何か悲しいお話です
2025-01-31
アメリカで旅客機と軍ヘリの衝突事故があり
乗員乗客全員が死亡したという報道です。
事故直後トランプ大統領が
SNSですぐコメントしたのが
「これは防げた事故だった」という
事故原因に関することでした。
アメリカトップの大統領として
全力で乗員乗客の救助にあたるという力強い言葉が
聞けなかったことに違和感を覚えました。
時間をおいたホワイトハウスでの声明でも
「ヘリの操縦に問題があった。
管制塔の指示にも問題がある。
バイデン時代の多様性重視の職員採用で
適切な人事が行われていなかった」と
前政権の責任追及にまで及ぶ発言を繰り返し
何かとても悲しい気持ちになりました。
先のロサンゼルスの山火事のときも
まだ山火事が鎮火せず多方面に広がり
家を失い大切な家族や友人を亡くした失意の人や
火の手の行方を心配して
大きな不安を抱える人が多いなかに
「(民主党の)知事の過剰な環境保護の間違った政策で
防火用水が十分使えなかった」などと言って
政治問題にしていたことが非難されていました。
アメリカ大統領というトップの職務と責任です。
今まさに何を為すべきかということで
事の検証はまだ後でできることです。
公の職務に従事する人ほど
公権力をもつことで
公共の福祉のためにするべき仕事です。
仕事とは事に仕えるということであり
何でも自分の思い通りにする
できることではありません。
人それぞれにこの世に生まれ
この社会を生きるなかでの仕事です。
人間に生まれた意味
生きることの意味が問われるなかでの仕事です。
どんな人も皆それぞれに
この世に生まれ生きる意味があるんだよと
仏さまは教えてくださいます。
その上での仕事です。
トランプさんの言うような
何でも損得のビジネスに
置き換えるような仕事ではありません。
トランプ流の常識ものの見方でいうと
トランプさんが目指す社会の役に立たないものは
人間に生まれ生きる意味がないと
極論されているみたいで
悲しい以上に恐い感じさえします。
どんな人も何ができるって
社会のニーズに応えられるような
仕事ができるかといえば
できることもあれば
できないこともあるということですが
生きること自体に意味があるという
仏さまのものさしものの見方でいえば
生きることが人に生まれた事に仕える
仕事といえるでしょう。
お念仏申して
あなたも私も皆共に
南無阿弥陀仏のおはたらき大きないのちにつながって
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
今私にできることを
精いっぱいさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.31)

何かさみしいお話です
2025-01-30
学校給食で残った食材で
給食調理員さんがまかないを作って
遅くまで仕事をしている教職員に
提供していたことが発覚し
減給処分になったというニュースです。
給食給食で残った食材は適切に管理廃棄する
規則に違反するということです。
この話を最初に聞いたとき
何かさみしい気持ちになりました。
法規上は確かにそうで
調理くずや残りかすは業者が回収し
リサイクル施設で飼料化するということですが
余った食材の有効活用ということでいえば
一つの工夫だと思います。
こうした現場の状況について
広く共通認識できることがなかったものかと考えると
すごく残念です。
私たちの食生活において
食べ物を粗末にしない残り物をもったいない
という食文化がある一方で
外食産業やコンビニから出る廃棄食品も多く
社会問題になっています。
食べるものに事欠く生活困窮家庭が増えて
こども食堂や弁当の炊き出しも
全国的に広く行われています。
食べることは生きることであり
食生活は全ての人に最低限享受されるべき
人間の文化生活の基本です。
食品保健衛生上十分注意配慮しなければならない
こともたくさんありますが
四角四面のものさしで一律に判断するのではなく
もったいない精神で廃棄処分しないで有効活用できる
何かいい方法があるのではないかと
その現場現場で工夫し考えることも
大切ではないでしょうか。
小回りが利かない社会になっているようです。
何でも法規に照らして四角四面で対処することで
誰からも文句を言われない責任回避できることで
本当に人にやさしい社会になっているのでしょうか。
お念仏の救いはその人人のありのままを受け入れ
そのまま救うとおはたらきです。
救いとは何か
救われるとはどういうことか
その時どきその所どころで考え工夫する
お念仏のお心に聞かせていただくことが大事です。
お念仏申して
阿弥陀さまのお慈悲の中に
あなたも私も皆共に生かされて生きている
南無阿弥陀仏のいのちのあり方を
聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.30)

お念仏申して今を生きる
2025-01-29
森永卓郎さんが昨日1月28日に
お亡くなりになりました。
