字に涙ながらに二回目を見事に飛んで
高梨選手の凄い精神力に驚嘆しますが
彼女は「申し訳ありませんでした」と声を振り絞って
テレビカメラに向かって深々と頭を下げました。

 女子モーグルの競技では
今季世界ランク1位の17歳の高校二年生が
金メダルの期待がかかる中で結果は5位でした。
 彼女もまた「申し訳ありません」と
頭を下げました。

 私たちはモーグルもジャンプもその他の
冬のオリンピック競技を普段見ることはありません。
 新聞にはワールドカップなどで
優勝した時は小さく載りますが
マスコミはじめ私たちは無関心といっていいほど
日頃はそんなに注目していません。

 それがオリンピックになると
マスコミ情報に乗って熱心なにわか応援団になるのです。

 選手にとっては厳しい練習と努力を積み重ね
夢かなって勝ち得た4年に一度の
オリンピックの大舞台です。
 世界ランク1位とかですぐ金メダルを期待され
メダルを獲って当然みたいに報道されますが
現実はそんなに甘いものではないことは
選手が一番分かっていることです。
 世界にはたくさんのメダル有力選手がいて
みんなオリンピックに標準を合わせてきているのです。

 今はSNSで世界中の人が
自分の思いを発信できる時代です。
 メダルの有無に関係なく選手を敬い
これまでの努力を称賛する声がある一方で
選手のことをよく知らないのに
マスコミの評価と結果だけを見て
誹謗中傷するような発言もみられるということです。

 自己中心のこの私のものの見方です。
自分本位に湧き上がり悔しがっては
すぐ忘れるのです。
 それが私です。

 結果が出なかったことに一番悔しい思いをしているのは
選手本人です。
 高梨さんにしても高校二年生にしても
忘れることができないことだと思います。
 またそれを力にするのが
一流の選手といわれます。

 本当の応援団はこういう時にこそ
そばに寄り添ってサポートしてくれる人です。

 私たちの日々の生活の中で
私が言ったことしたことで
相手を傷つけるようなことってありませんでしたか。
 大抵気づいていないことで
忘れてしまっていることです。

 逆に人から言われたことされたことで傷ついて
今でも忘れられないことってありませんか。

 自分がしたことは忘れても
人からされたことは忘れられないのです。

 そういう私たちが共に生きているこの社会です。
みんな言ってるみんながしているという言い方で
自分を正当化し自分の都合を押し通して
他者を責め自分を保身しているところがありませんか。

 私たちは自己中心の狭い世界の中で
安心しているのですが
結局は本当のことが分からないままに
苦しみ悩み迷っているのがこの私なのだと
仏法に聞かせていただきます。

 親鸞聖人のお言葉を借りれば
阿弥陀さまに見抜かれた煩悩具足の凡夫のこの私です。

 阿弥陀さまはこの私をこそ救わずにはおかないと
「必ず救うまかせよ」と南無阿弥陀仏のおはたらきで
私ところに来てくださっているのです。

 南無阿弥陀仏の深く広い智慧と慈悲のお心で
小さな世界に閉じこもっている私に
大きな世界に生まれて来いよと
喚び通しに喚んでくださる南無阿弥陀仏のお念仏の声です。

 お念仏のお心おはたらきを聞かせていただき
南無阿弥陀仏とお念仏を申す身に
させていただきましょう。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申すこの声が
隣の人隣の人にそのまま聞こえていきます。

 今日も大きなお念仏の声が聞こえてきました。
お念仏を申す日々の生活のなかで
今日もまたメダルはどうかなと
日本選手を応援する私です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.9)


阿弥陀さまのお喚び声

2022-02-08
 お寺の住職の大きなおつとめが
お預かりしているご門徒有縁の方の
臨終に立ち会うことです。

 臨終とは終わりに臨むと書きますから
まだ息があるうちということですが
臨終勤行にお参りする時には
すでにお亡くなりになっています。

 ご遺族ご親族の方々が一緒にお参りです。
人と人との出会いがあって別れがある
この人生は出会いと別れの繰り返しです。

 大切なお方との愛別離苦の悲しいご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただきましょうと
仏教浄土真宗のご法義阿弥陀さまのお救いの
本願念仏のみ教えをお取り次ぎさせていただきます。

