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お念仏を申す生活法話

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お孫さんのお導師でお勤めです(2014年アーカイブ)

2022-05-15
 私たちのお念仏のご法義の確かさ
有難さを本当に思います。

 今<百華の集い>という浄土真宗門徒学習講座を
三つのグループで行っていますが
昨日は三佐地区外の明野、明治、鶴﨑のご門徒
8人の夜の会でした。

 半数以上の方が最近大切な方とお別れをして
新しくご門徒になられたご縁で
夫婦が二組、親子が一組の五組の家庭8人の構成です。

 昨日有難かったのは
夜9時過ぎに会は終わりましたが
私と同年輩の女性の方が携帯の写真を見せてくれたのです。

 5歳と3歳のお孫さんが近くに住んでいて
たまたまおばあちゃんのお家に来られて
二人でお仏壇の前に座ってお勤めを始めたというんです。

 お家にあるお経本を持ち出して
私がいつも座るところに子どもさんたちが座り
その後ろに座布団を敷いて
おじいちゃんおばあちゃんを座らせ
チーンチーンとリンを鳴らして
5歳の子が「キミョウムリョウジュニョライ」と
お勤めを始めたということで
その時の写真でした。
 とてもうれしかったといいます。

 曾ばあちゃんがお亡くなりになり
ご法事のご縁がたびたびあって
そのお孫さんたちも一緒にお参りされていたのですね。

 お参りしていたといっても
子ども同士ですから
ご法事中もワーワーワーワー言って
お家の人にとっては
ご院家さんのお勤めの邪魔をするようで
申し訳ないという思いがあったと思いますが
そういうなかでもちゃんと見ていたのですね。

 皆がしていることを見ていて
まねをするんですね。
 子どもって本当にいいなあ有難いなあと思うのは
そのまんまなんですね。
 そのまま見た通りに
お仏壇の前に座って手を合わせ「キミョウムリョウ」と
声に出してナンマンダブとお念仏申すのですね。

 こうしなさいと言われてするのではなくて
そのままできるのですね。
 仏さまのおはたらきです。
その仏さまは大本の阿弥陀さまですが
このたびのご縁でいったら
先に往かれたご先祖有縁の仏さまです。

 その子どもさんにとっては
曾おばあちゃんの仏さまです。
 大切なお方とお別れをする悲しみのご縁ですが
曾おばあちゃんは死んだらおしまいではなくて
今はお浄土の仏さまと成って私たちに
仏さまのみ教えを聞いてくれよお念仏を申してくれよと
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私と共に生きてくださっているという
仏さまのご縁です。

 浄土真宗のご法義の有難さです。
昨日も8人のお方が熱心にお聴聞くださっている思いを
ひしひしと感じます。

 仏法お聴聞のご縁をつくってくださった
仏さまのあたたかいご縁を
ご一緒させていただいたことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2014.5.15)


私のいつもの日常の有難さ(2013年アーカイブ)

2022-05-14
 昨日は大分教区の仏教婦人会総会のご縁で
大阪からご講師をお迎えして
お聴聞させていただきました。

 お寺のご住職で
介護施設を経営されている方です。

 施設には色んな人が入所していて
中には職員の言うことを聞かずに
職員を煩わす問題老人がいるというお話です。

 朝の食事の時にご飯を口に運ぶと
「違う」と言って食事を受付けない人がいるそうです。
 職員が「どうして?」と話を聞いていくなかで
あっと気づいたということです。

 その方はずっとお仏壇のあるお家で生活をしていて
毎朝ご飯を炊いて一番にお仏壇にお仏飯をお供えしてから
朝ご飯をいただくのがいつもの日課だったというんです。
 それで仏さまにお仏飯をあげる前に
ご飯をいただくことが「違う」ということだったのです。

 また毎月ある一日にそしてお盆やお彼岸に
決まって暴れる老人がいたといいます。
 これも問題ですが話を聞くと
そのある日とは連れ合いの方のお命日で
そしてお盆お彼岸ということです。

 このおばあちゃんは大切な人のお命日や
お盆お彼岸には決まってお墓参りをしていたそうです。
 ところが施設に入ると団体生活ということで
自分勝手なことができないんですね。
 そのことを表現できないもどかしさがあって
暴れるということになったのです。

