新たな試み工夫です(2015年アーカイブ)
2022-04-16
昨日は別府別院の報恩講に
お参りさせていただきました。
16日の今日が御満座で
昨日は大逮夜というご縁でした。
報恩講は毎年親鸞聖人の御命日をご縁に
私たち浄土真宗門徒がお勤めさせていただく
最も大切な親鸞聖人のご法事です。
大逮夜はお通夜のお勤めの習わしで
夜を通して親鸞さまのご遺徳を門徒衆で偲ぶものです。
ご本山では通夜布教といって
翌日の朝まで夜を通して全国の布教使の方々が
次々にご法話お取り次ぎをされるご縁があります。
昨日は初夜勤行の後で
親鸞聖人のご一生を説かれた『御伝鈔』の御文を
拝読いただきました。
お寺の報恩講には向かって左余間に
親鸞聖人のご一生を絵に描いた
『御絵伝』をご安置します。
この『御絵伝』とあわせて『御伝鈔』を
ご門徒中で拝読させていただくのが
先人から伝えられてきた御正忌報恩講の習わしです。
一年一度の有難いご縁ですが
見ても読んでもわからないことが多く
お説教で聞きなさいということですが
昨日はパソコンのプロジェクター機能を使って
大きな画面に御絵伝を映し分かりやすい説明を添えて
『御伝鈔』を拝読させていただいたことです。
工夫です。
今の時代今の人に伝えていく工夫です。
昔からこうしていると
昔流儀のことを続けていても
人に伝わりにくいものがたくさんあって
今もそしてこれからの時代にも
どんどん遅れていくようなことです。
このお朝事は先人が伝えてくださった
仏法聴聞お念仏のご法座の尊いご縁です。
今日16日は親鸞さまの御命日で
毎月16日には常例法座をお勤めしています。
皆さんのお家にも月参りやご法事の
お念仏のご縁があります。
昔から伝えてこられたことを
今まで通りに続けていくことも大事ですが
工夫して新たに取り組むことも大事です。
時代社会のあり方が変わる中で
お寺のあり方も変わっていく新たな試み工夫です。
今日は大分の駅ビルがオープンということです。
新しい時代の幕開けを予感します。
私たちは新しいものにすぐ心ひかれますが
駅ビルも一日で新しくなったわけではありません。
古い時代があって昔からの伝統のなかに
先人のご苦労があって新しいものです。
その時代時代に工夫があったと思います。
これまでの歴史と伝統を訪ねていくなかに
いよいよお念仏のみ教えが一人でも多くの皆さんに
伝わるように工夫して
できることから実践させていただきたいと思うことです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2015.4.16)
「後生の一大事 命のあらんかぎり ゆだんあるまじき事」
2022-04-15
今日は90代の親御さんのお葬儀のご縁で
喪主の子どもさんが私と同年代の方です。
昨日は60歳70歳になっての終活の話をしましたが
私の終活であり親の終活でもあります。
老いて病気になったときのこと
そして亡くなったときのことです。
いかに生きるかということについては
楽しく考えをめぐらすことがあっても
いかに死んでいくのかということは
私はもとより家族のことについても考えたくありません。
まだまだ先の話ということですが
いつか必ずその時が来て
大切な家族と別れこの私が命を終えていくという
避けて通れない本当のことなのです。
「後生の一大事 命のあらんかぎり ゆだんあるまじき事」
蓮如上人の時代に生きた赤尾道宗さんが
浄土真宗門徒の心得を伝えてくださった言葉です。
後生の一大事です。
「死んだらどうなる?」
いつか必ずその時が来ますが
その備えはできていますかということです。
臨終の床についている方も最期の最後まで
頑張って生きようとしますし
家族の思いもそうですが
その時が来ます。
その時が来たら慌てます。
臨終の時から葬儀まで長くて三日
今日明日中に葬儀の段取りを決めないといけません。
決まったお寺の門徒檀家のお家でしたら
その心配はありませんが
その時からお導師のお寺を決めるとなると大変です。
今日お葬儀のお家は
生まれた実家が円光寺の門徒というご縁で
初めて門徒になっていただき
お寺とのご縁が始まります。
お寺のご縁は仏さまのご縁で
ご先祖有縁の仏さまからいただいたご縁と
そのままいただきましょうとお話しますが
戦後生まれの私たちは
私が主体の個人主義の社会にあって