 死んだら終いのいのちではなく
阿弥陀さまのお浄土の仏さまとなって
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
これからも共々に生かされて生きて往けるのです。

 私の思い通りに生きることができない
ままならない人生であり
死の縁無量でどんな命の結末か誰もわかりません。
 歳をとった順番に
命終えて行くことでもありません。

 難しい病気の告知を受け医者から余命宣告をされた
50代の女性のお話です。

 90歳近いお母さんが病室に娘を訪ねてみえて
「もう何も間に合わんようになったのう。
今日はお念仏さまをお供して来たぞ。
つらかったら称えんでもええ
聞かせてもらえや聞かせてもらえや」と言って
私の側で静かにお念仏を称えてくれましたと。

 母の称えるお念仏を聞きながら
如来のお慈悲のありったけを
私一人がいただいていることに気づき
うれしくてもったいなくて
思わずお念仏をさせていただいたということです。

 お念仏の声です。
お念仏申せよと言われて出るお念仏ではありません。

 山陰の源左同行が
「出る念仏は抑えんでもええ
出ん念仏を無理に引っ張り出さんでもええ
助けにゃおかんの大願じゃけのう」と
「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきに
そのままこの口から出てくださるお念仏なのです。

 私がお念仏申したから
阿弥陀さまが救うてくれるんじゃない。
 阿弥陀さまのお救いが先じゃということです。

 蓮如上人が御文章さまに「往生一定御たすけ治定」と
繰り返し述べられている阿弥陀さまのお救いです。
「仏のかたより往生は治定せしめたもう」と
阿弥陀さまの方で私の往生は
もうすでに決めてくださってあるというのです。

 仏のかたよりとは阿弥陀さまのおはからい
南無阿弥陀仏のおはたらき一つということです。
 そこに私たちのはからいが入るから
おかしくなるのです。

 南無阿弥陀仏のお心をそのまま信じて聞いてくれよと
阿弥陀さまの仰せご催促です。

 お母さんのお念仏を聞かせていただいたんですね。
「称えんでもいい聞かせてもらえよ」と
「私がいるよ大丈夫だよ。まかせよ救う」の
南無阿弥陀仏阿弥陀さまのお喚び声です。

 臨終勤行のご縁で
ご一緒にお念仏申させていただきます。
 阿弥陀さまの頼もしいお喚び声が聞こえてきます。
「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀
つれてゆくぞの 弥陀のよび声」です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.8)

「ごいんげさん」という題の作文

2022-02-07
 中陰の期間七日参りのご縁で
初めてお会いする方がいらっしゃいます。
 仏さまのご縁の有難さで
いろんな気づきがあって楽しみです。

 昨日の七日参りのことです。
お勤めの後お茶をいただきながら
先に往かれた方の娘さんが
「ご院家さん、この前うちの子どもが・・・」
という話をされました。

 小学校三年生の男の子です。
土曜日曜と学校がお休みですが
今はコロナ禍で自宅で過ごすことが多いなかで
日記の作文を書く宿題があるそうです。

 この前「ごいんげさん」という題の作文を
書いていたということです。
 先週の七日参りにその子どもさんも一緒でしたが
阿弥陀さまのおすがたのご法話をさせていただきました。

 この仏さまは座ってなくて立っていて
お母さんのようにいつも私のことを思ってくれて
右手は「おいで」左手は「救う」と
私のところに来てくださって
だっこしてくれてる仏さまと
書いていたといいます。

 お母さんのように
おいで、必ず救う、だっこするって
仏さまのお話のそのまんまです。

 子どもっていうのは本当に素直で
仏さまのお話をそのまま聞いてくれて嬉しかったです。

 今日の御文章さまにもいただきました
「摂取不捨」阿弥陀さまのお救いのおはたらきです。

 すごいなと思ったのは
その子のお母さんです。
 このたびの悲しいご縁で
初めてお話をする方です。
 お仏壇のお飾りとか仏事のことを
よく尋ねて聞いてくれます。

 初めてかけてくれた言葉が「ごいんげさん」でした。
ちょっとびっくりしました。
 皆さんだったら聞き慣れた言い方ですが
「ごいんげ(院家)さん」は浄土真宗のお寺の住職の
昔からの親しい呼び名です。

