沖縄復帰50年
2022-05-12
朝のNHK連続テレビ小説は
今は「ちむどんどん」という
沖縄を舞台にしたドラマです。
ここ数日ずっと沖縄に関する話題が
テレビで放送されています。
沖縄が日本復帰して5月15日で
50年の節目ということです。
50年前私は大学2年生で
大学内では終日ヘルメット姿の学生が
「沖縄返還阻止」とマイクで叫んでいました。
沖縄の4人に1人が犠牲になった激しい沖縄戦から
アメリカ統治下が続き
戦後27年でやっと日本復帰ということですが
それは戦後現在もずっと続く米軍基地を取り巻く
沖縄差別ともいわれる長くて重い苦難の歴史です。
今ロシアが侵攻しているウクライナのことと
重ねて思います。
戦争状態ではありませんが
米軍基地が沖縄の多くの土地を占領し
米軍機が爆音を鳴り響かせながら低空飛行を繰り返す中に
日常生活を強いられている沖縄の現実です。
ちむどんどんはワクワクするという意味だそうです。
希望をもって生きるということでしょう。
昔からの沖縄料理を紹介しながらドラマは展開します。
テーマは「食」食べるということです。
昨日のテレビ放送では10代20代の若者が
50年前の沖縄を訪ねて当時の人にインタビューしますが
今の日本に生きている人には信じ難いような話もあり
涙する人もいました。
ドラマでは家族が一緒に食事をする場面が
よく登場します。
映像は50年前とはとても思えないきれいなものですが
大変苦難の多い生活のなかに
悲しいことも辛いこともあったと思いますが
みんな食べて生きてきたということです。
テレビの最後に50年前の若者今80代の方が
沖縄の歴史を学んでほしいと切実に訴えていました。
沖縄の人人が生きてきた歴史です。
私たちの先人が生きてきた歴史があって
今ここに私たちが生きているということです。
50年前から100年200年前から
もっともっとずっとずっと前から
私たちの先人は食べて生きてきたのです。
そして今ここにこの私が生きています。
当たり前のようですが実は本当に有難いことなのです。
昨日お話しました。
仏さまの教えは何か自分にとって都合の良い
奇跡を起こしてくれるような教えではありません。
自己中心の思いはからいに生きて
当たり前のことを当たり前と素直に受け入れられず
苦しみ悩み迷う私を教え知らせて
そのまま救い導いてくださるのです。
阿弥陀さまが「われにまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでもご一緒です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.12)
当たり前のことを素直に受け入れ感謝する
2022-05-11
朝から雨になりました。
雨の中をようこそお参りです。
雨のことで妙好人源左同行のお話です。
急に大きな雨にあってびしょ濡れになって
田圃から帰ってくる源左さんを見たお寺の住職が
「じいさん、ようぬれたのう」と声をかけると
源左さんはずぶぬれの顔をにこにこして
「ありがとござんす、御院家さん
鼻が下に向いとるでありがたいぞな」と言ったそうです。
鼻が上向きについていたら
雨がみな鼻の穴に入ってしまって難儀なことだが
何とした有難いお手回しか、鼻は下向きについている。
おかげでどんな大雨にあっても苦にならないと
「ようこそようこそ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と
喜ばれたのです。
鼻が下向きについているという当たり前のことに
無限の不思議を感じ深いいのちの感動を味わう心こそ
仏法にお育ていただいたことなのでしょう。
臨済宗を開かれた道元禅師が中国に渡り修行を積まれて
日本に帰り周囲の人に仏道修行の成果を
「眼は横に並び鼻は縦にまっすぐついている
ことがわかった」と語ったというお話です。
そう聞いて皆さんはどう思いますか。
こんなこと誰でも知ってる当たり前のことだと
思うのではありませんか。
仏教の真意はといって
何か不思議な奇跡を起こす宗教ではありません。
当たり前のことを当たり前に素直に受け入れ
感謝しているのかと
私が問われているのです。
自己中心の思いはからいに生きて
苦しみ悩み迷う私を教え知らせて
そのまま救い導いてくださるのです。
今日も朝目が覚めましたね。
目が覚めたら生きていたのです。
私が生きよう生きようと思って
目を覚ましたのではなくて
目が覚めたら生きていた生かされていたのです。
ゆるされて今日のいのちをいただいたのです。
オギャあとこの世に生まれて
人の命恵まれたということですが
