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お念仏を申す生活法話

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諸仏にすぐれて阿弥陀さまは

2022-04-22
 今日22日の御文章は「男子も女子も章」です。
この中で「諸仏」という言葉が再々出てきます。

 まず「諸仏の悲願をたのみても」とあります。
諸仏とは阿弥陀仏以外の諸々の仏さま方です。
 男子も女子も罪の深いものたちは
諸仏のお慈悲をたよりにしても
今は末法の世なので
諸仏の力ではとても救われないというのです。

 次に「諸仏にすぐれて」とあります。
阿弥陀仏は十悪五逆の悪人をも救うという
すぐれた願をおこし仏と成られたお方で
「私を深くたのんで二心なく信じる衆生を
たすけることができなければ
私はさとりを開かない」と誓われた阿弥陀仏だから
私たち衆生が浄土に往生することは疑いないというのです。

 阿弥陀仏の本願は十方衆生すべてのものを救うと
末法の世に生きるどんなに罪深いものも
「十人は十人ながら百人は百人ながら」と
一人も残さず救うというのです。

 すべてのものと聞いてこの私のことです。
この私をこそ必ず救うと
どんなに罪深くともそのまま救うと
南無阿弥陀仏の力強いおはたらきを
聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.22)


「なんのようもなく」そのまま救う

2022-04-21
 今日21日の御文章は「在家尼女房章」です。
在家の女性信者である
厳しい家庭生活の現実を生きる女性の
仏道を述べられたものです。

 蓮如上人の当時も女性を「五障・三従」と見て
女性は成仏できず男性に対する従属を強いる
つよい差別がありました。

 三従とは、女性は幼くして親に従い
結婚しては夫に年老いては子に従うという
従属的な存在として見られていたのです。

 昨日のニュースです。
牛丼チェーン吉野家の常務の発言が
女性蔑視と大きな問題になっています。

 去年の東京オリンピック組織委員会
森会長の発言を思い出します。

 識者のコメントは日頃から女性蔑視の発言が
社内外でされていたのではないかという指摘です。
 周囲に受けるような面白い話を
されていたという報道もあります。

 社会的な影響力のある人だからこそ
その発言で嫌な思いをする人がいるという
想像力が欠けているとしか思えません。
 そしてその場にいた人の反応も
笑い声すら起こったということの重大さです。
 森発言の時と重く重なります。

 女性蔑視のものの見方が
いかに根強いものであるかということです。

 蓮如上人は「在家尼女房章」のなかで
阿弥陀さまのご本願のお救いは「なんのようのなく」と
特別なはたらきや条件を必要としないと書かれています。
 阿弥陀さまのお救いには
何の条件もないというのです。

 男子も女人も誰もが何の条件もなく
救われるといってこの私のことです。
 この私が男であろうと女であろうと
地位や名誉を築いた人であろうとなかろうと
富んだものも貧しきものも
そのまま救うというのです。

 そのまま救うとおはたらきの阿弥陀仏の本願だから
この私が救われるのです。
 蓮如さまはそのことを私たちに
何通も何通もお手紙にして
御文章さまを届けてくださっているのです。

 「在家尼女房」と「男子も女子も」と言葉を紡ぐのは
当時の社会常識に抗うことであったと思いますが
当時の女性は深い感動をもって御文章さまを
拝読されたのではないでしょうか。

 今私たちが生きているこの現代の社会です。
変わっていないということです。

 あの常務さんは49歳だそうです。
私たちよりずっと若い
この社会の第一線で活躍されている方です。
 昔の人も今の人もではありません。
同じ時代社会を生きる私たちこの私の問題です。

 男だから女だから男らしく女らしくって
日々の生活のなかで言葉にすることがありませんか。
 私たちのものの見方はどこまでも自分中心です。
だからこそ阿弥陀さまのご本願のお心を
聞かせていただいて
そのことを私の隣の人に一人でも多くの人に
お伝えしていくことが
お念仏申して生きる者のつとめだと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.21)


智者と愚者

2022-04-20
 今日20日の御文章は「八万の法蔵章」です。
智者と愚者という言葉が対比されて出てきます。
 キーワードは「後世を知る」で
「後世を知るを智者」といい
「後世を知らざるを愚者」といわれます。

 私たちの社会常識では
智者とは知恵知識のある者で
愚者とは知恵知識のない者と見ますが
仏法の見方はある意味逆転しているのです。

 智者といい愚者といい
仏法の教えの上での言い方で
「仏法を学ぶ聞く」ということと
「仏法に学ぶ聞く」ということの違いです。

 仏法を学ぶという見方は
自分を中心に仏法を学問として
対象化して学ぶということで
学んだ習得度をテストをして見極めることで
智者愚者の区別ができるのでしょうか。

 一方仏法に学ぶ聞くという見方は
仏教の教えに私のあり様ありのままの姿を聞くこと
私を聞くのです。

 仏教の教えは鏡だという譬えです。
鏡は私の姿をそのまま見せてくれます。
 私を知らせてくださる鏡です。

 「鏡を見なさい」といわれて
鏡のデザイン形や大きさを見るのではありません。
鏡を見て鏡にうつる自分の姿を見るのです。

 親鸞さまは阿弥陀仏の本願の鏡に遇って
ご自身のありのままの姿を
救われようのない地獄一定の煩悩具足の凡夫と
知らされたといわれます。

 同時にこの地獄一定の私を
必ずそのまま救うとおはたらきの
仏さまがいらっしゃることを知らされるのです。

 阿弥陀さまが南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
地獄一定の私をそのまま
往生一定の私にしてくださるのです。

