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お念仏を申す生活法話

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南無阿弥陀仏のいのちの宝もの

2022-05-17
 ある歴史学者の先生が
「歴史は私たちに多くのことを教えてくれるが
学ばなければ教えてくれない」と言っています。

 私たちの仏法仏さまのみ教えに重ねていうと
「仏法は私たちに大事なことを教えてくれてるが
仏法に学ぶ聞くことがなければ教えてくれない」です。

 南無阿弥陀仏の仏法に遇って
お念仏申す身になってくれよと
阿弥陀さまの願いです。
 お釈迦さまは仏法に遇わせていただくために
この人間界に生まれて来たんだよと
私たちに仏法聴聞を勧められます。

 仏法に遇ったらどんな良いことがあるのかといって
私たちの世間でいう良いこと
私の思い通りになるということではありません。
 もっとすごいこの上ない
いのちの宝ものをいただけるというのです。

 仏さまのみ教えを聞かせていただくと
私たちは迷いの境涯にあって
愛憎の中に苦悩しているといいます。

 そう言われて私のことと聞く人はいないでしょうが
聞いておいてくれよというのです。

 迷いの境涯を生まれては死に生まれては死にと
生死流転を繰り返し
このたびはこの人間界に生まれたといいます。
 人間に生まれたからこそ
仏法に遇うことができるんだよと
お釈迦さまが説かれたお経さまに学ばせていただきます。

 お経さまに
阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって
迷う私をそのまま救うとおはたらきだと
聞かせていただきます。

 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
どんな人も等しく迷いの境涯から救われると
仏法を聞いてくれよというのです。
 聞かずじまいに終わる人生は
また迷いの世界を繰り返すことになって
空しいよというのです。

 このお話も聞くご縁がなかったら
まさに聞かずじまいに終わるお話です。
 ご縁をいただきました。
仏法聴聞のご縁です。
よかったですね。

 じっとしていてご縁をいただく
ということではありません。
 今日のご縁も皆さんが心がけて
この円光寺にこの時間にお参りをされたということです。

 でもこうしてこの御仏前に座ってみると
私がではなかった
仏さまのお手回しがあったと
その仏さまは阿弥陀さまでありお釈迦さまでありますが
皆さん有縁の仏さまが「ここに座れ」と言ってくれて
どうか仏法聴聞してお念仏申す身になって
この世を生き抜き命終えてお浄土に生まれて来いよと
南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏のいのちの宝ものをいただいて
お念仏を申して今日の一日を始めさせていただける
有難さをまた思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.17)


「いざ鎌倉!」

2022-05-16
 昨日は仏教壮年会の皆さんにお手伝いいただいて
伝道掲示板の撤去そして境内をきれいにお掃除いただき
有難うございました。

 今大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を楽しみに観ています。
昨日は源頼朝と義経兄弟の確執と葛藤を描く場面ですが
平家討伐の最大の功労者の義経が
権力闘争の渦中で兄頼朝に討たれるという歴史の結末です。

 鎌倉殿は頼朝が初めて開いた武家政権の鎌倉幕府で
キーワードは「いざ鎌倉!」です。

 源氏と平家の大きな武士勢力の争いですが
源氏を支えたのが坂東武者でした。
 坂東とは関八州、現在の一都六県の地域を指し
東国の武士のことです。

 有力者がそれぞれに所領をもって民衆と共に生き
その生活ぶりもものの見方考え方も違います。
 ただ鎌倉幕府に一大事が起こったときは
「いざ鎌倉!」と皆が鎌倉に駆け付け
結束するというのです。

 坂東武者の心意気は同じだということです。
ただ思うだけではなく一大事に行動に出るということで
権力者からいったら都合の良い言葉です。
 ただその人人の思い心意気を大事に
尊んできたということです。

 昨日の仏教壮年会の皆さんの姿に
重ねて思います。
 円光寺というお寺
お念仏のご縁につながった私たちのお寺です。

 その私たちのお寺の一大事です。
皆さんの思い心意気を寄せるということです。
 昨日の作業も到底一人二人ではできないことで
皆さんのご加勢があったればこそです。

 「いざ円光寺!」です。
いつもではありませんが年間何回かあります。

 その「いざ円光寺!」の心意気を育ててくれたのは
平生の今なのです。
 平生の今今今が大事ということです。

 この私の人生一生です。
この命恵まれお念仏のご縁をいただいて
お念仏申す身を生かされて生き抜き
命終わって阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏と成って
南無阿弥陀仏のおはたらきをさせていただきます。