難解な経済問題を身近な話題に重ねて
分かりやすく解説してくれることで
色んな分野にも精通し社会的な発言も積極的にされて
茶の間の人気者でした。
一昨年ステージ4のがん告知を公表され
厳しい治療を続けながら
それまでにも増して精力的に仕事をされていました。
毎週レギュラーのテレビ番組にも時どき出演されて
「また森永さんが出てる!お元気そう」などと
家族で話しては観ていました。
亡くなる前日のラジオ番組に
リモート出演されていたとお聞きします。
最後の最期まで強い思いをもって
生き抜いたということでしょう。
酒井雄哉阿闍梨の「一日一生」という言葉を
思い起こします。
今日一日を一生だと思って
大切に精いっぱい生きるということです。
私たちは生死流転(しょうじるてん)の
迷いのいのちを生きていると
仏教は説きます。
このたびは人間界に生まれて今生を生きていますが
これまで前生も地獄餓鬼畜生修羅人間天上の
六道の迷いの境涯を生まれては死に
生まれては死にを繰り返し
人間の命終えてこれから後生も
迷いを繰り返すというのです。
蓮如上人は「後生の一大事の解決」と申され
この人間界に生まれて来たのは
阿弥陀仏の本願力に遇うためであって
「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のおはたらきで
後生に浄土に生まれて迷いを離れさとりを開くと
お念仏のご縁をいただけよと私たちに勧められます。
阿弥陀仏の本願を信じ念仏申さば仏に成る
浄土真宗の仏道です。
往生浄土のお念仏の道すがらの今日一日です。
煩悩具足の凡夫のわが身は
生死流転の迷いを繰り返しながらも
お念仏申し南無阿弥陀仏のおはたらきに
そのまままかせて
今日一日を生き切ることができるのです。
朝起きて目が覚めてみたら生きていました。
眠っている間も心臓はじめ臓器は休むことなく働いて
生きていました。
私の思いはからいで「よかった」「悪かった」と
生活するなかにも生きていました。
「生きよう生きよう」と思うことなく
生きていました。
そして夜寝床に身をまかせて眠りにつきます。
今日一日の私の生活のその部分をとっても
私が生きているいのちというより
全く自然のはたらきそのままに
生かされているいのちでした。
大きないのちのはたらきで
生かされて生きていると気づかされます。
南無阿弥陀仏の
「まかせよ救う」のおはたらきで
阿弥陀さまのお慈悲の中に
あなたも私も皆共に
生かされて生きていると聞かせていただきます。
どこまでも迷いのいのちですが
南無阿弥陀仏のおはたらきで生死を超えて
さとりのいのちに生まれさせてくださるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.29)

「私の話~父ちゃんもいってみたい!~」※転載
2025-01-28
他人事として聞く私
仏教は、生老病死をはじめとした
「いのちの話」を説きます。
この「いのちの話」というのは
他の誰かのことではなく
「私の話」であると聞かせていただくことが大切です。
いつどこでどのような形で
終えるかわからないこのいのち。
だからこそ、今このいのちを
必ず浄土に生まれさせると
はたらく阿弥陀如来のお救いを
「私のこと」として聞かせていただくことが肝要です。
しかし、頭ではわかっていても
なかなかその通りに聞くことができない私がいます。
いのちの話をどこか他人事として聞いてしまう
私の姿です。
そのことに気づかされたご縁がありました。
息子が3歳のときの話です。
私が住職を務めるお寺の本堂で
お葬式がありました。
ご往生されたのは長くお寺を支えてくださった
ご門徒さんで
「わしが死んだらお寺でお葬式をしてほしい」という
生前の願い通りにおつとめすることになりました。
本堂にお棺を置き、多くのお花を飾ってお荘厳。
その様子を不思議そうに見つめていたのが
3歳の息子でした。
いつもと違う本堂の様子に驚きつつも
お棺のところに駆け寄り中をのぞき込みます。
すると目を丸くした息子が
「父ちゃん!父ちゃん!おじちゃんが寝てる!」と
大きな声で私を呼びました。
思えば息子にとっては初めて目の当たりにする
「いのちの終わり」。
この世に生を受けたものは
必ず終えていかなければならないという
いのちの事実に触れるご縁でした。
このご縁は大切にしたいと思い
「この方はね。ずっとお寺を支えてくださった
ご門徒さんで、この前、亡くなったんだよ。
でもただ亡くなったわけじゃなくて
お浄土に生まれていったんやで」と話しました。
すると息子は「おじょーど?」と首をかしげながら
初めて耳にする言葉を繰り返していました。
「おじょーどはどこにあるの?」
「おじょーどはどうやっていくの?」
と繰り返される質問に
ひとつひとつ答えていきました。
息子にとってこの出来事がよほど心に残ったのか
毎晩寝る前にこの話をするようになりました。
寝室に行き「おやすみ」と電気を消すと
「ねえねえ父ちゃん。あのおじちゃんは
なんで死んじゃったの?
