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お念仏を申す生活法話

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これからのお寺お仏壇お墓はどうなる?(2012年アーカイブ)

2022-04-03
 町の中でも過疎化現象が起きているといいます。
この大分市のなかのことです。

 昔は数十戸の集落だったところが
今は6軒になり住んでいる人が9人という話です。
 全ておじいちゃんおばあちゃんの世帯だといいます。
どちらか一人亡くなると独り暮らしになるということで
6軒で9人の集落です。

 ではその子どもさんお孫さんはどこにいるのかというと
すぐ近くの同じ地域の中心部に
家を建てて暮らしているといいます。
 そんなに離れていませんから
日頃の行き来はあるということでしょうが
世代世代で持ち家が違うという話です。

 ちょっと昔でしたら
同じ家に二世代三世代の家族が一緒に同居して
おじいちゃんおばあちゃんが亡くなると
お父さんお母さんの世帯になり
お父さんお母さんが亡くなると
子どもの世代が家を継いでいくことが当り前でした。

 ところが今は家を継ぐということが
珍しくなったのです。
 そして問題がでてきました。
家を継ぐ人がなくなって
後に残るのがお仏壇でありお墓なのです。

 先祖代々のお仏壇やお墓を誰がみるのか
守っていくのか継いでいくのかが
大きな深刻な問題になってきています。

 今までお仏壇やお墓を守ってきた
おじいちゃんおばあちゃん世代のなかで
自分たちが亡くなった後は
お仏壇やお墓をお寺に返すなり処分して
子どもたちには迷惑をかけたくないと
考えている人が増えているというのです。

 東京大阪の都会では
一人二人だけの納骨所が増えてきたといいます。
 子どもや孫に迷惑をかけたくないという
親心なんでしょうが
迷惑なもののなかに
お仏壇やお墓が入っているとしたら
お寺にとっても深刻な問題です。

 お念仏の声です。
お念仏を伝えてきてくださったご縁の中心は
お寺であり皆さんのお家のお仏壇であり
お墓ということだったと思います。

 お寺にお仏壇にお墓にお参りして
見よう見まねで手を合わせ
南無阿弥陀仏とお念仏を申したのではありませんか。
 お念仏を申すご縁が日々の生活のなかから
なくなってしまうのではないかと心配です。

 ムラから町への人口移動といった
現代の社会情勢そのものを変えることはできません。
 大家族から核家族へ家族の形態が大きく変化した現代
日常の社会生活のあり方が変わっていくなかで
私たちのお寺はお仏壇はお墓は
これからどうあるべきか
私たちの先人が命がけで伝えてくださった
尊いお念仏のみ教えを聞かせていただくなかに
子や孫の世代にいかに伝えていくのか
問われるところです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.4.3)

桜の花に人生を重ねて(2010年アーカイブ)

2022-04-02
 昨日は<お花見ウォーク>を計画しましたが
天気が悪くなるという予報で早めに中止にしました。
 ところが結局一日雨が降らず
昼から一人で予定のコースを歩きました。

 桜が今満開です。
乙津川から大野川の土手を大在方面に
途中桜並木を何度も通り抜けました。

 贅沢やなあと思いました。
本当にこれほどの贅沢はありません。
 大自然の営みの中に
本当に私たちは生かされてあるんだなと思います。

 これは私たち人間がつくったものではなく
自然からのまさに贈りものです。
 大自然の恵みはたらきのなかに
私たちは生きているんですね。

 この桜も10日後20日後には
散ってしまいます。
 花びらは散って行きますが
後に青い葉がつき成長して
秋にはこの葉も散って行きます。

 桜のいのちの営みです。
何か繰り返しのようですが
去年今年来年の桜の花や葉はそれぞれ違います。

 私たちの阿弥陀さまのおはたらきです。
南無阿弥陀仏となってこの私に至り届いてくださり
お念仏の人にしてくださいます。
 人の命は終わりますが
お念仏のおはたらきで仏にしていただいて
南無阿弥陀仏のはたらきを始めるのです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちの営みつながりのなかに
私たちはこれからもずっと生かされて
共々に生きて往けるのです。

 阿弥陀さまのお喚び声南無阿弥陀仏のおはたらきは
繰り返し繰り返し私のところに届けられています。
 わが名を称えてくれよ
わが名を聞いてくれよ
わが願い南無阿弥陀仏の心に気づいてくれよと
喚び通しに喚んでくださっているのです。

