「まかせよ救う」の親心
2022-05-05
今日は子どもの日の祝日です。
コロナ禍ですが各地の行事が段々と再開されています。
玖珠町の童話祭です。
大きなジャンボこいのぼりが有名です。
三年ぶりに登場ということで
先日テレビで大きなこいのぼりの中を
走り回る元気な子どもの映像が流れていました。
こいのぼりは大空に泳ぐものとばかり
思っていましたが
こんな楽しみ方もあるのですね。
五月の空にこいのぼりです。
青空に悠々と泳ぐこいのぼりに
子どもたちの明るい未来を重ねて思います。
こいのぼりが泳ぐのは
そこに風のはたらきがあるということです。
私たちのこの口から出てくださるお念仏です。
そこに阿弥陀さまの南無阿弥陀仏のおはたらきが
届いているとお念仏の先人は喜び味わわれました。
先人は阿弥陀さまを親さまと仰いでゆかれました。
親さまと慕う私は仏の子です。
阿弥陀さまのお慈悲のおはたらきを
親子の関係に喩えてくださっています。
親は子どもの成長を願って一生懸命かかりきりです。
いつも子どものことを気にかけ心配している親です。
ところが子どもはというと
「親の心子知らず」の言葉のように
親に真正面から向き合おうとはせず
背中を向けているのが子どもでしょうね。
「抱かれて ありとも知らず 愚かにも
我反抗す 大いなるみ手に」(九条武子)
の歌を思い起こします。
反抗まで行きませんが
親の言うことを聞かない子どもがここにいます。
では親は親の言うことを聞かない子どもに
愛想をつかしてもう知らないと放り出すのかというと
阿弥陀さまの親さまは
反抗するこの私をこそ救わずにはおかないというのです。
そういう子どもが心配で心配でたまらず
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と何度も何度も
声をかけてくださっているのです。
阿弥陀さまの親心です。
「我にまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
阿弥陀さまのお救いに何も条件はありません。
こうしたら救うてやるとか救わないとかではなく
あなたのいのちそのまま救う親がここにおるぞと
ずっとずっと南無阿弥陀仏のおはたらきです。
南無阿弥陀仏のおはたらきをいただいて
この口から南無阿弥陀仏が出てくださいます。
「まかせよ救う」の親心に
「おまかせします阿弥陀さま」と応えて往ける
お念仏の世界です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.5)
困った時に「助けて!」と言える社会
2022-05-04
生活困窮者を支援するNPO法人の代表で
牧師さんの新聞記事を興味深く読みました。
長年様々な支援活動に携わり
いろんな人に接するなかで
今の社会は困った時に「助けて!」と
声を上げることが難しい社会だというのです。
外から見るとそれなりの生活ぶりをしていて
人それぞれの困難な生活実態がわかりにくいといいます。
自ら声をあげることの難しさは
その牧師さん自身の体験にあるというのです。
子どもが中学生の頃いじめにあって
死を思い詰めるまでの状態になったときに
「助けて!」と周囲に言えなかったといいます。
対人援助をやってきてしかも牧師で
世間的にたすける側の人ということが
あったといわれます。
私のことに引き当てて言うと
「助けて!」と声をあげることは
自分の弱みを周囲にさらけ出すようで
恥ずかしいと躊躇してしまうのかもしれません。
何も問題ないように振る舞っても
何の解決にもならないことで
状況はますます悪くなるばかりです。
何か頑張って自分を飾っている私がいます。
自己中心の思い込みやはからいが
実は自分自身を苦しめているというのが
仏さまの見立てです。
グチコレという活動があります。
京都の町中で道行く人の愚痴を聴く活動です。
最初は全く寄り付かなった人が
一人二人と集まってボチボチ話をされることに
耳を傾けひたすら聴き続けるのです。
いろんな悩みを抱えた人の声心の叫びです。
どうかすると相手の思いを聴くなかに
つい自分の意見を言ってしまう私ですが
否定も肯定もしないでただ聴き続けるといいます。
自分の思いを話して聞いてもらえることで
少し心が楽になることもあるでしょうし
人と人とのつながりができることの
