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お念仏を申す生活法話

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私にぴったりの南無阿弥陀仏の服です(2016年アーカイブ)

2022-04-23
 今日の御文章「一念大利章」に
「不可称不可説不可思議の大功徳」と何度もありました。
 
 阿弥陀さまの十方衆生を救うというおはたらき
無上大利の功徳です。
 他力の本願、他力の信心、他力の念仏といって
南無阿弥陀仏の他力のおはたらきです。

 先日の新聞のコラムに大分市内府内町の
服飾デザイナー鶴丸礼子さんの記事がありました。

 鶴丸さんは服を作るお仕事をされていますが
身体に障碍をもたれた身障者の方の服を専門に作り
福祉に貢献があったことで
大きな賞をいただいたということです。

 自分の身体に合ったオーダーメイドの服を作るのは
お金も時間もかかって大変です。
 大抵は既製服を求めて買いますが
既製服はS、M、L、LLの決まったサイズがあって
自分の身体にぴったり合った服を
手に入れることは中々できません。
どこか長かったり大きかったりします。

 私の身体にぴったり合う服は
オーダーメイドの服です。

 鶴丸さんは身障者の方にそれぞれぴったりの服を
デザインするということで
46か所身体のサイズを測るといいます。
 私たちが求めるオーダーメイドの服以上に
工夫がいるし時間がかかります。

 私たちの阿弥陀さまの他力のお救いは
服のことでいうと既製服のお救いではありません。
オーダーメイドのお救いです。

 ここに私たち7人いますが
7人それぞれ服のサイズは違います。
 私たち7人の生活ぶりはそれぞれ違いますが
阿弥陀さまは私たち一人一人をそれぞれに
7人いれば7人7様にお救いくださるのです。

 南無阿弥陀仏の他力のおはたらきのお救いです。
私がオーダー注文してから救うのではありません。
阿弥陀さまの方でもうすでに
この私が救われるすべての手立てをつくられて
私たち一人一人に届けてくださっている
南無阿弥陀仏一つのお救いなのです。

 今日も何度もお念仏を申しましたね。
皆さんそれぞれ声の大きさも高さも違い
私の声そして隣の人の声ですが
そのまま阿弥陀さまの「まかせよ救う」の
お喚び声と聞かせていただきます。

 南無阿弥陀仏の私の服を着させていただくのです。
私にぴったりの南無阿弥陀仏の服です。
 この私にぴったりの南無阿弥陀仏の服をつくるために
阿弥陀さまは46か所どころじゃありませんよ
無量無数のまさに不可称不可説不可思議の工夫をし
永い時間をかけて南無阿弥陀仏と仕上げてくださった
阿弥陀さまのお救いなのです。

 そのこと一つ聞いてくれよと
南無阿弥陀仏のご法義です。
 今日一日も南無阿弥陀仏の私にぴったりの服を着て
お念仏を申す日暮しをさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2016.4.23)


諸仏にすぐれて阿弥陀さまは

2022-04-22
 今日22日の御文章は「男子も女子も章」です。
この中で「諸仏」という言葉が再々出てきます。

 まず「諸仏の悲願をたのみても」とあります。
諸仏とは阿弥陀仏以外の諸々の仏さま方です。
 男子も女子も罪の深いものたちは
諸仏のお慈悲をたよりにしても
今は末法の世なので
諸仏の力ではとても救われないというのです。

 次に「諸仏にすぐれて」とあります。
阿弥陀仏は十悪五逆の悪人をも救うという
すぐれた願をおこし仏と成られたお方で
「私を深くたのんで二心なく信じる衆生を
たすけることができなければ
私はさとりを開かない」と誓われた阿弥陀仏だから
私たち衆生が浄土に往生することは疑いないというのです。

 阿弥陀仏の本願は十方衆生すべてのものを救うと
末法の世に生きるどんなに罪深いものも
「十人は十人ながら百人は百人ながら」と
一人も残さず救うというのです。

 すべてのものと聞いてこの私のことです。
この私をこそ必ず救うと
どんなに罪深くともそのまま救うと
南無阿弥陀仏の力強いおはたらきを
聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.22)


「なんのようもなく」そのまま救う

2022-04-21
 今日21日の御文章は「在家尼女房章」です。
在家の女性信者である
厳しい家庭生活の現実を生きる女性の
仏道を述べられたものです。

 蓮如上人の当時も女性を「五障・三従」と見て
女性は成仏できず男性に対する従属を強いる
つよい差別がありました。

 三従とは、女性は幼くして親に従い
結婚しては夫に年老いては子に従うという
従属的な存在として見られていたのです。

 昨日のニュースです。
牛丼チェーン吉野家の常務の発言が
女性蔑視と大きな問題になっています。

 去年の東京オリンピック組織委員会
森会長の発言を思い出します。

 識者のコメントは日頃から女性蔑視の発言が
社内外でされていたのではないかという指摘です。
 周囲に受けるような面白い話を
されていたという報道もあります。

 社会的な影響力のある人だからこそ
その発言で嫌な思いをする人がいるという
想像力が欠けているとしか思えません。
 そしてその場にいた人の反応も
笑い声すら起こったということの重大さです。
 森発言の時と重く重なります。

 女性蔑視のものの見方が
いかに根強いものであるかということです。

 蓮如上人は「在家尼女房章」のなかで
阿弥陀さまのご本願のお救いは「なんのようのなく」と
特別なはたらきや条件を必要としないと書かれています。
 阿弥陀さまのお救いには
何の条件もないというのです。