 阿弥陀さまの大きな大きなおはたらきが
もう既に私のところに至り届けられていることを
聞かせていただきましょうといわれるのです。

 浄土真宗のみ教えに
ありのままの私を聞かせていただき
そのまま救う阿弥陀仏の本願他力の仏法に
遇わせていただくのです。

 仏法聴聞はこれだけ聞いたから大丈夫と
聞くのではありません。
 ご縁ご縁に南無阿弥陀仏のいわれを
聞かせていただくのです。

 お念仏を申すなかに今日一日も
お念仏に聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.20)


暗闇を破る光明のはたらき

2022-04-19
 朝が本当に明るくなりました。
いつも本堂に電灯をつけてから外に出て
6時の梵鐘を撞きますが
ちょっと前までくっきり見えていた本堂の灯りが
今は殆ど目立ちません。

 一昨日は今の時期ピンクムーンという満月でしたが
6時の明るい空には月を見ることはできません。

 光には闇を破るはたらきがあります。
明るい中ではロウソクの灯りは目立ちませんが
暗闇のなかではロウソクの灯り一つで
周囲を一気に明るくしてくれます。

 仏さまにお供えするロウソクの灯りを
阿弥陀さまの智慧と慈悲の光明といただきます。
 私の目には見えない心の奥底の煩悩の心を
そのまま照らし出してくださるのです。

 私たちの日暮らしは自分の思い通りに行けば
それでいいのでしょうが
思うようにならないで悩み苦しみ迷う私がいます。

 周りの者が自分の言うことを聞かない
自分の思うようにならないと
自分の都合に合わせて見るのが私たちだと
仏さまは教えてくださり
その原因を無明煩悩と言われます。

 欲の心怒りの心愚かな心をわが身に具えて
暗闇の中に迷う私のありのままのすがたです。

 阿弥陀さまは迷う私を放っておけず
智慧の光明で私を照らし
煩悩具足の凡夫と知らせて
慈悲のはたらきでそのまま摂め取ってくださるのです。

 私たちはいつでもどこでも阿弥陀さまの
智慧と慈悲の光明の中に摂め取られているのですが
私たちは世間の虚仮不実の生活に迷惑して
阿弥陀さまの光明に遇うことが難しいのです。

 季節が移り外が暗くなったら
本堂の灯りがまたくっきり見えてきますが
明るい中にも暗い中にも
阿弥陀さまの光明は常に私たちを照らし
護ってくださっていることを
今日の朝のひと時のなかに有難く思うことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.19)


再び佐々木投手

2022-04-18
 先週の月曜日にプロ野球ロッテの佐々木朗希投手が
28年ぶりに完全試合をしたお話をしましたが
昨日は中6日の予告先発でテレビ中継があって
ついつい最後まで観入ってしまいました。

 「令和の怪物以上の怪物」と実況されていましたが
本当に凄いですね。
 相手投手までも「ワクワクして楽しかった」と
言わせるまでに圧巻でした。

 何と8回まで一人のランナーも出さない
パーフェクトピッチングを続けて
9回佐々木投手はマウンドに上がらず
2試合連続の完全試合達成は成りませんでした。

 両チーム無得点で球数も100球を超えてと
昨夜のスポーツ番組や今朝の新聞の解説をみても
総じて正しい判断だったと
好意的に受け止められています。

 球場につけかけた満員のファンやテレビ観戦の人の
大きな期待はあったと思います。
 2試合連続の完全試合なんて
とてもとても考えられない
夢のまた夢のようなことですから
歴史的な瞬間に立ち会いたいという思いはわかります。

 佐々木投手のことをずっと傍で見てきた
監督コーチはじめ球団関係者のその時の判断です。
 人間ですから限界があります。
どんなにすごい球を投げていても
球数が増えれば当然球速も落ちてくるし
無理をして後々肩を壊し故障して
早く引退する選手が
今までも何人もいました。

 科学の力です。
これまでの積み重ねがデータとなって
その選手に合ったトレーニング体力づくりをしてきて
今年でプロ3年目の20歳です。
 まだまだこれから大記録に挑戦するチャンスは
いくらでもあるということです。

 佐々木投手のエピソードで思い出すのでは
夏の高校野球岩手県予選の決勝戦です。
 準決勝で佐々木投手が完封勝ちして決勝に進出
あと1勝で甲子園出場が決まるという試合でしたが
監督は決勝戦に投げさせなかったのです。

 当時は賛否両論ありましたが
今になって思えば
将来を考え連投して故障を防ぐためにという
監督の英断でした。

 スポーツ根性論が言われる時代がありました。
今できることを100%否120%出してとにかく頑張れ
後悔しないようにとにかく頑張れといわれたものです。

 頑張れと言われて頑張っても
頑張れない私がいます。
 私たち個々の能力はそれぞれ違って
限られたものです。

 阿弥陀さまのお救いのご法義を重ねて思います。
「あなたをそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきのご法義です。

 私たちの能力にかかわらず
すべてのものをそのまま救うというのです。

 私たちがこれまで歩んできた人生の道行き
生活ぶりは人それぞれに違います
 野球選手もそれぞれ能力が違い
野球の楽しみ方も違います。
 プロ野球選手になって活躍する人もいれば
歳を重ねる中に野球を楽しむ人生を送る人もいます。

 阿弥陀さまは人それぞれの違いを超えて
今ここに生きるこの私をいつも見守ってくれて
「我にまかせよそのまま救う」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となって
私と共に生きてくださる
仏さまになってくださったのです。
 
 私が私がと頑張って生きてきた私たちですが
私のすぐ傍で私のことをいつも思うてくださる方々に
支えられ生かされて生きてきたのですね。

 「どんなことがあっても私が一緒だから大丈夫」と
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞かせていただき
今日一日もお念仏申して生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.18)


円光寺
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