弥陀の本願の船に乗せていただく
2022-04-25
北海道知床半島で観光船が遭難し
乗船していた26名中10名がお亡くなりになり
残る16名の方が行方不明で捜索中というニュースです。
風が吹き波も高く地元の漁船も出航を見合わせる中
岩が多く座礁する危険がある難しい海域に
なぜ観光船は出航したのでしょうか。
船を出す出さないは船長が決めることで
船に乗る乗らないは乗船する人が決めることです。
万全の安全を確認して船を出すのでしょうし
船に乗った以上は船にまかせるしかありません。
阿弥陀さまのお救いを
弥陀の願船と船に喩えられます。
「弥陀にまかせよ必ず浄土に送りとどける」の
阿弥陀さまのお喚び声に応じて
船に乗って船にすべてをおまかせです。
果たしてこの船にまかせて大丈夫かと思ったら
不安が募ります。
この船に乗らなくても別の手立てがあるならば
どちらにするか考え悩みます。
こうした私たちの不安や疑心を見抜かれた上で
阿弥陀さまは私たちが一人残らず救われる手立てを
南無阿弥陀仏と本願成就して
何度も何度も「我にまかせよ必ず救う」と
喚び通しに喚んでくださっているのです。
「私が一緒だから大丈夫だからまかせよ救う」と
わが船に乗れと喚んでくださっているのです。
阿弥陀さまの願船を前に不安な私はどこにいるのか
この迷いの世界です。
自力のはからいに右往左往する私が
どこまで行っても迷いの世界であり
この人間の命を終えても
どこか分からない迷いの世界を順次経巡っていくと
仏法に聞かせていただきます。
親鸞さまは生死の迷いを超えて
この私がさとりの仏の世界に往き生まれる仏道は
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
弥陀の本願を信じ念仏の船に乗せていただくことだと
法然さまからお聞かせいただき
念仏のみぞまことの本願の船に乗られて
私たちにもお勧めなのです。
命終えてどこに行くのでしょうか。
阿弥陀さまのお浄土に連れて往ってくださると聞いて
本願の船に乗せていただく一つで
私の浄土往生は決定されているのです。
船に乗る乗らないはその人が決めることですが
本願の船に乗る乗らないと迷う私を
南無阿弥陀仏のおはたらきでそのまま乗せてくださる
他力のお救いです。
悪天候の中を座礁の恐れがある海域に
船を出すことが危険なことは
これまでの経験や知識からしてわかることで
どうして出航を思い止ませなかったのか
船長はじめ責任者の判断がわかりません。
阿弥陀さまの本願の船に乗って往くお浄土は
私たちの知恵や経験でわかることはできません。
誰しも行ったことがないお浄土であり
私のところで判断することは実は無いのです。
ただ乗る乗らないの私の自力のはからいを捨てて
阿弥陀さまの他力のおはたらきにまかせる以外にないのです。
仏法聴聞させていただいて
阿弥陀さまの真実まことのお心に疑いがなくなるときに
「おまかせします阿弥陀さま」と
お念仏申してそのまま本願の船に乗せていただく
南無阿弥陀仏のお救いの法です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.25)
多様な価値観の社会に共に生きる(2018年アーカイブ)
2022-04-24
今学校の授業内容が大きく変わってきています。
昨日放送のNHK『クローズアップ現代+』は
ちょっと衝撃でした。
学校で道徳の時間は今までもありましたが
今年から道徳が教科になったということで
国語算数理科社会と同じように
評価の対象になるといいます。
この道徳の評価はその人の価値観
ものの見方考え方を評価することにつながり
どのように評価するのかされるのか
一つのものの見方考え方に導くような危険性が
以前から指摘されてきました。
今の社会は多様な価値観の社会で
一つの物事を見るにもいろんな見方があります。
いろんなものの見方をもった私たちお互いが
人それぞれのものの見方を尊重しつつ
共に生きる社会でありたいとの理念のもとで
多様性の社会のなかの道徳が
学校教育に求められるということです。
昨日の番組では学校の現場での
実際の授業が公開されました。
先生はこういう方向で授業を進めたいということですが