安心もあるでしょう。
全く知らない初対面の人と人との関係ですが
家族や友人という関係のなかでも
お互いに分かっているようで分かっていない
日常的な人と人とのつながりが薄くなっている
今の社会のあり方をみるようです。
そうした私たちの社会ありのままの私を思い取って
そのまま救うと寄り添ってくださる
南無阿弥陀仏のお慈悲のおはたらきです。
お念仏申して私が背負う困難な課題が
一変に解決することではありません。
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくなかに
今私にできることをさせていただくことです。
一人の苦悩する人として牧師さんの活動に考えさせられ
今日一日も生きて往こうと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.4)
仏法と憲法
2022-05-03
今日は憲法記念日の祝日です。
現在の「日本国憲法」が1947年に施行された日で
種々の法律の基になるのが憲法です。
法律は私たちが社会生活を営む決まりルールで
日頃は意識しないものでも大変重要です。
知床の観光船事故はルールがあってないような中で
起こったことが次々明らかになり
重大な問題になっています。
ロシアのウクライナ侵攻はまさに掟破りの凶行です。
他国を武力で侵略する行為は
どんな正義の理屈を重ねても
決して認められるものではなく
多くの人が殺傷され建物が破壊される様は無法地帯です。
仏教は仏さまの教えですが
真実の真理である仏法が説かれてあります。
仏さまとは直接的にはお釈迦さまのことですが
お釈迦さまによって覚られたのが仏法です。
仏法と憲法法律などの世間法との大きな違いは
世間法は人間がつくった法規きまりであり
歴史が移り変わりその国地域も違いますから
その時々その所々で変わるのが世間の法です。
一方仏法は時空を超えた永遠普遍の法です。
十方衆生ありとあらゆる世界の
生きとし生けるものすべてを
分け隔てなく平等に救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏は究極の仏法です。
自分の思いはからいをもって自己中心に生きる私たちに
人間の愚かさありのままの相を知らせそのまま救うと
阿弥陀仏の智慧と慈悲のおはたらきです。
今朝の御和讃に
「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」
(阿弥陀仏が仏になってから
すでに十劫の時を経ていると説かれているが
果てしなく遠い過去よりも
さらに久しい仏でいらっしゃる)とありました。
いつも拝読の御和讃の最初には
「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまへり」
(阿弥陀仏は仏となってから
すでに十劫の時を経ておられる)とあります。
阿弥陀仏の本願名号のお救いを説かれた
『仏説大無量寿経』のお経さまに
阿弥陀仏は十劫の昔に仏となったと明かし
実は十劫以前の遥か久遠の昔から
南無阿弥陀仏と止むことなく
はたらき続いていると示されるのです。
南無阿弥陀仏の仏法のおはたらきは
お釈迦さまがつくられたものではなくて
遥か遠い久遠の昔からのもので
お釈迦さまはその真実の法を覚られたのです。
仏法は誰彼が自分の都合の良いように
作り変えていくものではない
無量無辺のあるがままの真理の法です。
仏法の前には誰しも平等で
仏の大悲の中に共々に生かされて生きているのです。
あなたと私が共に生きる私たちの社会は
あなたと私の思いが交錯するなかで
互いに自分の思い通りに生きることはできません。
自己中心にそれぞれの思い価値観が異なる私たちは
共に向き合うこともあれば
背中合わせになることもあります。
阿弥陀仏の仏法は
生きとし生けるすべてのいのちをそのまま救う
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
私と同じようにあなたにも等しく
南無阿弥陀仏の仏法がおはたらきで
あなたと私は同じ南無阿弥陀仏のいのちに
つながっているのです。
価値観の違う者同士が共に生きる社会は
価値観の違いを排除するのではなく共有することで
自他共により豊かに生きることができるでしょう。