 何かちょっとでもみんなと違う行動をすると
問題行動だとみられますが
その人その人それぞれの日常生活を思います。

 私たちのいつもの日常でいうと
このお朝事のご縁もそうですね。
 朝起きて朝の支度準備をして
お寺にお参りし皆さんとご一緒にお勤めをして
今日の一日を始めるということです。

 先のお二方にとって日々の生活で
お仏壇がないとか自由に行動できないとかでは
いつもの日常とはいえないんですよね。

 確かに福祉サービスは充実して
お年寄りにとって生きやすい環境になったと思います。
 でもその人人が今までずっと暮らしてきた
日々の営みということからすると
日常ではない生活に押し込められているような
感じさえあるのではないでしょうか。

 人それぞれその日常は違います。
全ての人がお仏壇にお仏飯をあげてから
食事をするといった生活ではないと思います。
 お仏壇の無いお家もたくさんあるでしょうし
仏教ではない神道やキリスト教など
色んな宗教のお家もあると思います。

 その人人の日常の生活なんですね。
その人としっかり向き合うなかに
その人が今何をしたいのか
何をすることによって本当によかったと
言えるのかということです。

 機械的に事務的にこれこれこういうことをしたらいいと
一方的に押し付けて
それに満足しないのはあなたに問題があるというのでは
大変窮屈な生活になってしまいます。
 そこにこそ大きな問題があると思います。

 私たちの日々の生活をちょっと振り返ってみて
いつも当り前にしていることにこそ
本当に有難いことがあるのだなと
気づかせていただいたことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.5.14)


お念仏のご利益

2022-05-13
 『現世利益和讃』15首をいただきます。

 「南無阿弥陀仏をとなふれば」で始まります。
「南無阿弥陀仏を称える身になると」と
現代語訳をいただきます。

 文字通りそのままいえば
「南無阿弥陀仏を称えたら」ということで
お念仏を申す私のところに力が入りますが
南無阿弥陀仏のお心おはたらきに
遇わせていただくことの肝要です。

 阿弥陀さまのご本願のお心
南無阿弥陀仏のおいわれを聞かせていただきます。
 生きとし生けるものすべてを分け隔てなく救うと
阿弥陀さまがご本願を建てられ成就された
南無阿弥陀仏のお心を聞かせて信心いただき
お念仏を申す身にさせていただくのです。

 お念仏のご利益は私が申す念仏の力ではありません。
阿弥陀さまの他力のおはたらき摂取不捨の利益です。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて
往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」
(阿弥陀仏の誓願の不思議なはたらきにお救いいただいて
必ず浄土に往生するのであると信じて
念仏を称えようという思いがおこるとき
ただちに阿弥陀仏は
その光明の中に摂め取って決して捨てないという
利益をお与えくださるのです)と
『歎異抄』第一条をいただきます。

 摂取不捨と何度も聞かせていただきますが
阿弥陀さまのこの私をこそ必ず救うというおはたらきです。
 
 摂取不捨のお念仏のご利益に遇うて
この煩悩具足の凡夫の身は変わりませんが
南無阿弥陀仏のおはたらきで
そのままお念仏申す身にさせていただいて
この人生を生き抜き
命終わって阿弥陀仏のお浄土に往生させていただき
阿弥陀さまと同じおさとりの仏さまにさせていただく
浄土真宗のお救いのご法義です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.13)


沖縄復帰50年

2022-05-12
 朝のNHK連続テレビ小説は
今は「ちむどんどん」という
沖縄を舞台にしたドラマです。

 ここ数日ずっと沖縄に関する話題が
テレビで放送されています。
 沖縄が日本復帰して5月15日で
50年の節目ということです。

 50年前私は大学2年生で
大学内では終日ヘルメット姿の学生が
「沖縄返還阻止」とマイクで叫んでいました。

 沖縄の4人に1人が犠牲になった激しい沖縄戦から
アメリカ統治下が続き
戦後27年でやっと日本復帰ということですが
それは戦後現在もずっと続く米軍基地を取り巻く
沖縄差別ともいわれる長くて重い苦難の歴史です。