 時空を超えて南無阿弥陀仏の大きないのちの
つながりのなかに共々に生かされて生きている私たちです。
 南無阿弥陀仏とお念仏申して生きる
私たちの心意気です。

 皆さんそれぞれに生活ぶりは違いますが
平生今お念仏申すなかに
いざいざいざと今日一日も
お浄土への人生を歩ませていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.13)


お孫さんのお導師でお勤めです(2014年アーカイブ)

2022-05-15
 私たちのお念仏のご法義の確かさ
有難さを本当に思います。

 今<百華の集い>という浄土真宗門徒学習講座を
三つのグループで行っていますが
昨日は三佐地区外の明野、明治、鶴﨑のご門徒
8人の夜の会でした。

 半数以上の方が最近大切な方とお別れをして
新しくご門徒になられたご縁で
夫婦が二組、親子が一組の五組の家庭8人の構成です。

 昨日有難かったのは
夜9時過ぎに会は終わりましたが
私と同年輩の女性の方が携帯の写真を見せてくれたのです。

 5歳と3歳のお孫さんが近くに住んでいて
たまたまおばあちゃんのお家に来られて
二人でお仏壇の前に座ってお勤めを始めたというんです。

 お家にあるお経本を持ち出して
私がいつも座るところに子どもさんたちが座り
その後ろに座布団を敷いて
おじいちゃんおばあちゃんを座らせ
チーンチーンとリンを鳴らして
5歳の子が「キミョウムリョウジュニョライ」と
お勤めを始めたということで
その時の写真でした。
 とてもうれしかったといいます。

 曾ばあちゃんがお亡くなりになり
ご法事のご縁がたびたびあって
そのお孫さんたちも一緒にお参りされていたのですね。

 お参りしていたといっても
子ども同士ですから
ご法事中もワーワーワーワー言って
お家の人にとっては
ご院家さんのお勤めの邪魔をするようで
申し訳ないという思いがあったと思いますが
そういうなかでもちゃんと見ていたのですね。

 皆がしていることを見ていて
まねをするんですね。
 子どもって本当にいいなあ有難いなあと思うのは
そのまんまなんですね。
 そのまま見た通りに
お仏壇の前に座って手を合わせ「キミョウムリョウ」と
声に出してナンマンダブとお念仏申すのですね。

 こうしなさいと言われてするのではなくて
そのままできるのですね。
 仏さまのおはたらきです。
その仏さまは大本の阿弥陀さまですが
このたびのご縁でいったら
先に往かれたご先祖有縁の仏さまです。

 その子どもさんにとっては
曾おばあちゃんの仏さまです。
 大切なお方とお別れをする悲しみのご縁ですが
曾おばあちゃんは死んだらおしまいではなくて
今はお浄土の仏さまと成って私たちに
仏さまのみ教えを聞いてくれよお念仏を申してくれよと
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私と共に生きてくださっているという
仏さまのご縁です。

 浄土真宗のご法義の有難さです。
昨日も8人のお方が熱心にお聴聞くださっている思いを
ひしひしと感じます。

 仏法お聴聞のご縁をつくってくださった
仏さまのあたたかいご縁を
ご一緒させていただいたことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2014.5.15)


私のいつもの日常の有難さ(2013年アーカイブ)

2022-05-14
 昨日は大分教区の仏教婦人会総会のご縁で
大阪からご講師をお迎えして
お聴聞させていただきました。

 お寺のご住職で
介護施設を経営されている方です。

 施設には色んな人が入所していて
中には職員の言うことを聞かずに
職員を煩わす問題老人がいるというお話です。

 朝の食事の時にご飯を口に運ぶと
「違う」と言って食事を受付けない人がいるそうです。
 職員が「どうして?」と話を聞いていくなかで
あっと気づいたということです。

 その方はずっとお仏壇のあるお家で生活をしていて
毎朝ご飯を炊いて一番にお仏壇にお仏飯をお供えしてから
朝ご飯をいただくのがいつもの日課だったというんです。
 それで仏さまにお仏飯をあげる前に
ご飯をいただくことが「違う」ということだったのです。

