無明煩悩の身をお念仏申して生きる
2022-04-01
4月になりました。
昨日の雨で境内の桜も大分散って
残る桜が少なくなりました。
今朝桜の名所東京千鳥ヶ淵からのテレビ中継で
降る雨に傘をさしたレポーターが
散った桜を桜のじゅうたんと伝えていました。
満開の桜も散って行きます。
この世の中のあらゆる事象が日々刻々と
移り変わって行くという諸行無常の真理です。
私たちの社会制度にも変化があります。
新年度に入り今日から成人年齢が
20歳が18歳になるといいます。
法律で成人といわれても
当の本人は変わらない分からない
実感がないということでしょうが
社会的な責任を担う人に成るということです。
毎朝洗面をするのに鏡を見ます。
鏡を見るといって私の顔を見るのですが
今日まじまじと見て歳をとったなと思いました。
日々の移ろい社会も周りの状況も変わりますが
わが身の変わり様には中々気づかない
見ようとしない私がいます。
今日のご和讃です。
『正像末和讃』の第二日目の第一首
「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは 高峰岳山にことならず」
(無明煩悩が激しくおこり
数限りない塵のように満ちわたっている
ほしいままに愛着や憎悪をいだくありさまは
まるでそびえ立つ高い峰や岳のようである)
煩悩の心が盛んで止むことがなく
次から次に湧き起こってくるこの身を
私たちは生きていると仏さまは教えます。
無明とは最も根本的な煩悩で
真理に暗くもののあるがままのありようを
明らかに理解できない迷いの根源です。
自己中心にものごとを見ては
愛する者同士もある時は憎しみ合う
「愛憎違順」の私たちお互いのすがたです。
自己中心の思いで表裏一体の愛憎が
くるっくるっと変わるというのです。
私の心の動き私の思いです。
経教の鏡にそのまま映し出された
わが心の偽らざるすがたです。
仏さまのご縁に遇うて
煩悩具足の凡夫の身を知らせていただきます。
今日1日の御文章さまは「聖人一流章」です。
阿弥陀さまの他力の信心をいただいて
お念仏を申す身になってくれよと
親鸞聖人蓮如上人の仰せお勧めを
そのまま聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.1)
値上げの春です
2022-03-31
今朝の朝刊の一面の見出しに
「値上げの春」とありました。
ガソリン価格が高止まりで推移し
チーズや食料油、ケチャップなどの食品
ティッシュトイレットペーパーの日用品など
次々と値上がりして物価上昇が続くといいます。
ロシアとウクライナの戦争の影響で
小麦粉の輸入がままならず
パンやケーキ、うどんも
値上げせざるをえないということです。
といってスーパーに行きますと
物が溢れるほどいっぱいあります。
今の日本です。
欧米からの厳しい経済制裁でロシアの市民生活は
どのような状況なのでしょうか。
詳しい情報が入らず分からないことばかりですが
これから大変なことになってくると識者の声です。
値上げどころの話ではなく
物が無くなるという深刻な事態です。
日本も戦時中戦後とそうした生活を強いられ
物価が超インフレで
お金が紙切れ同然になったという話です。
そうした困難な中を私たちの先人は生き抜いてきて
今私たちが生きているということです。
値上げの春といっても物があるなかで
何とか工夫して生活していくことができると思います。
先日日本の生活困窮者の現実について
テレビで放送していました。
東京の公園で毎月数回行われている「炊き出し」に
一つの弁当を求めて並ぶ人が後を絶たないということです。
コロナ禍が長引くなかで
失業した若者や最近目立ってきたのが女性といいます。
随分前からも帰る家がなくて路上や公園で
生活する方はいらっしゃいました。
それぞれに様々な人生の事情があって
その日暮らしの結構年輩の方が多かったように思います。
今の生活困窮者の問題は
一見生活に困窮しているように見えない
若者や女性の生活だといいます。
表面的には見えない分からない中に
人と人とのつながりを失い
個々に孤立した実態があるというのです。
以前の地域社会では
隣近所の家々でお互いに支え合って生活していました。
隣の家隣の人のことがよく見えて分かるなかに
困った時には味噌醤油やお米などの
生活必需品を貸し借りするなど
助け合って生きてきたものです。
生きるということです。
食べるために生きるのではありませんが
生きるためには食べなければいけません。
食べることは生きることで
私たちの日々の生活人生があります。
この人生です。
「何のために人間に生まれてきたのか」と問われて
「食べるために生まれてきた」と答えますか。
食べなかったら生きられない
死んでしまうといいますが
食べても私たちはいつか必ず死ぬのです。
そこに「何のために生きるのか」という
生死の問題があるのです。
生老病死の身を生きる
この私の問題です。
仏法は生死の問題を解決する道
仏道を明らかに教え示してくださるのです。
