お念仏のご縁にみんなつながっている
2022-06-20
昨日お寺のご院家さんのお通夜のご縁に
お参りしました。
遠縁にあたるお寺です。
車で二時間近くかかって10分ほど前に着いた時には
本堂に皆さんすでに座ってらっしゃいました。
後ろの席に新院と二人で座って見ると
お衣をつけたお坊さんの姿が目立ちました。
あの人もこの人もと
知り合いのお坊さんをたくさん見ました。
近くのお寺のお坊さんと
親族のお寺のお坊さんです。
昔ほどではありませんが
お寺は親族のお寺さんが多いのです。
あの人もこの人もつながっているんだなと
思いました。
お寺さんを次から次にたどれば
みんな親族といっていいほどの
あの人もこの人もということです。
歎異抄に親鸞さまは
「一切の有情はみなもって世々生々の父母兄弟なり」
(すべての生きとし生けるものは
生まれかわり死にかわりするうちに
いつかは父母となり兄弟となったものです)
と言われています。
私が今生きているこのいのちです。
過去からつながって今ここにとどいたいのちですが
何代前からつながっているかといって
遥か遠い昔からということで
ご先祖の数も数えることができないほどの
いのちのつながりのなかで父母兄弟になったこともあると
言われるのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
今こここの私を生きているというこの身の事実を
そのまま聞かせていただきます。
そうしたあなたと私が共に生きる
私たちの社会にあって
あなたと私が仲良くなることもあれば
あいつがこいつがと背中合わせになって
傷つけ合うことにもなるのが
私たちのようです。
親鸞さまはどこまでも自己中心に生きる私を
煩悩具足の凡夫とお念仏のみ教えに聞かせていただき
罪悪深重の凡夫だからこその阿弥陀さまのお救いと
いただかれたのです。
大切な方とお別れする悲しみのご縁ですが
そのままお念仏のご縁といただける有難さです。
昨日のお通夜で初めて会った人もまた
お念仏の尊いご縁につながっていたと聞かせていただき
お念仏のお救いの頼もしさを有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.20)
すてきなお寺のお葬式のご縁に遇わせていただきました(2012年アーカイブ)
2022-06-19
昨日は福岡の繁華街天神の町中にあるお寺の
前住さんのお葬式にお参りさせていただきました。
雨降りでした。
そのお寺は前住さんが住職の時に建て替えられたもので
皆さんが想像するお寺の造りではなく
現代風の独特な雰囲気のお寺さんです。
僧侶門徒有縁の方がたくさんお参りでした。
三階建てで二階に本堂があり
私は一階でお参りさせていただきました。
お寺のお葬式でこれまで経験したことがない
すてきなお葬式でした。
お葬式につきものの涙も
湿っぽい感じが一切ありませんでした。
町中のお寺というと
葬式法事といった仏事が中心で
お寺とご門徒の日頃のつながりが
なくなってきていると言われますが
多くのご門徒衆がそれぞれの持ち場持ち場で
生き生きとお葬式のお手伝いをされている姿を見て
何か清々しいあたたかい気持ちになりました。
弔辞が二通読まれました。
お葬式の弔辞は型通りの決まり文句の羅列が多いのですが
ご自分の言葉で前住さんとの出会いから
仏さまのご縁に遇わせていただいた尊さを
日々の生活の出来事のなかで述べられ
最後に「お育ていただいて有難うございました」
と結ばれました。
お念仏のみ教えに遇うことの有難さ尊さが伝わってきて
本当によかったです。
お念仏は日々の生活のなかで苦しみ悩む私たちに
生きる力をいただけることの頼もしさです。
お釈迦さまは「人生は苦なり」と
この人生は思い通りにならないことが多いと
苦しみ迷う私のすがたを知らせてくださり
苦悩に佇む私をこそ必ず救う仏さまを
阿弥陀仏と明かしてくださいました。
南無阿弥陀仏の声の仏さまとなって
私たちの日々の生活のなかにご一緒くださり
お浄土への人生を共に歩んでくださる
お念仏のお救いのみ教えを
そのご院家さんはお寺のご門徒だけではなく
全国各地に出て行かれて
たくさんのお念仏のお同行を育てられたということです。
自らが育てるなどということではなく
親鸞さまが私たちに示してくださったお念仏の道を