一日一日がまさに目が覚めて命を恵まれ
ゆるされて生きていけるということです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日の一日を始めさせていただきます。
お念仏を申したらどうなるのかと
自分の思い通りになるのかといって
良いことも悪いこともどんなことがあっても
「われにまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまがご一緒です。
今日も一日雨模様ですが
「雨の日には雨の日の生き方がある」と
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.11)
接種と摂取
2022-05-10
今日の御和讃は浄土三部経の一つ
「仏説阿弥陀経」のお心を讃嘆するものです。
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」
(数限りないすべての世界の念仏するものを身通され
摂め取って決してお捨てにならないので
阿弥陀と申し上げる)で始まります。
阿弥陀さまを摂取不捨の仏さまと讃えます。
念仏申すものを光明の中に摂め取って捨てることがない
仏さまになってくださいました。
今日の御文章の中にも
「摂め取って捨てず」の文言が出てまいりました。
今はせっしゅと聞くとワクチン接種を思い起こします。
阿弥陀さまの摂取とは漢字自体が違います。
摂取とは異なるものの中に入って
同化するはたらきをいいます。
異なるものとは阿弥陀さまからいったら
この私のことです。
仏と凡夫の関係で
この私は救われようのない凡夫です。
その私を同化するとは
南無阿弥陀仏の同じおはたらきの仏にしてくださるのです。
一方ワクチン接種の接種は
種を植え付けるという意味で
健康な体にワクチンという異物を入れるわけですから
副反応の症状がでるのは不思議ではありません。
仏に成る種を阿弥陀さまが
この私に植え付けるのです。
阿弥陀さまはこの私に仏に成る種がないと
見抜かれたのです。
親鸞さまは
「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と
注釈されています。
阿弥陀さまを背にしてどこまでも逃げ惑うこの私をこそ
阿弥陀さまはどこまでも追いかけて
必ず救うと味わわれたのです。
善根を積んで阿弥陀仏に向かって近づいていく
聖者や善人を迎え取るということではなく
阿弥陀仏に反逆しその救いの手から逃げようとしている
愚かなこの私をどこまでも追い求め
教えを受け入れるものに育て導いていこうと
本願大悲の光明のおはたらきをいただかれたのです。
言うことを聞く者は放っておいてもいいのですが
言うことを聞かないのがここに居るというのです。
この私です。
だからこそ阿弥陀さまの方から
追いかけてくるというのです。
「本願を信じ念仏申さば仏に成る」との
浄土真宗のご法義ですが
そのまま聞くと私がという主語になります。
阿弥陀さまの摂取不捨の
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
阿弥陀さまがこの私に本願を信ぜしめ念仏申さしめて
浄土に迎え取って仏に成らせるのです。
この私一人を救うために
遥か昔から長い間ご苦労くださって
すっとお立ちの南無阿弥陀仏の仏さまに
成ってくださったと
今日の御和讃をまた深く味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.10)
他力の信心いただいてお念仏申す生活です
2022-05-09
浄土真宗は他力のお救いのご宗旨です。
今日の御和讃の中にも
「自力の心をひるがえし」という
文言が出てまいりました。
自力の心をあらためて
他力の信心を得ようといわれます。
他力とは阿弥陀さまの本願力
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
浄土真宗は南無阿弥陀仏一つで
どんな人も等しく救われるご法義です。
今日9日の御文章さまは
「数珠の章」です。
お寺にお参りする人の姿を見ると
数珠を持たない人がいるといいます。
数珠を持たないでお寺にお参りする人は
仏さまを敬う気持ちが欠けているようで
仏さまのお救いに遇うことはできないと
見るのが私たちですが
阿弥陀さまのお救いは数珠を持たなくても
他力の信心一つで十分だとのお示しです。
他力のお救いには
数珠を持つとか持たないとか
善いことをしたとかしないとか
悪いことをした人も
すべて等しく救うということで