お念仏申して
南無阿弥陀仏の仏法に聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.3)
ゴールデンウィークの過ごし方
2022-05-02
5月に入ってゴールデンウイークの最中です。
長い方で10連休のお休みといいます。
「ゴールデンウィークはお寺さんも忙しくて
大変でしょう」と聞かれます。
法事が多くて大変でしょうと
言われるのです。
確かに以前は法事が多かったのですが
今はかえって法事は殆どありません。
ゴールデンウィ-クの長いお休みに合わせて
遠方の方も法事に帰ってみえるというお話です。
ところが今はゴールデンウィークといっても
家でのんびり過ごしたり家族で旅行に行ったりと
ゴールデンウィークの過ごし方も
個人的に人それぞれ様々です。
先日三佐のお祭りがあり今日明日は海原のお祭りで
お祭りに遠方から家族が帰って来たり
親戚縁者がたくさん集まったものですが
今はお祭りも一つの行事になって
皆で一緒にということではありません。
家族といっても
子どもが小さい頃は親子家族一緒にということですが
世代世代によって時間の過ごし方生活ぶりが
かなり違ってきています。
逆にいうと
今はいろんな過ごし方ができて
受け入れるところがたくさんあるということです。
もうこれしかできないこうするしかない
ということではないのです。
そんな現代社会にあってこのお寺です。
お寺との関係つながりです。
今はお寺は葬式法事の時だけのつながり関係になって
日頃から仏さまのご縁をいただくことが
これからも薄くなってくるのでしょうか。
日々の生活のなかでのお寺のあり方
ゴールデンウィークの過ごし方を提案して
お念仏のご縁つながりが広がる方策を考え
実践していきたいものですね。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.2)
無縁社会と言われるなかにあって(2010年アーカイブ)
2022-05-01
今は無縁社会と言われて
日々の生活のなかで
人と人とのつながりが薄れてきているといわれます。
歳を重ねる中で
子どもは家を出て独立し
夫婦二人の暮らしから一人暮らしの世帯が増えて
寂しい老後を送る人が多いといわれますが
近くに住む者同士の知恵と協力で
お互いに助け合い支え合って日暮らししているという
明るいニュースです。
「遠い親戚より近くの他人」といいます。
何かあった時に遠くにいる親戚に電話しても
すぐかけつけてくれることがなくても
近くに人がいればすぐかけつけてくれて
有効な対応ができるということです。
人と人とのつながり関係が
日頃からできていることの有難さです。
一人暮らしなんだけれども
いつも近くに心配してくれている人がいる安心です。
ある老人ホームのケアハウスでは
歳をとって死後のことを考えると心配なことが多く
中々言えない話せないというなかで
共同墓をつくったという話です。
遠方に家の先祖の墓はあっても
管理が難しく後見人がいないということで
共同墓をつくって希望者を募ったところ
意外と希望者が多かったといいます。
自分の死後のことを気にかけている人が
多いということです。
ケアハウスに同居していた仲間が亡くなると
そのケアハウスの中でお葬式をするといいます。
通夜も葬儀もにぎやかに皆さんがお参りし
共同墓に納骨をして法事を勤めるといいます。
共同墓には先に逝かれた方のお骨が納められますが
自分もまた納められるところです。
亡くなって行く場所があると見えることで
安心するというのです。
一つの家族なんですね。
人と人とのつながりです。
一軒の家に同じ屋根の下に生活する家族といえども
人と人とのつながりが薄れているなかにあって
ちょっと教えられることです。
同じ社会に生きる者同士
お互いに支え合っていこうと言葉では言っても
実際は私が私がと自分一人で頑張って生きているのが
私たちの生活ぶりのようです。
私が私がと頑張れば頑張るほど
プツンプツンと糸が切れるように
人と人とのつながりが
薄くなっているのではないでしょうか。
無縁社会と言われるなかにあって
このお寺のあり方が何か見えてきたような気がします。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.5.1)