共に歩んでいこうとのお心持ち一つだったと思います。
そうした日々の布教伝道ということが
お葬式という形になって見事に示されたと思います。
涙はありませんでした。
確かに有縁の方の死は人と人との別れで悲しいご縁ですが
そのままお念仏のご縁といただけるのですから
これからもずっと私の心に生きてくださるということで
これからも宜しくお願いしますとお礼を申し上げる
あたたかいお葬式でした。
まだ雨が降っていました。
凄い大雨になっていました。
雨はうっとうしいと言われますが
弔辞にもありました
雨が本当に宝石のように輝いて
華が天から降ってくるような感じにさえ思えて
すてきなすばらしい仏さまのご縁に
遇わせていただきました。
お寺にご縁をいただいて
お念仏のみ教えに遇わせていただいて
本当によかったなあという思いで
お念仏申して昨日一日を過ごさせていただきました。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2012.6.19)
傾聴ということ(2011年アーカイブ)
2022-06-18
東日本大震災の復興支援で
いろんなボランティア活動が行われています。
そのなかで傾聴ボランティアということが
注目されています。
傾聴ボランティアは相手の気持ちに寄り添って
話を受容共感しながら聴く活動のことで
大震災で家族や大切な人を亡くしたり
家を失ったりした人の苦悩に寄り添い
思いを聴くなかに共に生きることで
新聞テレビ等でも識者の声として
悲しみに寄り添う共感することの大切さが
よく言われています。
あなたと私が共に生きる日常生活の中でも
あなたの気持ちに私が寄り添う共感するといって
本当に難しいですね。
難しいというのは
そこに私がという思いはからいがはたらくからです。
私だったらこう思う考える行動すると
この私がという思いが強ければ強いほど
その人のお話を聞くといって
どうしてもそこに私の思いや意見が入ってきます。
それが相手の方にとっては非常に傍迷惑なことで
何か意見を押し付けられるような嫌な思いにさせられる
説教される強制されるといったことにもなるといいます。
説教といって本来は
お釈迦さまが説かれた仏教の教えを説き明かすことで
自分の思いを話すことではないのですが
お説教というとお坊さんが一方通行に
ご話することが多かったように思います。
ただご法話を聞くだけで
自分たちの思い意見は聴いてもらえないと
話し合い法座というご法座が生まれました。
仏さまのみ教えを共に聞いて
分からないことは聞きましょう
皆さんで話し合いましょうという取り組みです。
話し合い法座が始まって50年になりますが
当初の思いとは裏腹に
今はまた昔ながらのお説教に返っているような感じです。
話し合い法座が難しいというのは
ご門徒衆の中に袈裟衣を着けたお坊さんが入りますと
仏法について中々思うようなことが言えないことで
どこかにホンネを隠したタテマエの話し合いに
なってしまうということです。
あなたと私が苦しみ悩みを共感することも
理想的なことですが難しいです。
何でも思っていることをお話ください
苦しいこと悲しいこと悩んでらっしゃることを
お話してくださいと言いますが
苦しみ悩みが深ければ深いほど
声に出して人に話すことはなお難しいことです。
お寺がそうした苦しみ悩みを抱えた方々の
居場所になっていきたいと思います。
阿弥陀さまのお姿をご覧いただくと
阿弥陀さまの胸ははだけるように広く開いています。
どうぞあなたの悲しみの涙を
ここにいっぱい流しておくれというお姿お心です。
悲しい時には涙が枯れるまで泣いていいんですよ
私がいつも一緒だから大丈夫という大きなおはたらき
阿弥陀さまの大悲のおすがたです。
阿弥陀さまは大悲の中からスーッと立ちあがって
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のお喚び声になって
私のところに来てくださっているのです。
阿弥陀さまは私に寄り添い私の苦しみ悩みに共感して
「あなたの命そのまま引き受けた必ず救う」と
おはたらきの仏さまになってくださったことを
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.6.18)
<スナック円光寺>にようこそ!