自己中心に生きることが身について
先人が私たちに伝えてくださったことを
そのまま聞き入れていただくことが
難しくなったように思います。
今も昔も南無阿弥陀仏のご縁つながりのなかに
共々に生かされて生きてあるということを
今こそ聞いていただきたいと思うのですが
その今がバタバタする間際になってのことでは
当面のことにとらわれて中々決めることができず
後からこんなはずじゃなかったと
後悔することになりかねません。
終活といって日頃から心がけて
ご縁ご縁に聞いておくことが大切なのですね。
「後生の一大事
命のあらんかぎり ゆだんあるまじき事」と
このお朝事のご縁も
お念仏お聴聞させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.15)
久しぶりに本屋さんに行く
2022-04-14
久しぶりに本屋さんに行きました。
お店に入るとすぐ特設コーナーに
「今人気の本ベスト10」の本が並べてありました。
パッと見た感じですが
終活に関するタイトルの本が目につきました。
仕事を終え70歳になり80歳になって
人生の終い方を考える年頃です。
死と向き合いこれからの人生をどう生きるのか
待ったなしの私の課題です。
この前亡くなった石原慎太郎さんの遺作がありました。
医師から余命宣告を受けて
「以来、私の心境は引き裂かれたと言うほかない」
「事ここに及んで私が神仏にすがることは
その苦しみだけは何とか軽減してもらえまいか
ということだけだ」
「私は誰はばかりもなく完璧に死んでみせる。
私自身の死を私自身の手で
慈しみながら死にたいものだ」と
揺れ動く心境のなかにも
石原さんらしい記述がつづられています。
作家であり政治家として
周りを黙らせてしまうような強気で威勢のいい発言が
多く印象に残っていますが
死と向き合う中で不安も垣間見えます。
死は誰しも未体験のもので
いつか必ずこの身に起こるものです。
死を体験した人がいてこの世に生き返ってきて
死後の話をしてくれたら少し安心でしょうが
「死んだらどうなるのか」と
いくら考えても答えはでるものではなく
この社会からいなくなるということであり
かわいい孫や曾孫の成長が見えなくなること等々
そこだけスポットを当てて考えたら
やっぱり死にたくない長生きしたいと思うのが
私たち生身の人間の情です。
石原さんと同じ作家で誕生日も同じ
五木寛之さんも人生の終活について
これまでに何冊も本を出されています。
五木さんは浄土真宗の教えにも精通されていて
親鸞さまや蓮如さまの御一生をテーマにした本も出版し
仏教浄土真宗の見方で人生の終い方を書かれていて
興味深く読ませていただいています。
私も皆さんも人生の終い方を考える歳になりました。
「死んだらどうなるのか」「これからどう生きるのか」
人生の根本的なテーマに
真正面から教えてくださるのが仏教です。
今日の御文章さまにも拝読した「後生の一大事」です。
後生とは生きた後ということで
死んだらどうなるのかの解決が
仏教の一大事だというのです。
後生の一大事の解決こそが仏教だと
蓮如上人はズバリ仰せなのです。
親鸞聖人は南無阿弥陀仏のおはたらき一つのお救い
後生の一大事の解決だとお示しです。
それは法然聖人の教えでした。
誰もがみんな等しく念仏一つで救われる
専修念仏の仏道です。
念仏一つで救われるといって
念仏したら何か自分の思い通りのことができる
病気が治ったり金回りが良くなったり受験合格したりと
念仏が救いの条件ということではなく
阿弥陀さまのお救いの確かさを聞かせていただくことで
南無阿弥陀仏の仰せに順いまかせるというのです。
南無阿弥陀仏とお念仏申してそのまま
阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のお喚び声が聞こえてきます。
「我にまかせよ必ず救う」のお喚び声に
「おまかせします阿弥陀さま」と
御礼のお念仏を申させていただきます。
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲のおはたらきの中に
今日は一日雨の予報ですが
「雨の日には雨の日の生き方がある」と
雨降りのような人生の道行きの中にも
お念仏を申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.14)