 「ごいんげさん」と呼ばれて
浄土真宗のご縁をいただいている方かなと思って聞くと
嫁ぎ先のお家が浄土真宗のお寺の
ご門徒さんということでした。
 有難いと思うのは
「ごいんげさん」が身についているということです。

 日頃からお母さんの声になって
子どもさんに届けられて
「ごいんげさん」の作文の題になったのでしょう。

 「ごいんげさん」の作文を読まれて
学校の先生はどう思われるのでしょうかね。
 また楽しみです。

 私たちは日常生活の中で
知ってるつもりでも知らないことがたくさんあります。
 仏事のことは尚更知らないことばかりといっても
いいのではないでしょうか。

 今はスマホで調べればすぐわかっても
その時だけの知識ですぐ忘れることでもあります。
 便利な世の中になりましたが
本当に大事なことが身につきません。

 小さい頃からのお育てです。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいて
お念仏申す身にさせていただくのです。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
私一人ではなく隣の人も隣の人も隣の人も
みんなそのまま共に抱かれて
今日のこの私にお育ていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.2.5)


「大きくなったら何になる?」(2010年アーカイブ)

2022-02-06
 あるお寺の保育園の園長先生でご院家さんが
園児たちに「大きくなったら何になる?」と
聞いたそうです。

 思い思いの答えが返ってきたといいます。
「小学生になる」という声があがると
みんなから「小学生」「小学生」と声が上がったそうです。

 「小学生の後は何になる?」「中学生」と
「中学生の後は?」「高校生」と
「高校生の後は?」「大学生」との声で盛り上がります。

 今の子どもは偉いなあ
人生設計がしっかりしていると感心したといいます。

 「じゃあ大学生の後は?」と聞くと
ちょっと考えて「大人」と
大人になるという返事です。

 「じゃあ大人の後は?」
「おじいちゃんおばあちゃん」と。

 「じゃあおじいちゃんおばあちゃんの後は?」と聞くと
ちょっと答えが出てこない様子です。

 その時にある女の子が「お骨になる」と言ったそうです。
というのは、その女の子のおばあちゃんが
つい最近亡くなって火葬に行って
おばあちゃんがお骨になったことを見たんだそうです。

 「お骨になる」と聞いて
他の子はきょとんとしています。
何のことかよくわからない様子です。

 そしたらある男の子が
「園長先生違うよね。
お骨じゃなくって仏さまに成るんやねえ」と
言ったというお話です。

 園児の殆どはそこのお寺のご門徒さんということですが
その女の子のご家庭は門徒だけれども
あまりお寺へのお参りがないといいます。
 一方その男の子は日頃からおじいちゃんおばあちゃんが
よくお寺にお参りされるということです。

 宗教的情操といいます。
今家庭に宗教的な雰囲気空気がなくなったといわれます。

 お家にお仏壇はあるけれども
いつも閉まっているほこりをかぶっているといいます。
 お仏壇を通して大切なものを
子や孫に伝えていくことが難しくなっています。

 私たちもその大切なものを伝えられて
今ここに仏さまのご縁をいただいていますが
そのご縁がなくなってきているという
一つの象徴的なお話です。

 さあ皆さんどうですか。
皆さんのご家庭で子どもさんにお孫さんに
今のようなお話をしたときに
何と答えてくれるでしょうか。
 大事なことです。

 私たちは死んだらおしまいではなかったですね。
確かにこの命は終えますが
そのまんま阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただいて
仏さまに成らせていただくのです。

 そのこと一つ聞かせていただくのが
仏さまのご縁なのです。
 お聴聞とはここなんですよね。

 南無阿弥陀仏のみ教えに
私たちは「私一人じゃなかった」
あなたもあなたもあなたもみんな
阿弥陀さまの大きな大きな願いの中に
生かされてあるいのちであると聞かせていただいて
日頃からお念仏申す生活をさせていただくのです。

 死んでから後のことではなく
この日常に「あなたに会えて本当によかった」と
共に手を携えてお念仏を申しつつ
阿弥陀さまのお浄土へお浄土へと
お念仏の道を人生を歩ませていただきます。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲の中にあることを
今一度私のこととして聞かせていただきました。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.2.6)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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