 中学生の頃通学路に大きな桜の木があって
春に満開の花を咲かせていたことを
ぼんやり思い出します。

 今年もまたきれいな花を咲かせています。
その当時は桜の木を
まじまじと見ることはありませんでしたが
この歳になって
ああ桜が咲いた本当にきれいだな
散って行くんだなと
この人生いのちのありように重ねながら
じっと目にとめるようになりました。

 歳をとることも悪いことではありません。
年をとればとったで
有難いことに気づかせていただけます。

 仏法聴聞もそうです。
ご縁ご縁にお念仏のみ教えを聞いておきましょう。
 きっと阿弥陀さまのご本願に遇えて
本当によかったと有難く受け止めさせていただけます。

 人間に生まれてお念仏の人生を生き抜くことほど
大きな喜び贅沢はないと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.4.2)


無明煩悩の身をお念仏申して生きる

2022-04-01
 4月になりました。
昨日の雨で境内の桜も大分散って
残る桜が少なくなりました。

 今朝桜の名所東京千鳥ヶ淵からのテレビ中継で
降る雨に傘をさしたレポーターが
散った桜を桜のじゅうたんと伝えていました。

 満開の桜も散って行きます。
この世の中のあらゆる事象が日々刻々と
移り変わって行くという諸行無常の真理です。

 私たちの社会制度にも変化があります。
新年度に入り今日から成人年齢が
20歳が18歳になるといいます。
 法律で成人といわれても
当の本人は変わらない分からない
実感がないということでしょうが
社会的な責任を担う人に成るということです。

 毎朝洗面をするのに鏡を見ます。
鏡を見るといって私の顔を見るのですが
今日まじまじと見て歳をとったなと思いました。

 日々の移ろい社会も周りの状況も変わりますが
わが身の変わり様には中々気づかない
見ようとしない私がいます。

 今日のご和讃です。
『正像末和讃』の第二日目の第一首
「無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
 愛憎違順することは 高峰岳山にことならず」
(無明煩悩が激しくおこり
 数限りない塵のように満ちわたっている
 ほしいままに愛着や憎悪をいだくありさまは
 まるでそびえ立つ高い峰や岳のようである)

 煩悩の心が盛んで止むことがなく
次から次に湧き起こってくるこの身を
私たちは生きていると仏さまは教えます。

 無明とは最も根本的な煩悩で
真理に暗くもののあるがままのありようを
明らかに理解できない迷いの根源です。

 自己中心にものごとを見ては
愛する者同士もある時は憎しみ合う
「愛憎違順」の私たちお互いのすがたです。

 自己中心の思いで表裏一体の愛憎が
くるっくるっと変わるというのです。
私の心の動き私の思いです。

 経教の鏡にそのまま映し出された
わが心の偽らざるすがたです。
 仏さまのご縁に遇うて
煩悩具足の凡夫の身を知らせていただきます。

 今日1日の御文章さまは「聖人一流章」です。
阿弥陀さまの他力の信心をいただいて
お念仏を申す身になってくれよと
親鸞聖人蓮如上人の仰せお勧めを
そのまま聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.1)


値上げの春です

2022-03-31
 今朝の朝刊の一面の見出しに
「値上げの春」とありました。

 ガソリン価格が高止まりで推移し
チーズや食料油、ケチャップなどの食品
ティッシュトイレットペーパーの日用品など
次々と値上がりして物価上昇が続くといいます。

 ロシアとウクライナの戦争の影響で
小麦粉の輸入がままならず
パンやケーキ、うどんも
値上げせざるをえないということです。

 といってスーパーに行きますと
物が溢れるほどいっぱいあります。
 今の日本です。

 欧米からの厳しい経済制裁でロシアの市民生活は
どのような状況なのでしょうか。
 詳しい情報が入らず分からないことばかりですが
これから大変なことになってくると識者の声です。

 値上げどころの話ではなく
物が無くなるという深刻な事態です。

 日本も戦時中戦後とそうした生活を強いられ
物価が超インフレで
お金が紙切れ同然になったという話です。
 そうした困難な中を私たちの先人は生き抜いてきて
今私たちが生きているということです。