救いの条件がないのです。
すなわち「他力の信心一つばかりなり」に
おさまるのです。
阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲のおはたらきのなかに
私たちはもうすでに摂取不捨され生かされてあると
そのこと一つ聞かせて
信心いただいてくれよというのです。
では他力の信心をいただいたら
私たちはどう変わるのかと質問されます。
変わるところと変わらないところがあります。
凡夫のこの身は変わりません。
お念仏喜ぶ人も欲の心怒りの心愚かな心が
命終わる時まで絶え間なく出てくるのです。
何が変わるのかというと
他力のご宗旨に遇わせていただくと
お念仏申す身にさせていただけるのです。
お念仏に凡夫の身と聞かせていただき
そのまま救われていくのです。
凡夫の身をお念仏申して生きて往けるのです。
私が私がとどこまでも自己中心に生きる私ですが
阿弥陀さまがいつもご一緒の私です。
阿弥陀さまのお慈悲に摂め取られ生かされ
阿弥陀さまのお心に適うような
私にできるご報謝の生活をさせていただきます。
私たちの生活ぶりはそれぞれ違いますが
南無阿弥陀仏の大きなお心おはたらきのなかに
今日もお念仏申す生活をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.9)
今日は母の日(2016年アーカイブ)
2022-05-08
今日は5月の第2日曜日で母の日です。
今朝のご和讃は『観経讃』といって
浄土真宗の所依の経典浄土三部経の一つ
『仏説観無量寿経』を讃えるご和讃です。
観無量寿経には「王舎城の悲劇」という物語が説かれ
阿弥陀さまの救いの目当てが悪人にこそあると
親鸞聖人がいただいているご和讃です。
今朝は第三首目の
「阿闍世王は瞋怒して」から始まりました。
阿闍世王はお母さんである韋提希夫人を激しい怒りで
殺害しようと剣を抜いて襲いかかったといいます。
余程の怨念があったのでしょうが
王の父を殺して王の座を奪った王子は数知れないが
未だかつて母を殺す無道な業をしたものはないと
周りの重臣にたしなめられて止めたといいます。
母を殺すことは父を殺すことと同じように
仏教において五逆罪の重い罪にあたります。
母の日は母に感謝するということですが
母の恩父の恩という親の恩とはどういうことでしょうか。
私は今ここに生きていますが
この命はどこから来てどこに往くのか
考えたことがありませんか。
考えても人知に及ばないことで
考えても仕方がないと思っている人が殆どだと思いますが
確かに言えることは
この私の命はお父さんとお母さんがいてくださっての
命だということです。
お母さんのお腹の中から生まれて来たことは
確かに頷けるところです。
親の恩の極みは
この私を産んでくれたということです。
この世に生まれて
今こここの私を生きているのです。
生きているから楽しいこともあれば
苦悩することもあるわけです。
そして生きているから
仏の教えに遇うこともできるのです。
私のお母さんです。
今もこの世に健在の方もいるでしょうが
亡くなった方もおられるでしょう。
仏法を聞かせていただくと
死んだらおしまいではないんですね。
命終えてこの目に見ることも
懐かしい声を聞くこともかないませんが
今はお浄土の仏さまとなって
南無阿弥陀仏と私のところに還って来て
「まかせよ救う」とこの私を護り救うおはたらきを
してくださっていると聞かせていただきます。
ご和讃のなかに何度も方便の言葉が出てきました。
嘘も方便といいますが
これは嘘ではありません。
方便とは真実に導く手立てという意味で
真実を見ることができない私のために姿を変えて
真実に導いてくださるおはたらきです。
観経王舎城の悲劇の登場人物は
善いも悪いも皆浄土の聖者だと
親鸞聖人はいただかれています。
お母さんのことだけではなく
先に往かれた大切な人のことを思い起こすときは
南無阿弥陀仏とお念仏申しましょう。
お念仏申すところに
いつも私とご一緒してくださっています。
この時期皆さんのお家にお参りしますと
お仏壇にカーネーションのお花を
お供えされているところがあります。
今は人の命を終えてお浄土に往かれた
お母さんを敬い慕い感謝の思いを伝える尊いすがたです。
今もわが子にかかりっきりになって
「仏法に遇って、お念仏申す身になってくれよ」と
おはたらきのお母さんの仏さまです。
今日の母の日
お念仏申してお母さんをたずねてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2016.5.8)