どこに行っちゃったの?」と繰り返します。
「あの方はね。病気で亡くなったんやけど
お浄土に生まれていったんよ。
お浄土は阿弥陀さまが連れていってくれる
世界なんやで」
「おじょーど?あみださま?」
このやりとりを毎晩繰り返していきました。
私ひとりのために
すると数日後のこと。
いつものように「おやすみ」と電気を消すと
「ねえねえ父ちゃん。
ぼくね、母ちゃんが死んじゃうのがやだ。
母ちゃん死んでほしくない」
と言うようになりました。
本人の中でどんな変化があったのかわかりませんが
他人の死から身近な人の死ということに
思いが及んだのかもしれません。
「そうやね。でも母ちゃんもいつか死んじゃうけど
母ちゃんも同じお浄土に生まれていくんやで」と
答えました。
そこからまた毎晩
「ぼく母ちゃんが死んじゃうのがやだ。
母ちゃん死んでほしくない」と
繰り返すようになりました。
(ちなみに、今まで一度も
「父ちゃんが死んじゃうのがやだ」というのは
聞いたことがありません)
さらに数日後の夜。
「おやすみ」
「ねえねえ父ちゃん。
ぼくね…死にたくない。ぼく死んじゃうのやだ」と
言葉が変わりました。
他人の死から身近な人の死
そして自分のいのちへと思いが及んだのです。
その息子の姿が大切なことを
教えてくれているように感じました。
いのちの話を他人事として聞いていくのではなく
私の話であったと聞かせていただく。
阿弥陀如来の「必ず浄土に生まれさせる」という
お救いはこの私ひとりに向けられたものでした。
そのことを私たちに教えてくださった親鸞聖人は
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
ひとへに親鸞一人がためなりけり」と
常におっしゃっていたといいます。
阿弥陀如来のお救いを私のいのちの話であったと
聞かせていただくことの大切さを
味わっていくことができます。
今では「お浄土」「阿弥陀さま」と
はっきり言うことができるようになった息子は
「ねえねえ父ちゃん、ぼくお浄土いってみたい!」と
話します。
そこで「お浄土というのは…」と
説明をしていくのではなく
「そうやね。父ちゃんもいってみたい!」と
私のこととして聞かせていただきます。
※『みんなの法話』
(柱本 惇 本願寺派布教使)より転載
ー本願寺新報2025年1月20日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.28)

月曜日の朝
2025-01-27
月曜日の朝
皆さんはどんなお目覚めですか?
学校や仕事が始まる月曜日です。
「さあーやるぞ!」と新たな気持ちで始める人もあれば
あったかい床の中でモジモジしている人も
人それぞれに思いはからい色々だと思います。
今朝のテレビ番組で
「一日の始まりは清水寺」と
早朝開門してすぐ清水寺にお参りして
「襟を正して今日一日を始める」と言う方が
紹介されていました。
四季折々に朝日が昇る頃
京都の町を一望できるところに立って
日々さまざまな思いで日暮らしするなかで
新たな気持ちで今日一日を始めるということです。
朝6時円光寺の梵鐘がなります。
「一日の始まりは円光寺」と
ご門徒お同行が一人二人三人と
お朝事のおつとめにお参りされます。
お寺参りはお浄土参りの習いです。
この私が人の命終えて往くところを
阿弥陀さまが用意してくださったお浄土です。
私の懐かしい方々が
先に往ってらっしゃるところです。
お念仏のおはたらきとなり
いつでもどこでもこの私にご一緒してくださり
お浄土に導いてくださる善知識の仏さまです。
あなたも私も皆共に
お念仏申して今日一日も
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
往生浄土のお念仏の道を生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.1.27)