 値上げの春といっても物があるなかで
何とか工夫して生活していくことができると思います。

 先日日本の生活困窮者の現実について
テレビで放送していました。
 東京の公園で毎月数回行われている「炊き出し」に
一つの弁当を求めて並ぶ人が後を絶たないということです。
 コロナ禍が長引くなかで
失業した若者や最近目立ってきたのが女性といいます。

 随分前からも帰る家がなくて路上や公園で
生活する方はいらっしゃいました。
 それぞれに様々な人生の事情があって
その日暮らしの結構年輩の方が多かったように思います。

 今の生活困窮者の問題は
一見生活に困窮しているように見えない
若者や女性の生活だといいます。

 表面的には見えない分からない中に
人と人とのつながりを失い
個々に孤立した実態があるというのです。

 以前の地域社会では
隣近所の家々でお互いに支え合って生活していました。
 隣の家隣の人のことがよく見えて分かるなかに
困った時には味噌醤油やお米などの
生活必需品を貸し借りするなど
助け合って生きてきたものです。

 生きるということです。
食べるために生きるのではありませんが
生きるためには食べなければいけません。
 食べることは生きることで
私たちの日々の生活人生があります。

 この人生です。
「何のために人間に生まれてきたのか」と問われて
「食べるために生まれてきた」と答えますか。

 食べなかったら生きられない
死んでしまうといいますが
食べても私たちはいつか必ず死ぬのです。

 そこに「何のために生きるのか」という
生死の問題があるのです。
 生老病死の身を生きる
この私の問題です。

 仏法は生死の問題を解決する道
仏道を明らかに教え示してくださるのです。

 仏道は私一人だけに開かれた道ではありません。
南無阿弥陀仏のお念仏の仏道は
ありとあらゆる世界の生きとし生ける十方衆生に
どんな人にも等しく開かれた
生死の迷いを超えてさとりの仏に成る道です。

 阿弥陀さまが願われるお念仏の社会は
この私一人だけでなく
私が見える隣の人もそうですが
まだ会ったこともない知らない人たちも
共に生かされて生きていける社会です。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申して
食べることに事欠かない
生活ができるということではありません。
 食べるためには働かなければならないし
お金も必要です。

 ただ私たちが生きている根っこに
私たちはお念仏の救いの法をいただいて
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きていることを
聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.31)


年度末の思い

2022-03-30
 今日もというか
朝起きて「ああもう3月30日か」と声に出ました。

 今日が3月30日で明日が31日
明後日は4月1日です。
 何もしなくてもではありませんが
時は移ろい過ぎ行きます。

 年度末といって何かと事務的な締めをしますが
新たな年度に向けて私たちの生活も一つ見直そうと
殊勝に思うのもこの時期です。

 昨日は円光寺墓地と納骨堂で
二件の墓じまいをしました。
 一件は前々から言われていた方ですが
一件は急に思い立たれて相談にみえたご門徒の方です。

 この数日初めての方から
二件電話があって坊守が対応しましたが
お寺に納骨堂がありますか
もしもの時は葬儀をしてくれますか
という問い合わせだったそうです。

 今すぐということではありませんが
高齢になっていよいよこれからの身のふり方を考え
準備をしておこうということでしょうか。
 人生の始末をつける
終活です。

 病気になって延命治療をするかどうか
財産分与はお葬儀のあり方お墓の問題等々です。

 年度末だなと思ったことです。
一つ今までのことを整理して
新しい年度に入ろうという気持ちで
よく分かります。

 私も今年10月で70歳になります。
いい歳になりました。
 人生の大きな節目です。
何か一つということを
殊更例年以上に思う今年の年度末です。

 かといって今何ができるかといって
今までの私のことでいったら先送りです。
 今日の夕方は「もう一日過ぎたか」と思い
「また明日」と思う私です。

 今日一日が過ぎた過ぎたで
いつの間にかこの歳になって新年度を迎えます。

 南無阿弥陀仏のお救いの法を聞かせていただきます。
「いつも私が一緒だよ。大丈夫だよ」と
阿弥陀さまがこの私を喚んでくださっています。

 今日一日を生きることの大事です。
私が一人頑張って生きるのではなく
何もしないようだけれども生きていること
生かされていることの有難さです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
阿弥陀仏のお慈悲の中を生かされて生きて往けると
聞かせていただきます。

 皆さんもそれぞれ年度末のこの時期に
心がけることがあると思いますが
今日も一日お念仏を申して
共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.3.30)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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