南無阿弥陀仏の親心が聞こえてくる(2016年アーカイブ)
2022-06-04
北海道で行方不明になっていた小学2年生の男の子が
無事保護されたというニュースです。
日本全国そして海外まで発信され
皆さんほっとしてよかったということです。
山菜取りに行って行方不明になったという説明でしたが
実はしつけのために林道に置き去りにしたということで
いろんな意見が寄せられています。
父親が昨日の会見で
子どものしつけのためにしたことが
行き過ぎだったと反省していました。
親の言うことを聞かない子どもに
親がしつけのために家の外に出したり
押し入れに閉じ込めたりとか
今は幼児虐待や保護者遺棄罪に
問われるようなことですが
どこかに思い当たることがありませんか。
親と子の関係で
親は子どものために良かれと思ってする行為が
子どもにとってはすごく怖いことで
いつまでもトラウマになることにもなりかねません。
一番信頼している親から見捨てられるようなことですが
いなくなってずっと一番心配したのは親なんですね。
我が子だからこそ厳しく育てる
親だからこそどこまでも愛情を注いでいくと
親の思いいっぱいでしょうが
親の身勝手な一方的なものになってしまっては
逆効果です。
小学校2年生の子どもです。
もう不安いっぱいで心配だったと思います。
新聞報道等でいうと
今回はいろんな偶然が重なって
雨風寒さををしのげる屋根のある建物があり水道もあって
大きな不安のなかにも7日間生きてこられたといいます。
私たちの人と人との関係営みというのは
1+1が2という世界ではありません。
こちらの思いが相手にそのまま伝わっているかというと
それぞれの思いは違っていて
一方的な思いの押し付けになったり
10が10伝わっているということではないのです。
ただ10が10ではなくても
その思いをお互いに聞いていく気づいていく
思いやっていくということが
双方共に大切なことだと思います。
仏法聴聞に重ねて思います。
常日頃から仏さまのみ教えを
聴聞させていただくことの大事です。
聴聞は聴く聞くと書きますが
まずこちらから聴く聴いていくということで
聴いていくなかに
仏さまのお心が聞こえてくるというのです。
南無阿弥陀仏のまさに親心です。
親心が聞こえてくるのです。
聴いたら親心がわかるわかった
ということではありません。
中々難しいことですが
だからこそご縁ご縁に聴聞を重ねましょうというのです。
お聴聞のご縁に身を置いて聞いておけよというのです。
日頃からのお聴聞です。
いつでもどこでも阿弥陀さまは南無阿弥陀仏となって
この私にご一緒してくださる
仏さまに成ってくださったのです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申すところに
そのまま南無阿弥陀仏が聞こえてきます。
阿弥陀さまの親心です。
「いつも私が一緒だから大丈夫。
あなたはあなたの命を輝かせて一緒に生きて往こう」
と南無阿弥陀仏のおはたらきです。
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされて
南無阿弥陀仏の親心が
今こここの私に届けられて
ほっとします安心します。
よかったです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2016.6.4)
「釈迦弥陀は慈悲の父母」
2022-06-03
今拝読の御和讃は『高僧和讃』で
第五祖中国の善導大師のご功績讃嘆していますが
今日は「釈迦弥陀は慈悲の父母」で始まりました。
「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」
(釈尊と阿弥陀仏は慈悲深い父母である。
巧みな手だてをさまざまに施し
わたしたちにこの上ない真実の信心を
おこさせてくださった)です。
善導大師は親鸞聖人のお師匠さんの法然聖人に
大きな影響を与えた先師です。
法然聖人は善導大師の生まれ変わりと言われるように
善導偏依と善導さまの著書に立脚し
専修念仏の仏道を明らかにされました。
親鸞さまもまた善導さまの教えを
受け伝えられていますが
「二河白道の譬」はよくご法話お取り次ぎされるお話です。
ある人が西に向かって独り無人の原野を進んで行くと
にわかに水火の二河に出会う。
火の河は南にあり水の河は北にあって
河の幅はそれぞれ百歩ほどであるが
深くて底がなく南北に果てしなく続いている。
二河の中間には一筋の白道があるが
幅4、5寸ほどで水と火とが常に押し寄せている。
そこに群賊や悪獣がその人を殺そうと
後ろから迫ってくる。
その人は、行くも帰るのとどまるも
どれ一つとして死を免れることができない。
思い切って二河の間の白道を進んで行こうと思った時
東の岸から「この道を尋ねて行け」と勧める声があり
西の岸からは「ただちに来れ、われよくなんぢを護らん」
と呼ぶ声がする。
東の岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが
その声を顧みることなく
一心に疑いなく進むと西の岸に到達し
諸難を離れ善友とまみえることができたというお話です。
浄土仏教という仏道のイメージをよく伝えるもので
様々な煩悩が襲いかかるこの道を
仏のよび声を聞きながら命がけで進むのです。
東からの「この道を往け」はお釈迦さまの発遣の声で
西からの「この道を来い」は阿弥陀さまの招喚の声です。
「往けよ」「来いよ」のよび声に信じまかせて
この道を往くのです。
往生浄土を往く念仏者の仏道です。
原野に独り彷徨うある人こそ
この私であったというお味わいです。
釈迦弥陀は慈悲の父母と
私たちはご本尊の阿弥陀如来さまを仰ぐなかに
お釈迦さまも仰いでいくのです。
お念仏を申して
釈迦弥陀の「往けよ」「来いよ」の
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞いて
今日一日もお浄土への道すがらを
共々にさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.3)