 今ロシアが侵攻しているウクライナのことと
重ねて思います。
 戦争状態ではありませんが
米軍基地が沖縄の多くの土地を占領し
米軍機が爆音を鳴り響かせながら低空飛行を繰り返す中に
日常生活を強いられている沖縄の現実です。

 ちむどんどんはワクワクするという意味だそうです。
希望をもって生きるということでしょう。
 昔からの沖縄料理を紹介しながらドラマは展開します。
テーマは「食」食べるということです。

 昨日のテレビ放送では10代20代の若者が
50年前の沖縄を訪ねて当時の人にインタビューしますが
今の日本に生きている人には信じ難いような話もあり
涙する人もいました。

 ドラマでは家族が一緒に食事をする場面が
よく登場します。
映像は50年前とはとても思えないきれいなものですが
大変苦難の多い生活のなかに
悲しいことも辛いこともあったと思いますが
みんな食べて生きてきたということです。

 テレビの最後に50年前の若者今80代の方が
沖縄の歴史を学んでほしいと切実に訴えていました。
 沖縄の人人が生きてきた歴史です。

 私たちの先人が生きてきた歴史があって
今ここに私たちが生きているということです。
 50年前から100年200年前から
もっともっとずっとずっと前から
私たちの先人は食べて生きてきたのです。

 そして今ここにこの私が生きています。
当たり前のようですが実は本当に有難いことなのです。

 昨日お話しました。
仏さまの教えは何か自分にとって都合の良い
奇跡を起こしてくれるような教えではありません。

 自己中心の思いはからいに生きて
当たり前のことを当たり前と素直に受け入れられず
苦しみ悩み迷う私を教え知らせて
そのまま救い導いてくださるのです。

 阿弥陀さまが「われにまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでもご一緒です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.12)


当たり前のことを素直に受け入れ感謝する

2022-05-11
 朝から雨になりました。
雨の中をようこそお参りです。

 雨のことで妙好人源左同行のお話です。
急に大きな雨にあってびしょ濡れになって
田圃から帰ってくる源左さんを見たお寺の住職が
「じいさん、ようぬれたのう」と声をかけると
源左さんはずぶぬれの顔をにこにこして
「ありがとござんす、御院家さん
鼻が下に向いとるでありがたいぞな」と言ったそうです。

 鼻が上向きについていたら
雨がみな鼻の穴に入ってしまって難儀なことだが
何とした有難いお手回しか、鼻は下向きについている。
 おかげでどんな大雨にあっても苦にならないと
「ようこそようこそ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と
喜ばれたのです。

 鼻が下向きについているという当たり前のことに
無限の不思議を感じ深いいのちの感動を味わう心こそ
仏法にお育ていただいたことなのでしょう。

 臨済宗を開かれた道元禅師が中国に渡り修行を積まれて
日本に帰り周囲の人に仏道修行の成果を
「眼は横に並び鼻は縦にまっすぐついている
ことがわかった」と語ったというお話です。

 そう聞いて皆さんはどう思いますか。
こんなこと誰でも知ってる当たり前のことだと
思うのではありませんか。

 仏教の真意はといって
何か不思議な奇跡を起こす宗教ではありません。

 当たり前のことを当たり前に素直に受け入れ
感謝しているのかと
私が問われているのです。
 自己中心の思いはからいに生きて
苦しみ悩み迷う私を教え知らせて
そのまま救い導いてくださるのです。

 今日も朝目が覚めましたね。
目が覚めたら生きていたのです。
 私が生きよう生きようと思って
目を覚ましたのではなくて
目が覚めたら生きていた生かされていたのです。

 ゆるされて今日のいのちをいただいたのです。
オギャあとこの世に生まれて
人の命恵まれたということですが
一日一日がまさに目が覚めて命を恵まれ
ゆるされて生きていけるということです。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申して
今日の一日を始めさせていただきます。
 お念仏を申したらどうなるのかと
自分の思い通りになるのかといって
良いことも悪いこともどんなことがあっても
「われにまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまがご一緒です。

 今日も一日雨模様ですが
「雨の日には雨の日の生き方がある」と
私にできる精いっぱいのことをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.11)


円光寺
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