 男子も女人も誰もが何の条件もなく
救われるといってこの私のことです。
 この私が男であろうと女であろうと
地位や名誉を築いた人であろうとなかろうと
富んだものも貧しきものも
そのまま救うというのです。

 そのまま救うとおはたらきの阿弥陀仏の本願だから
この私が救われるのです。
 蓮如さまはそのことを私たちに
何通も何通もお手紙にして
御文章さまを届けてくださっているのです。

 「在家尼女房」と「男子も女子も」と言葉を紡ぐのは
当時の社会常識に抗うことであったと思いますが
当時の女性は深い感動をもって御文章さまを
拝読されたのではないでしょうか。

 今私たちが生きているこの現代の社会です。
変わっていないということです。

 あの常務さんは49歳だそうです。
私たちよりずっと若い
この社会の第一線で活躍されている方です。
 昔の人も今の人もではありません。
同じ時代社会を生きる私たちこの私の問題です。

 男だから女だから男らしく女らしくって
日々の生活のなかで言葉にすることがありませんか。
 私たちのものの見方はどこまでも自分中心です。
だからこそ阿弥陀さまのご本願のお心を
聞かせていただいて
そのことを私の隣の人に一人でも多くの人に
お伝えしていくことが
お念仏申して生きる者のつとめだと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.21)


智者と愚者

2022-04-20
 今日20日の御文章は「八万の法蔵章」です。
智者と愚者という言葉が対比されて出てきます。
 キーワードは「後世を知る」で
「後世を知るを智者」といい
「後世を知らざるを愚者」といわれます。

 私たちの社会常識では
智者とは知恵知識のある者で
愚者とは知恵知識のない者と見ますが
仏法の見方はある意味逆転しているのです。

 智者といい愚者といい
仏法の教えの上での言い方で
「仏法を学ぶ聞く」ということと
「仏法に学ぶ聞く」ということの違いです。

 仏法を学ぶという見方は
自分を中心に仏法を学問として
対象化して学ぶということで
学んだ習得度をテストをして見極めることで
智者愚者の区別ができるのでしょうか。

 一方仏法に学ぶ聞くという見方は
仏教の教えに私のあり様ありのままの姿を聞くこと
私を聞くのです。

 仏教の教えは鏡だという譬えです。
鏡は私の姿をそのまま見せてくれます。
 私を知らせてくださる鏡です。

 「鏡を見なさい」といわれて
鏡のデザイン形や大きさを見るのではありません。
鏡を見て鏡にうつる自分の姿を見るのです。

 親鸞さまは阿弥陀仏の本願の鏡に遇って
ご自身のありのままの姿を
救われようのない地獄一定の煩悩具足の凡夫と
知らされたといわれます。

 同時にこの地獄一定の私を
必ずそのまま救うとおはたらきの
仏さまがいらっしゃることを知らされるのです。

 阿弥陀さまが南無阿弥陀仏のおはたらきとなって
地獄一定の私をそのまま
往生一定の私にしてくださるのです。

 阿弥陀さまの大きな大きなおはたらきが
もう既に私のところに至り届けられていることを
聞かせていただきましょうといわれるのです。

 浄土真宗のみ教えに
ありのままの私を聞かせていただき
そのまま救う阿弥陀仏の本願他力の仏法に
遇わせていただくのです。

 仏法聴聞はこれだけ聞いたから大丈夫と
聞くのではありません。
 ご縁ご縁に南無阿弥陀仏のいわれを
聞かせていただくのです。

 お念仏を申すなかに今日一日も
お念仏に聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.20)


暗闇を破る光明のはたらき

2022-04-19
 朝が本当に明るくなりました。
いつも本堂に電灯をつけてから外に出て
6時の梵鐘を撞きますが
ちょっと前までくっきり見えていた本堂の灯りが
今は殆ど目立ちません。

 一昨日は今の時期ピンクムーンという満月でしたが
6時の明るい空には月を見ることはできません。

 光には闇を破るはたらきがあります。
明るい中ではロウソクの灯りは目立ちませんが
暗闇のなかではロウソクの灯り一つで
周囲を一気に明るくしてくれます。

 仏さまにお供えするロウソクの灯りを
阿弥陀さまの智慧と慈悲の光明といただきます。
 私の目には見えない心の奥底の煩悩の心を
そのまま照らし出してくださるのです。

 私たちの日暮らしは自分の思い通りに行けば
それでいいのでしょうが
思うようにならないで悩み苦しみ迷う私がいます。

 周りの者が自分の言うことを聞かない
自分の思うようにならないと
自分の都合に合わせて見るのが私たちだと
仏さまは教えてくださり
その原因を無明煩悩と言われます。

 欲の心怒りの心愚かな心をわが身に具えて
暗闇の中に迷う私のありのままのすがたです。

 阿弥陀さまは迷う私を放っておけず
智慧の光明で私を照らし
煩悩具足の凡夫と知らせて
慈悲のはたらきでそのまま摂め取ってくださるのです。

 私たちはいつでもどこでも阿弥陀さまの
智慧と慈悲の光明の中に摂め取られているのですが
私たちは世間の虚仮不実の生活に迷惑して
阿弥陀さまの光明に遇うことが難しいのです。

 季節が移り外が暗くなったら
本堂の灯りがまたくっきり見えてきますが
明るい中にも暗い中にも
阿弥陀さまの光明は常に私たちを照らし
護ってくださっていることを
今日の朝のひと時のなかに有難く思うことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.4.19)


円光寺
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