ご法事のご縁で
2022-04-13
昨日はご法事のご縁で
私が学校の時の先生がご親族でお参りでした。
十年ぶりにお会いすることで
お勤めの後お茶をいただきながら
「先生お元気ですか」と声をかけますと
私のことを覚えてくれていてお話になりました。
覚えてくれてることが有難いですね。
在学当時のことでこうだったねなどと言われて
少し恥ずかしいようなことです。
もういいお歳で当時のままというわけではありませんが
かくしゃくとしていていつまでも先生は先生なんですね。
昨日は50回忌のご法事でした。
昭和48年にご往生されたお方です。
昭和48年です。
高校を卒業して大学生でしたが
どんな生活をしていたかなと思い出します。
あれから50年です。
いろんなことがありました。
先生の50年もいろんなことがあったでしょう。
月日の経過の中に人との出会いがあり別れがあることです。
在学時代のそれぞれの印象思い出はありますが
それから50年の年月のことは
お互いに知ることはありません。
お話をすればああそうだったの大変だったねなどと
お話をすることがあっても
それぞれの人生を歩む中で
有縁の方のご法事のご縁です。
共々に御仏前に座らせていただく仏さまのご縁です。
歳を重ねる中で人生を見る目が変わってきます。
色んなことがあったねと
自分にとって善いことも悪いことも
色々あったねと振り返る私のすべてを
すでに見通しの仏さまと聞かせていただきます。
色んなことがあったけれども
あなたに遇えてよかったという仏さまのあなたです。
その大本は阿弥陀さまという仏さまですが
仏さまのご縁を私につくってくださったのは
私のご先祖有縁の仏さまといただきます。
あなたに遇えて本当によかったと
私たちは日々今日これからの人生を生きて往きます。
それこそ思い通りにならないことも
この身に起こってくるでしょう。
そういうなかにあって
南無阿弥陀仏ナマンダブとお念仏を申して
老いて往ける病んで往ける
そして命終えてお浄土参りをさせていただける
このいのちを
どうぞ今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.13)
南無阿弥陀仏の本願力回向のお救いです
2022-04-12
今日のご和讃
「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には 還相回向に回入せり」
(南無阿弥陀仏の名号を回向していただいた恩徳は
あまりにも広大で思いはかることができない。
その回向により
浄土に往生してさとりを開くことの利益として
迷いの世界に還ってすべてのものを救うのである)が
今日12日の御文章さまにも出てまいりました。
浄土真宗お念仏のお救いのご法義を
南無阿弥陀仏の回向おはたらきといただきます。
迷いの中にありながら迷いを迷いと気づかず
朝から晩まで私が私がと自己中心に生きて
悩み苦しんでいるこの私を
阿弥陀さまは煩悩具足の凡夫と見てとって
そのまま救うとご本願をたてられご苦労くださって
この私が救われる全ての手立てを
南無阿弥陀仏の六字の名号に仕上げられて
今こここの私におはたらきです。
本願成就の南無阿弥陀仏のお救い
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
生かされてある肝要を聞かせていただきます。
聞いたから救われるのではありません。
救われているご法義を聞かせていただくのです。
南無阿弥陀仏の本願力回向のご法義です。
今までも阿弥陀さまのお慈悲の中に
救われ生かされてきたのですが
このまま聞かずに命終われば
それこそ死んだらお終いで
人間に生まれた甲斐がないもったいないと
仏法聴聞をお勧めなのです。
縁あって今私たちは仏法に遇わせていただきました。
そしてこれからも南無阿弥陀仏の回向おはたらきの中に
生かされて生きて往けるということです。
そのこと一つ聞かせていただくなかに
私一人ではなくて隣の人隣のあなたに
お念仏のみ教えを伝えていこうという心が起こるのも
「南無阿弥陀仏の回向の恩徳広大不思議にて」と
今日のご和讃そして御文章を有難く頂戴いたします。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.11)