自己中心のものの見方思いはからい
2022-05-20
昨日ラジオから聞こえてきたお話です。
私たちはこの世に生まれてこの方ずっと
いろんなことを学習しながら社会生活を営んでいます。
小さい頃は親や学校の先生に学ぶことばかりですが
歳を重ねて人生の様々な経験を積む中で
自分が習得してきた知識が幅を利かせてくるという話です。
何でも「はい」と受け入れてきたことが
自分の知識を理屈にして自己主張するようになります。
これは人間としての成長であり
社会に生きる者として大切なことですが
個々それぞれものの見方が違うことで
お互いに相入れないことが多くなり
苦悩の原因にもなります。
私たちの行動を裏付ける知識てものをいうのが
自分の経験知だという指摘です。
私の知識の全体を10とすればその7割が経験知で
3割は人の話を聞いたり本を読んだりして学ぶことですが
殆ど身に入ってこないといいます。
新たな知識を身につけようと
人の話を聞いたり本を読んだりしても
身に入るのはよくて1割で
私たちは経験値を土台にした自己中心のものの見方で
物事を考え行動しているということで
どこまでも自分勝手なのです。
それでうまくやって行くんですが
歳をとってくるとこの考え方がすごく硬くなるといいます。
硬直して柔軟な思考ができなくなるのです。
仏教でいういよいよ自分の思いはからいに
とらわれてくるということです。
円滑な人間関係の邪魔をするのです。
自分の成功体験を持ち出しては
ああでもないこうでもないと
言わなくてもいいことまで言ってしまう始末です。
嫌われます。
世代間のギャップが生じ特に若い世代からは
煙たがられます。
本来は年寄の知恵は先人から伝えられた宝もので
重宝がられるものですが
若い人から言わせると時代遅れということです。
まさに諸行無常の道理で
時が移り変わっていくなかに
過去のことに執着して結局は時代に取り残されるのです。
だからこそ学ぶ姿勢が大事になって
くるのではないでしょうか。
積極的に社会に関わりいろんな人に出会う中で
謙虚に素直に聞かせていただく柔軟さです。
仏法聴聞させていただく有難さです。
御仏前に座り首を垂れて素直に
阿弥陀さまの言うことを聞かせていただきましょう。
南無阿弥陀仏のお心一つです。
「我にまかせよ必ず救う」といつでもどこでも
この私に寄り添っておはたらきです。
私の生きる依りどころ死して帰るところ
生死の帰依処がある安心有難さです。
南無阿弥陀仏のおはたらき
大きないのちのつながりのなかに
私たちは共々に生かされているのです。
今日一日もお念仏申して
生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.20)
4630万円の話題
2022-05-19
4630万円の話題で
今テレビ新聞がにぎやかです。
今日の朝刊で当事者の青年が逮捕されて
〇○容疑者と実名で報道されていました。
これって事件かなと思ったりします。
元はというと山口県の阿武町で
役場が個人名義の通帳に4630万円を誤って
振り込んだことに端を発します。
当事者が何も要求していないのに
気がづいたら自分の通帳に4630万円もの大金が
振り込まれていたのです。
世間の常識という言い方で
税金から支出された公金でもあり
分かった時点で即刻返金するのが
当たり前だといわれます。
皆さん大方が納得するところですが
一旦自分の通帳に入ったお金ですから
お金の出し入れは当事者の判断です。
ある意味迷惑な話が降ってきたわけで
いろんな経過があって結局は犯罪事件になり
逮捕されてこれから裁判ということです。
いろんな縁が重なり合ってあれよあれよの展開になり
どこでどう結末をつけるのかわからない事態に
なってしまったということではないでしょうか。
今分かっていることは4630万円が振り込まれた通帳に
現在は6万円ほどしか残っていないという事実です。
当事者は全額返済の意思表示をしているそうですが
今回のことで職場を辞めて今は無職ということもあり
所有財産もないことで
全額返済は現実的には難しいといわれます。
報道だけで言うのも不確かでよくないのですが
普通に働いて暮らしていた青年を
犯罪者にしてしまったようなことで
役場をはじめ社会の対応が気になります。
人と人とが織りなす社会にあって
本当に真摯な対応ができていたのでしょうか。
24歳の青年にお金の返済を迫るのに
お母さんを同行したといいます。
立てこもりなどの凶悪事件で犯人を説得するのに
お母さんや家族がということは
実際の事件やテレビのドラマでもありますが
お母さんに説得してもらったら
うまく行けるとでも思ったのでしょうね。
真摯で誠実な対応とはとても思われません。