 また毎月ある一日にそしてお盆やお彼岸に
決まって暴れる老人がいたといいます。
 これも問題ですが話を聞くと
そのある日とは連れ合いの方のお命日で
そしてお盆お彼岸ということです。

 このおばあちゃんは大切な人のお命日や
お盆お彼岸には決まってお墓参りをしていたそうです。
 ところが施設に入ると団体生活ということで
自分勝手なことができないんですね。
 そのことを表現できないもどかしさがあって
暴れるということになったのです。

 何かちょっとでもみんなと違う行動をすると
問題行動だとみられますが
その人その人それぞれの日常生活を思います。

 私たちのいつもの日常でいうと
このお朝事のご縁もそうですね。
 朝起きて朝の支度準備をして
お寺にお参りし皆さんとご一緒にお勤めをして
今日の一日を始めるということです。

 先のお二方にとって日々の生活で
お仏壇がないとか自由に行動できないとかでは
いつもの日常とはいえないんですよね。

 確かに福祉サービスは充実して
お年寄りにとって生きやすい環境になったと思います。
 でもその人人が今までずっと暮らしてきた
日々の営みということからすると
日常ではない生活に押し込められているような
感じさえあるのではないでしょうか。

 人それぞれその日常は違います。
全ての人がお仏壇にお仏飯をあげてから
食事をするといった生活ではないと思います。
 お仏壇の無いお家もたくさんあるでしょうし
仏教ではない神道やキリスト教など
色んな宗教のお家もあると思います。

 その人人の日常の生活なんですね。
その人としっかり向き合うなかに
その人が今何をしたいのか
何をすることによって本当によかったと
言えるのかということです。

 機械的に事務的にこれこれこういうことをしたらいいと
一方的に押し付けて
それに満足しないのはあなたに問題があるというのでは
大変窮屈な生活になってしまいます。
 そこにこそ大きな問題があると思います。

 私たちの日々の生活をちょっと振り返ってみて
いつも当り前にしていることにこそ
本当に有難いことがあるのだなと
気づかせていただいたことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.5.14)


お念仏のご利益

2022-05-13
 『現世利益和讃』15首をいただきます。

 「南無阿弥陀仏をとなふれば」で始まります。
「南無阿弥陀仏を称える身になると」と
現代語訳をいただきます。

 文字通りそのままいえば
「南無阿弥陀仏を称えたら」ということで
お念仏を申す私のところに力が入りますが
南無阿弥陀仏のお心おはたらきに
遇わせていただくことの肝要です。

 阿弥陀さまのご本願のお心
南無阿弥陀仏のおいわれを聞かせていただきます。
 生きとし生けるものすべてを分け隔てなく救うと
阿弥陀さまがご本願を建てられ成就された
南無阿弥陀仏のお心を聞かせて信心いただき
お念仏を申す身にさせていただくのです。

 お念仏のご利益は私が申す念仏の力ではありません。
阿弥陀さまの他力のおはたらき摂取不捨の利益です。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて
往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
(阿弥陀仏の誓願の不思議なはたらきにお救いいただいて
必ず浄土に往生するのであると信じて
念仏を称えようという思いがおこるとき
ただちに阿弥陀仏は
その光明の中に摂め取って決して捨てないという
利益をお与えくださるのです)と
『歎異抄』第一条をいただきます。

 摂取不捨と何度も聞かせていただきますが
阿弥陀さまのこの私をこそ必ず救うというおはたらきです。
 
 摂取不捨のお念仏のご利益に遇うて
この煩悩具足の凡夫の身は変わりませんが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
そのままお念仏申す身にさせていただいて
この人生を生き抜き
命終わって阿弥陀仏のお浄土に往生させていただき
阿弥陀さまと同じおさとりの仏さまにさせていただく
浄土真宗のお救いのご法義です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.13)


円光寺
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大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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