「本願力に乗ず」
2022-06-02
今日の御和讃の中に「如来の弘誓に乗ず」
「本願力に乗ず」と乗るという字が出てまいりました。
車に乗る船に乗る電車に乗る飛行機に乗るといいます。
車船電車飛行機と交通手段は異なりますが
乗るということでそのまま目的地に
この身を運んでくれるということです。
阿弥陀さまの本願力に乗ずとは
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきに
おまかせするということです。
船に乗るとは船にまかせることで
船に乗ってしまえば船の中で私がどうこう動き回っても
船の行く所に行くわけです。
車も電車も飛行機もそうです。
乗ってしまえばもうおまかせです。
阿弥陀さまのご本願のお心を聞いて
そのまままかせて乗るのです。
少しでも疑い心があれば乗れません。
信心いただくとは
私に疑い心が無くなることをいい
聞くそのままがまかせるということなのです。
私が信じる私が信じてと
私のところに力が入る限りは
疑っているということです。
今日の第六首目の御和讃です。
「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」
(煩悩を身にそなえたものであると知らされて
本願のはたらきにおまかせする身となったなら
命を終える時
煩悩にまみれたこの身を捨て去って
浄土で変ることのない真実のさとりを
開かせていただくのである)です。
南無阿弥陀仏「まかせよ救う」のおはたらき一つで
煩悩具足の身がそのまま本願におまかせする身となって
お念仏申してこの迷いの人生を生き抜き
命終えてそのままお浄土に生まれさせていただくのです。
南無阿弥陀仏のおはたらきがこの身について
煩悩具足のままにお念仏申す身にお育ていただくと
「本願力に乗ず」のお心を味わわせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.2)
臨終のご尊顔
2022-06-01
今日から6月水無月です。
水が無い月と書きますが
これから梅雨に入って雨水を見ることが多くなります。
裏戸の庭の花壇に今紫陽花が満開できれいです。
紫陽花はこの雨の時期に合います。
雨でうっとうしい心をほっと癒してくれる
お花のはたらきです。
今朝早く電話でお葬儀の連絡がありました。
実はこの1ヵ月20日余りお葬式がありませんでした。
昨日この前のお葬儀の満中陰のお勤めがありましたが
満中陰が済む頃にお葬儀ができることが
これまでもありました。
ご門徒有縁の方のご縁です。
大切な人とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただきましょう
とお取り次ぎさせていただきます。
この人間界に命恵まれて
生きて命終えていく私のいのちの物語です。
元気で長生きしたいと思い
身近な人にいつまでも長生きしてほしいと思うのは
人の情ですが
到底かないません。
どんな人もいつか必ずこの命を
終えていかねばならないのです。
この後臨終勤行にお参りさせていただきます。
お勤めの後でお顔を拝見させていただきます。
皆さんいいお顔をしています。
本当にいいお顔です。
こんなことを思います。
私たちは日々自己中心に自分の思いはからいで
お互い生きています。
皆が自分の思い通りに生きていければいいのですが
ままなりません。
自分の思い通りに生きて笑う人がいれば
そのすぐ傍で泣く人がいるといった具合で
喜怒哀楽のそれぞれの人生です。
笑う時もあれば泣く時もある
喜ぶ時もあれば怒る時もあります。
悔しい思い悲しい思い嬉しい思いが
そのまま顔に出ます。
隠しても何かの拍子にぽろっと顔に出るのが
私の本当のすがたです。
ままなりません。
その思いはからいがすっとなくなったお姿が
臨終のご尊顔だと見させていただきます。
仏さまのお顔そのままです。
今日も皆さん手を合わせて
ナンマンダブツとお念仏申しましたね。
ナンマンダブツとお念仏申すお顔は
仏さまのお顔です。
ただずっとそのお顔のままではありません。
日々の生活の中に私の様々な思いが出てきます。
お念仏申しましょう。
ナンマンダブツとお念仏申すなかに
隣の人もみんな仏さまの大きなお慈悲のおはたらきに
共々に生かされてあるんだなと聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.1)
私のいのちの一大事の用事です
2022-05-31
昨日お寺のご院家さんのお葬式に
お参りさせていただきました。
少し早めに行ってご遺族とお話したことですが
「御無沙汰しております」で始まりました。
コロナ禍ということでもありますが
もう2年それ以上も会っていないということです。
そんなに長い時間お話をすることではありませんが
何かふっと落ち着きますね。
悲しみのご縁です。
「大変お世話になりました」とお礼申し上げ
先に往かれた方を仏さまと仰いでいける
仏さまのご縁といただきます。
先に往かれた仏さまが私たちのことを思うて
人と人のつながりご縁をつくってくださるのです。
懐かしい人に会いました。
もう30年も40年も前のことで
一緒にお仕事をしたり活動したりという方です。
今はネットの社会ですから
携帯で電話すればすぐ声が聞こえることですよ。
でもこれが中々どころじゃありません。
何か用事がないと連絡も電話もできないということです。
何か用事です。
悲しみのご縁ですが用事です。
仏さまがつくってくださる
大事な用事です。
世間の用事ではありません。
この私のいのちの一大事の用事です。
仏さまが南無阿弥陀仏とおはたらきくださって
この私にお念仏申してくれよとおはたらきです。
人と人が出会いと別れを繰り返す
私たちの日々の生活ですが
共々にお念仏申して
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
今もそしてこれからもずっと
生かされて生きて往ける有難さをまた思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.31)