町長は「町民の税金であり全額取り戻す」と
語気を強めて発言していますが
事の重大さを思ったら町長自らの対応もあったはずです。
テレビの情報番組が一斉に取り上げることで
全国的な大きな事件になり
当事者の個人情報も面白おかしく扱われる始末です。
大勢の世論の力を借りて当事者を責め立てているようで
誰が被害者かなと思ったりします。
親鸞さまの『歎異抄』のお言葉
「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいもすべし」
を聞かせていただきます。
縁が整えば
どんなことでもしかねない私だということです。
今回のことは4630万円が自分の手元に
届いたことから始まります。
思っても見ないことが
現実にこの私の身の上に起こったのです。
我が身に引き当てて
私だったらしっかり対応をしたいと思いたいですが
その時どきの縁次第で
どういうことになるかわかりません。
私たちの社会生活のなかでも
こんなこともあるかなと思います。
みんな真面目に頑張って生きているなかに
ポクッと4630万円が手元に入ってきて
常識があればということですが
その常識ということが問題だと
仏さまの教えに聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.19)
金仏壇のいわれ
2022-05-18
昨日入仏法要のご縁をいただきました。
大切なご家族が亡くなられて
初めて円光寺の門徒として
お葬式をさせていただいたことです。
まだお家にお仏壇がないということで
七日七日のお勤めのなかでお仏壇を申され
入仏法要をお勤めさせていただいたことです。
昨日お仏壇に初めてお参りさせていただきました。
浄土真宗のお仏壇の特徴である金仏壇です。
今は紫檀黒檀や家具調のものが多くなりました。
入仏法要というように
肝心要はご本尊の阿弥陀仏さまをお迎えすることですから
紫檀黒檀のお仏壇でもいいわけです。
金仏壇はキラキラしていて
現代的な家に合わない落ち着かないという声も聞きますが
浄土真宗のお仏壇は金仏壇ということの意味です。
浄土真宗のお仏壇は阿弥陀仏さまのお浄土
おさとりの世界を表すものです。
光明無量の阿弥陀仏さまのお浄土を
無量光明土といいます。
無量という量ることができない
私たち人間の思いはからいを超えてはたらく
光明の世界というのです。
阿弥陀さまはお浄土から無量の光明を放って
私たちを摂め取って捨てないおはたらきを
してくださってあるのです。
私たちは太陽の光電器の光の中にあって
物事を見て日暮らししています。
どんなに視力の良い人でも
暗闇の中では物事を見ることができず
闇の中で迷い不安になります。
仏さまの光明というお徳智慧のはたらきです。
光に遇うことで知らされる世界です。
仏さまの智慧の光でこの私のすべてありのままを
そのまま見せてくださいます。
私たちの目は外を向いていますから
外のものは見えますが
自分自身の顔を見ることはできません。
ましてやこの心の中を見ることはできませんが
その心の中までもありのままに見せてくださるのが
仏さまの智慧の光明のお徳おはたらきです。
見せてくださるということは
そこに光が届いているということで
もうすでに私たちは光の中に
摂め取られているということなのです。
阿弥陀仏さまの大きなお慈悲の中に救われてあると
お浄土の光明のおはたらきを
金仏壇ということで教えてくださってあるのです。
お家の中心に阿弥陀さまのお仏壇をご安置し
御仏前にお参りする日暮らしをさせていただきましょうと
ご法話お取り次ぎをさせていただきました。
お浄土は俱会一処(くえいっしょ)の世界と
お経さまにいただきます。
お仏壇の御仏前にご家族有縁の皆さんがご一緒です。
この目には見えませんが
お念仏申すなかに
先に往かれたご先祖有縁の仏さまもご一緒です。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされてあることを有難く思います。
まさに俱会一処のご縁に遇わせていただいて
安心してお念仏申す生活をさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.18)
南無阿弥陀仏のいのちの宝もの
2022-05-17
ある歴史学者の先生が
「歴史は私たちに多くのことを教えてくれるが
学ばなければ教えてくれない」と言っています。
私たちの仏法仏さまのみ教えに重ねていうと
「仏法は私たちに大事なことを教えてくれてるが
仏法に学ぶ聞くことがなければ教えてくれない」です。
南無阿弥陀仏の仏法に遇って
お念仏申す身になってくれよと
阿弥陀さまの願いです。