大方の生徒が先生の意図する意見を言うなかで
一人の生徒が皆とは違う考えを発表したのです。
その時の他の生徒の反応です。
「えっそんなこと考えてるの」
「皆こう考えるのに、それは違うんじゃないおかしいよ」
といった意見です。
大勢の中でその子の意見が聞いてもらえないことで
その子が涙を流すんです。
「何でわかってくれないの」と
やりきれない悔しい思いです。
そこは先生がその子に寄り添って
フォローしていましたが
その子の意見も聞けばなるほどと分かるんですね。
いろんな見方があるということです。
共に生きるという視点での方向も大事ですが
もう一つ大事なことはただ一人の少数意見であっても
一人一人の意見を大切にしていくということです。
こんな意見もあるものの見方もある
ということを知る学ぶということです。
こんな意見もあるよと聞いていく姿勢が
非常に大事だと思います。
多数意見に飲み込まれて
みんな同じ方向に行ってしまう
疑いを許さないということになると
大変な社会になると思うなかに
仏法のものの見方考え方を
知ってほしい聞いてほしいと思います。
十方衆生生きとし生けるものすべてを
分け隔てなくそのまま救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏の仏法です。
仏法を聞いて共に敬い認め合うなかに
お互いが生かされて生きるお念仏の社会を思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2018.4.24)
私にぴったりの南無阿弥陀仏の服です(2016年アーカイブ)
2022-04-23
今日の御文章「一念大利章」に
「不可称不可説不可思議の大功徳」と何度もありました。
阿弥陀さまの十方衆生を救うというおはたらき
無上大利の功徳です。
他力の本願、他力の信心、他力の念仏といって
南無阿弥陀仏の他力のおはたらきです。
先日の新聞のコラムに大分市内府内町の
服飾デザイナー鶴丸礼子さんの記事がありました。
鶴丸さんは服を作るお仕事をされていますが
身体に障碍をもたれた身障者の方の服を専門に作り
福祉に貢献があったことで
大きな賞をいただいたということです。
自分の身体に合ったオーダーメイドの服を作るのは
お金も時間もかかって大変です。
大抵は既製服を求めて買いますが
既製服はS、M、L、LLの決まったサイズがあって
自分の身体にぴったり合った服を
手に入れることは中々できません。
どこか長かったり大きかったりします。
私の身体にぴったり合う服は
オーダーメイドの服です。
鶴丸さんは身障者の方にそれぞれぴったりの服を
デザインするということで
46か所身体のサイズを測るといいます。
私たちが求めるオーダーメイドの服以上に
工夫がいるし時間がかかります。
私たちの阿弥陀さまの他力のお救いは
服のことでいうと既製服のお救いではありません。
オーダーメイドのお救いです。
ここに私たち7人いますが
7人それぞれ服のサイズは違います。
私たち7人の生活ぶりはそれぞれ違いますが
阿弥陀さまは私たち一人一人をそれぞれに
7人いれば7人7様にお救いくださるのです。
南無阿弥陀仏の他力のおはたらきのお救いです。
私がオーダー注文してから救うのではありません。
阿弥陀さまの方でもうすでに
この私が救われるすべての手立てをつくられて
私たち一人一人に届けてくださっている
南無阿弥陀仏一つのお救いなのです。
今日も何度もお念仏を申しましたね。
皆さんそれぞれ声の大きさも高さも違い
私の声そして隣の人の声ですが
そのまま阿弥陀さまの「まかせよ救う」の
お喚び声と聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏の私の服を着させていただくのです。
私にぴったりの南無阿弥陀仏の服です。
この私にぴったりの南無阿弥陀仏の服をつくるために
阿弥陀さまは46か所どころじゃありませんよ
無量無数のまさに不可称不可説不可思議の工夫をし
永い時間をかけて南無阿弥陀仏と仕上げてくださった
阿弥陀さまのお救いなのです。
そのこと一つ聞いてくれよと
南無阿弥陀仏のご法義です。
今日一日も南無阿弥陀仏の私にぴったりの服を着て