仏道は私一人だけに開かれた道ではありません。
南無阿弥陀仏のお念仏の仏道は
ありとあらゆる世界の生きとし生ける十方衆生に
どんな人にも等しく開かれた
生死の迷いを超えてさとりの仏に成る道です。
阿弥陀さまが願われるお念仏の社会は
この私一人だけでなく
私が見える隣の人もそうですが
まだ会ったこともない知らない人たちも
共に生かされて生きていける社会です。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
食べることに事欠かない
生活ができるということではありません。
食べるためには働かなければならないし
お金も必要です。
ただ私たちが生きている根っこに
私たちはお念仏の救いの法をいただいて
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きていることを
聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.31)
年度末の思い
2022-03-30
今日もというか
朝起きて「ああもう3月30日か」と声に出ました。
今日が3月30日で明日が31日
明後日は4月1日です。
何もしなくてもではありませんが
時は移ろい過ぎ行きます。
年度末といって何かと事務的な締めをしますが
新たな年度に向けて私たちの生活も一つ見直そうと
殊勝に思うのもこの時期です。
昨日は円光寺墓地と納骨堂で
二件の墓じまいをしました。
一件は前々から言われていた方ですが
一件は急に思い立たれて相談にみえたご門徒の方です。
この数日初めての方から
二件電話があって坊守が対応しましたが
お寺に納骨堂がありますか
もしもの時は葬儀をしてくれますか
という問い合わせだったそうです。
今すぐということではありませんが
高齢になっていよいよこれからの身のふり方を考え
準備をしておこうということでしょうか。
人生の始末をつける
終活です。
病気になって延命治療をするかどうか
財産分与はお葬儀のあり方お墓の問題等々です。
年度末だなと思ったことです。
一つ今までのことを整理して
新しい年度に入ろうという気持ちで
よく分かります。
私も今年10月で70歳になります。
いい歳になりました。
人生の大きな節目です。
何か一つということを
殊更例年以上に思う今年の年度末です。
かといって今何ができるかといって
今までの私のことでいったら先送りです。
今日の夕方は「もう一日過ぎたか」と思い
「また明日」と思う私です。
今日一日が過ぎた過ぎたで
いつの間にかこの歳になって新年度を迎えます。
南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただきます。
「いつも私が一緒だよ。大丈夫だよ」と
阿弥陀さまがこの私を喚んでくださっています。
今日一日を生きることの大事です。
私が一人頑張って生きるのではなく
何もしないようだけれども生きていること
生かされていることの有難さです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
阿弥陀仏のお慈悲の中を生かされて生きて往けると
聞かせていただきます。
皆さんもそれぞれ年度末のこの時期に
心がけることがあると思いますが
今日も一日お念仏を申して
共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.30)
世界のリーダーに仏法を
2022-03-29
このたびのロシアのウクライナ侵攻による戦争は
「プーチンの戦争」という言い方をされる方が多いです。
ロシアの最高権力者プーチン大統領を
プーチンと呼び捨てです。
アメリカのバイデン大統領が
ウクライナの隣国ポーランドで
「プーチンは権力の座にとどまり続けてはいけない」と
演説したことが大きな波紋を呼んでいます。
それまでにもプーチンと呼び捨てにし
戦争犯罪人とか独裁者とか言ってきました。
確かに私たちの知る限りでは
今度の戦争はロシアの横暴が顕著です。
悲惨な状況を目にしてどうすることもできない
腹立たしい憎らしい感情いっぱいでしょうが
世界を代表するアメリカの大統領が
一方の大国ロシアの大統領に対する発言としては
いかがなものかという大方の指摘です。
アメリカがロシアの政権転換を目指しているとも取られ
内政干渉だとも言われて
逆にこの発言がこの戦争に
火に油を注ぐようになるのではないかと懸念されます。
戦争には相手がいます。
お互いに正義の戦争といって武器をもって戦いますが
仏さまから見ればどちらが善い悪いを超えて
これほど愚かなこと罪悪なことはないというのです。
戦争に勝った負けたといって
勝った方も負けた方も沢山の人が亡くなるのです。
勝った負けたを超えて
戦争で残るのは自然環境生活の破壊であり廃墟です。
人が死ぬんです。
その人の一生が終わるんです。
肉体的にも精神的にもみんな傷つくんです。
それも苦しみ憎しみがずっと尾を引くのです。
これまでの人類の歴史で
何度も私たち人間は戦争をしてきました。