お釈迦さまは仏法に遇わせていただくために
この人間界に生まれて来たんだよと
私たちに仏法聴聞を勧められます。
仏法に遇ったらどんな良いことがあるのかといって
私たちの世間でいう良いこと
私の思い通りになるということではありません。
もっとすごいこの上ない
いのちの宝ものをいただけるというのです。
仏さまのみ教えを聞かせていただくと
私たちは迷いの境涯にあって
愛憎の中に苦悩しているといいます。
そう言われて私のことと聞く人はいないでしょうが
聞いておいてくれよというのです。
迷いの境涯を生まれては死に生まれては死にと
生死流転を繰り返し
このたびはこの人間界に生まれたといいます。
人間に生まれたからこそ
仏法に遇うことができるんだよと
お釈迦さまが説かれたお経さまに学ばせていただきます。
お経さまに
阿弥陀さまが南無阿弥陀仏となって
迷う私をそのまま救うとおはたらきだと
聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
どんな人も等しく迷いの境涯から救われると
仏法を聞いてくれよというのです。
聞かずじまいに終わる人生は
また迷いの世界を繰り返すことになって
空しいよというのです。
このお話も聞くご縁がなかったら
まさに聞かずじまいに終わるお話です。
ご縁をいただきました。
仏法聴聞のご縁です。
よかったですね。
じっとしていてご縁をいただく
ということではありません。
今日のご縁も皆さんが心がけて
この円光寺にこの時間にお参りをされたということです。
でもこうしてこの御仏前に座ってみると
私がではなかった
仏さまのお手回しがあったと
その仏さまは阿弥陀さまでありお釈迦さまでありますが
皆さん有縁の仏さまが「ここに座れ」と言ってくれて
どうか仏法聴聞してお念仏申す身になって
この世を生き抜き命終えてお浄土に生まれて来いよと
南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。
南無阿弥陀仏のいのちの宝ものをいただいて
お念仏を申して今日の一日を始めさせていただける
有難さをまた思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.17)
「いざ鎌倉!」
2022-05-16
昨日は仏教壮年会の皆さんにお手伝いいただいて
伝道掲示板の撤去そして境内をきれいにお掃除いただき
有難うございました。
今大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を楽しみに観ています。
昨日は源頼朝と義経兄弟の確執と葛藤を描く場面ですが
平家討伐の最大の功労者の義経が
権力闘争の渦中で兄頼朝に討たれるという歴史の結末です。
鎌倉殿は頼朝が初めて開いた武家政権の鎌倉幕府で
キーワードは「いざ鎌倉!」です。
源氏と平家の大きな武士勢力の争いですが
源氏を支えたのが坂東武者でした。
坂東とは関八州、現在の一都六県の地域を指し
東国の武士のことです。
有力者がそれぞれに所領をもって民衆と共に生き
その生活ぶりもものの見方考え方も違います。
ただ鎌倉幕府に一大事が起こったときは
「いざ鎌倉!」と皆が鎌倉に駆け付け
結束するというのです。
坂東武者の心意気は同じだということです。
ただ思うだけではなく一大事に行動に出るということで
権力者からいったら都合の良い言葉です。
ただその人人の思い心意気を大事に
尊んできたということです。
昨日の仏教壮年会の皆さんの姿に
重ねて思います。
円光寺というお寺
お念仏のご縁につながった私たちのお寺です。
その私たちのお寺の一大事です。
皆さんの思い心意気を寄せるということです。
昨日の作業も到底一人二人ではできないことで
皆さんのご加勢があったればこそです。
「いざ円光寺!」です。
いつもではありませんが年間何回かあります。
その「いざ円光寺!」の心意気を育ててくれたのは
平生の今なのです。
平生の今今今が大事ということです。
この私の人生一生です。
この命恵まれお念仏のご縁をいただいて
お念仏申す身を生かされて生き抜き
命終わって阿弥陀さまのお浄土に生まれ仏と成って
南無阿弥陀仏のおはたらきをさせていただきます。
時空を超えて南無阿弥陀仏の大きないのちの
つながりのなかに共々に生かされて生きている私たちです。
南無阿弥陀仏とお念仏申して生きる
私たちの心意気です。
皆さんそれぞれに生活ぶりは違いますが
平生今お念仏申すなかに
いざいざいざと今日一日も
お浄土への人生を歩ませていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.13)