お念仏を申す日暮しをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2016.4.23)
諸仏にすぐれて阿弥陀さまは
2022-04-22
今日22日の御文章は「男子も女子も章」です。
この中で「諸仏」という言葉が再々出てきます。
まず「諸仏の悲願をたのみても」とあります。
諸仏とは阿弥陀仏以外の諸々の仏さま方です。
男子も女子も罪の深いものたちは
諸仏のお慈悲をたよりにしても
今は末法の世なので
諸仏の力ではとても救われないというのです。
次に「諸仏にすぐれて」とあります。
阿弥陀仏は十悪五逆の悪人をも救うという
すぐれた願をおこし仏と成られたお方で
「私を深くたのんで二心なく信じる衆生を
たすけることができなければ
私はさとりを開かない」と誓われた阿弥陀仏だから
私たち衆生が浄土に往生することは疑いないというのです。
阿弥陀仏の本願は十方衆生すべてのものを救うと
末法の世に生きるどんなに罪深いものも
「十人は十人ながら百人は百人ながら」と
一人も残さず救うというのです。
すべてのものと聞いてこの私のことです。
この私をこそ必ず救うと
どんなに罪深くともそのまま救うと
南無阿弥陀仏の力強いおはたらきを
聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.22)
「なんのようもなく」そのまま救う
2022-04-21
今日21日の御文章は「在家尼女房章」です。
在家の女性信者である
厳しい家庭生活の現実を生きる女性の
仏道を述べられたものです。
蓮如上人の当時も女性を「五障・三従」と見て
女性は成仏できず男性に対する従属を強いる
つよい差別がありました。
三従とは、女性は幼くして親に従い
結婚しては夫に年老いては子に従うという
従属的な存在として見られていたのです。
昨日のニュースです。
牛丼チェーン吉野家の常務の発言が
女性蔑視と大きな問題になっています。
去年の東京オリンピック組織委員会
森会長の発言を思い出します。
識者のコメントは日頃から女性蔑視の発言が
社内外でされていたのではないかという指摘です。
周囲に受けるような面白い話を
されていたという報道もあります。
社会的な影響力のある人だからこそ
その発言で嫌な思いをする人がいるという
想像力が欠けているとしか思えません。
そしてその場にいた人の反応も
笑い声すら起こったということの重大さです。
森発言の時と重く重なります。
女性蔑視のものの見方が
いかに根強いものであるかということです。
蓮如上人は「在家尼女房章」のなかで
阿弥陀さまのご本願のお救いは「なんのようのなく」と
特別なはたらきや条件を必要としないと書かれています。
阿弥陀さまのお救いには
何の条件もないというのです。
男子も女人も誰もが何の条件もなく
救われるといってこの私のことです。
この私が男であろうと女であろうと
地位や名誉を築いた人であろうとなかろうと
富んだものも貧しきものも
そのまま救うというのです。
そのまま救うとおはたらきの阿弥陀仏の本願だから
この私が救われるのです。
蓮如さまはそのことを私たちに
何通も何通もお手紙にして
御文章さまを届けてくださっているのです。
「在家尼女房」と「男子も女子も」と言葉を紡ぐのは
当時の社会常識に抗うことであったと思いますが
当時の女性は深い感動をもって御文章さまを
拝読されたのではないでしょうか。
今私たちが生きているこの現代の社会です。
変わっていないということです。
あの常務さんは49歳だそうです。
私たちよりずっと若い
この社会の第一線で活躍されている方です。
昔の人も今の人もではありません。
同じ時代社会を生きる私たちこの私の問題です。
男だから女だから男らしく女らしくって
日々の生活のなかで言葉にすることがありませんか。
私たちのものの見方はどこまでも自分中心です。
だからこそ阿弥陀さまのご本願のお心を
聞かせていただいて
そのことを私の隣の人に一人でも多くの人に
お伝えしていくことが
お念仏申して生きる者のつとめだと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.21)