戦争は愚かで虚しいことだと
何度も学習してきているのに
わかっているはずなのに
人間が唯一戦争をするのです。
世界の政治を司るリーダーたちが
正義のため祖国のためにと戦争を仕掛けて
頑張れという勇ましい声は非常に国民受けしますが
死んでいくのは一般市民です。
人間が始めた戦争は人間が止めるべきで
早く戦争を終結させるために努力するのが
本当の世界のリーダーだと思います。
このたびの戦争もある日突然起こったのではなく
それまでの伏線がいっぱいあったわけです。
そうした問題に互いに向き合い話し合って
解決策を考えるのが外交であり
リーダーたる者の汗のかきどころですが
自国の利益ばかりを考えるのでは愚か過ぎます。
本当のことが見えていないということです。
真に国際的なリーダーが待望されます。
私たち人間の愚かさについて
親鸞さまはご自身のことを「愚禿」と名のられました。
阿弥陀如来の大きな智慧と慈悲の光明に照らし出された
真実まことのわが身のすがたです。
煩悩具足の愚かな身を生きる私を知らされ
凡夫が唯一救われていく道を
私たちに明かしてくださったのが
阿弥陀如来の本願念仏南無阿弥陀仏のみ教えです。
聖徳太子さまは飛鳥時代に
摂政という政治の中枢におられて
仏教の精神を『十七条の憲法』に表されて
国を統治されました。
「仏の教化のおよぶところ
世の中はなごやかに治まり
国は富み、民は安らかに
軍隊や兵器もまったく用がなくなる」(『大無量寿経』)
と仏法に聞かせていただきます。
愚か者といってこの私のことです。
仏法の真実の鏡にわが身を引き当てて
教えていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.29)
仏事の相談色々です
2022-03-28
土曜日の大きな風と雨で
境内の枝垂れ桜が少しずつ散っています。
あらためて見ると
今年はよく花をつけていて
晴れると鮮やかだなと思います。
春本番です。
昨日は日曜日でご法事が二件あり
二件とも併せて納骨のご縁をおつとめしました。
一件は円光寺墓地で
もう一件は初めてお参りする墓苑でした。
民間の会社が入って
きれいに整美されており
様々なニーズに対応できるように
いろんなタイプのお墓がありました。
一般的に見られる
「〇○家之墓」お家の先祖代々のお墓ですが
それぞれ異なる形のものだけではなく
全く同じ規格のお墓が大きな区画にたくさんありました。
昨日納骨されたお墓は私が初めて見るタイプでした。
八件のお家のお墓を寄せた八角形の集合墓で
真ん中に樹木が植えられていました。
各お家別々にお墓の納骨室があり
お遺骨が4つ入るということです。
同じタイプのものが同じ敷地にいくつもあって
「家族葬のお墓」と命名されていました。
今はお墓まで家族葬といわれますが
ご先祖というより家族という括りで
喪主の父母そして喪主夫婦で4人のお遺骨かと
想ったりしました。
戦後社会の構造変革で家族の形態が随分変わり
今戦後生まれの世代が父母の葬儀の喪主をつとめるなかで
これからのお墓や仏壇の継承が
大きな問題になってきています。
よく聞く話で
「子どもには迷惑をかけたくない」と言われます。
親からお墓や仏壇を継承したのはいいけれど
これからのことを考えて
自分の代で一つ始末して
子どもたちのことは子どもたちで
考えたらいいというのです。
言われるところは分からないでもありませんが
という話です。
ここはよく子どもさんと話し合っておくことが大切です。
子どもに話しても仏事のことは今は関係ない話で
取り合ってくれないということでしょうが
親の思いを話しておくことです。
子どももこれから歳を重ねてくると
お墓や仏壇仏事のことを考えることになります。
ご先祖を偲ぶなかで
仏事についても見方考え方が変わってくると
私もこの歳になって思います。
昨日は午後からお墓のことで
ご門徒の方が相談にみえました。
自分の実家のお墓とお仏壇を
今のお家のものと二件継承している方です。
二件とも同じ浄土真宗の本願寺派ですが
高齢になって二つのお家共みることができないと
墓じまいの相談でした。
色々お話を聞くなかで
「実家の父母の遺骨を
今の家のお墓に納めてもいいんですか」と言われました。
二件のお家のお遺骨を一つのお墓に入れるのは
いけないと言われますが
一方のお家の継承者がいないという事情を踏まえて
私は「いいですよ」とお答えしました。
ただ子どもさんとよく相談してください
と言いました。
子どもさんにとって実家のお父さんお母さんは
血のつながったおじいちゃんおばあちゃんで
他人ではありません。
これからお墓や仏壇のあり方葬儀や法事のあり方
仏事のあり方が変わってきます。
それぞれのお家の事情が異なり
よくお話を聞いてご相談させていただくことです。
お寺でそうした仏事のご相談ができて
安心してもらえるようなご提案をさせていただきたいと
あらためて思ったことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.28)