2022-06-17
今朝ちょっと早く目が覚めて新聞を取りました。
合同新聞の一面に「スナックを学術研究」という
大きな見出しを見て記事を読みました。
スナックはカウンターのある小さな店舗で
ママが水割りをつくりボトルを入れた者同士で
歓談する場所と書いてありました。
私が大分に戻って来て友だちに初めて連れて行かれた
これまで未体験の異空間がスナックでした。
お気に入りの店ができて
お酒を飲んで歌って色んな人と出会い話した
楽しい世界でした。
昼の仕事の世界とは異なる夜の社交場です。
飲みに行ってみんなとワイワイできる所がある
楽しみです。
歳を重ねて若い頃に通ったスナックが閉店していきますが
また次に通うスナックが新しくできてということです。
スナックには常連客がいて
その常連客に連れて来られたお客が次の常連客になるという
うまい具合に常連客の人のリレーがあって
息の長いスナックは今もしっかり残っています。
ママさんは変わりませんが
私と同じように歳を重ねていきます。
私とほぼ同年輩で話す話題もカラオケの歌も共通点が多く
馴染みのスナックは安心できて心地よい所です。
スナック文化と言っていいほど
スナックの話には奥が深いものがありますが
お寺のご法座に重ねて思います。
このお朝事のご法座です。
皆さんは常連のお参り同行ですが
これまでの常連のお方に勧められるとか
その方の後ろ姿を見て
皆さんが今ここに座ってらっしゃるのではありませんか。
皆さん常連のお同行も順繰り順繰りならば
住職のこの私もまた順繰りで
前住から私にそして新院へと変わって行きます。
ここでスナックと違うのは
ママさんと呼ばれる方の存在です。
阿弥陀如来さまです。
ママさんと違って阿弥陀さまは歳をとらないで
いつもそのまま同じお姿で
私たちを迎えてくれます。
いつでもどこでも私のことを思うてくださり
「最近来ないけど、どうしてるのかな?」と
心配してくれているのです。
阿弥陀さまの思い一つに
このお念仏のご法座が私たちに開かれているのです。
だからお参りできるのです。
私がお参りできる所を用意して
待ってくださっているのです。
私がこの命終わっても
このお寺のご法座に閉店はありません。
お念仏の先人が順繰り順繰り引き継いで
このたびご縁をいただいたこの私です。
今日もこうしてご縁をいただいて
ようこそお念仏のスナック円光寺に
お参りなさいました。
お念仏を活力に
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.17)
百か日のご縁で
2022-06-16
昨日百か日のお勤めを本堂でしました。
朝早くから次々に車がお寺の境内に入ってきて
駐車場に車が5台とまりました。
お参りされた方は6人です。
一人は免許を持っていませんから
皆さんそれぞれが自分の車でみえたということです。
60歳前の方のご縁で
お母さんに連れ合いの方子どもさんのご家族ですが
それぞれお家が違う生活が違うということで
皆さんが百か日のご縁でお寺にお参りされました。
昨日は平日で仕事をもっている方は
お休みするなど都合をつけて
この時間に円光寺の本堂御仏前に集まったのです。
仏さまのご縁はいただきものといいます。
かといって私がじっとしていてできるご縁ではありません。
私が都合をつけてこの身を御仏前にはこんだのですから
私が思い私がしたことです。
ただこの御仏前に座ってみると
尊い仏さまのご縁といただけるのが
仏法に遇うことの有難さです。
仏法を聞いてくれよお念仏申す身になってくれよと
仏さまのご縁をいただいて
この身を御仏前に座らせてもらったのです。
阿弥陀さまの本願念仏のお心
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
その仏さまのご縁をまさに命がけで
この私に開いてくださった仏さまと仰いでいける尊さです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
この身は今人間の命を生きて
いつか必ず命終えていきますが
死んだらお終いではなくて
大きないのちのつながりのなかに
これからもずっと生かされて生きることができると
お念仏のご法義を有難く聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.16)