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お念仏を申す生活法話

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梅が満開です

2025-02-23
 この冬何度目かの日本列島を襲う大寒波です。
各地の大雪情報を観ながら
今日は日曜日ということで
自宅でゆっくりを決め込んでいましたが
近くの公園にウォーキングに出かけました。

 空は晴れて風もありませんでしたが
冷たい寒気に少し厚着をして
1時間余り歩きました。

 幾つもの梅の木にお花が満開です。
紅梅白梅ピンクの梅の花もあって
いつもより少し遅い春の訪れを
告げてくれているようです。

 四季折々の自然の営みです。
大いなる自然のいのちのご縁つながりのなかに
私たちもまた生かされて生きているということです。

 梅の花もいつも同じように見えて
去年の梅の花ではありません。
 毎年新たに命芽生えて花をつけ命終えていく
いのちの物語を生きているのです。

 私たちも縁あってこの人間界に生を享けて
いのちの花を咲かせて生きて命終えていきます。

 目に見える私のいのちの物語ですが
南無阿弥陀仏の大きないのちの物語の一小節です。

 この目に見えないなかに
人の世に生れ出るご縁が恵まれこの世に生まれ
仏法に遇うご縁をいただいて
仏のいのちに成らせていただくのです。
 そのすべてのいのちのあり方が
阿弥陀さまのご本願のご縁であり
南無阿弥陀仏のご縁つながりのいのちの物語です。

 南無阿弥陀仏のいのちの物語を今日一日も生かされて
往生浄土のお念仏の道を生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.23)

立場を置き換えてみたら

2025-02-22
 大分の町中に車で外出し
2時間余り用事を済ませて駐車場に戻ると
隣りの車のドアが開いて
「あなたの車ですか?」とたずねられました。

 続けて「2時間待っていたのですが
実はあなたの車の後ろに私の車が接触して……」と
車の後方にまわってある箇所を指さしながら
「すみませんでした」と謝われました。

 どこにもへこんだり
傷ついたりしているところがないことを
お互いに確認してその場を別れました。

 私が逆の立場だったら
どうしただろうかと思います。

 接触したことが事実でも
見た限り何も損害を与えていなかったら
そのままその場を立ち去ったのではと
思いました。

 法律上は何の問題はないとして
接触があった事実は事実としてその時に確認して
「ごめんなさい」と謝れば済む話ですが
確認のために2時間待って
「すみません」と謝られて
こちらこそ2時間も待たせて
「すみません」という気持ちになりました。

 他人が見ていないからと
自分の行為に蓋をして善人を装う私がいます。
 阿弥陀さまは自分本位の私の有り様を
もう既に見抜かれた上で
「そのまま救うまかせよ」とおはたらきです。

 見て見ぬふりをしているのではありません。
いつも見守ってくださっているのです。
 お念仏申してあなたも私も皆共に
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされて
生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.22)

日々の生活の中で仏法を味わう

2025-02-21
 法話会のご縁で
コーヒーをいただきながらご法義談義です。

 いつもお参りされるお一人のお方と
日々の生活の中で
家族や友人との出来事を通して
ご法義を味わうお話のやりとりです。

 気がつくと予定の時間オーバーでしたが
残ったコーヒーを入れ足して
ご法義談義が続きます。
 結局お昼の時間になって
法話会のご縁を終えました。

 阿弥陀さまのお念仏のご法義です。
帰するところは
阿弥陀さまの「生きとし生けるものすべてを
分け隔てなく必ず救う」本願念仏のお心
「われにまかせよそのまま救う」
南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 お念仏のご法義に遇って
どこまでも自己中心に生きる
わが身の愚かさあさましさ
ありのままの私のすがたを知らされ
何の条件なしにそのまま救うてくださる
阿弥陀さまのお慈悲の中に生かされて
お念仏申させていただきます。

 いつも同じお話のようですが
日々刻々と変わり行く無常の世にあって
煩悩具足の凡夫の身を生き
悩み苦しみ迷いを繰り返す私を見捨てずに
いつも寄り添ってくださる
阿弥陀さまの真実変わらないお念仏の仏法に
大きな安心をいただきます。

 お念仏の友がご一緒です。
往生浄土のお念仏の道行きを
共にさせていただくお同行です。

 お念仏のご縁に遇えて
本当によかったです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.21)

「聞く」ということ

2025-02-20
 「聞く」ということについて
新聞のコラムを読みました。

 長年高校大学の教員として教壇に立ち
生徒学生に「教える」教育に携わるなかで
改めて「聞く」ことの大切さを思うといわれます。

 学生と面談するとき
彼らの話に耳を傾けながら
その言葉の終わらないうちに
自分の言葉を探していることが
何度かあったそうです。

 アカデミー賞を受賞した名優が
「演技をする上で一番難しいことは何か」と問われて
「相手の話を聞いている時の演技です」と
質問者の目を見つめながら答えたといいます。

 私たちはある問題について議論するとき
相手の話を聞くなかで
自分の意見に合わないとついつい言葉を遮って
反論してしまうことってありませんか。

 それは相手の話をよく聞くのではなく
自分の意見の正当性をただ主張するだけのことで
有意義な議論にならないばかりか
互いに嫌な思いばかりが残ってしまう
空虚な議論になってしまいます。

 コピーライターの糸井重里さんは
「聞け、とにかく聞くことだ。
黙っている者からも聞く。
視線を向けて、いい姿勢で聞く」と言われ
「聞くことは相手に対する敬いだ」とも
書かれてありました。

 浄土真宗は「聞の宗教」といわれ
仏法聴聞を私たちに勧めます。
 阿弥陀仏の本願念仏のお心おいわれを聞きなさいと
言われるのです。
 「われにまかせよ必ず救う」の仰せをそのまま聞いて
南無阿弥陀仏のおはたらきにおまかせします
と聞かせていただきます。

 御仏前に座ってご本尊の阿弥陀仏に視線を向けて
いい姿勢で聞くということ
手を合わせそのままお念仏申して
お礼をさせていただきます。

 南無阿弥陀仏のおはたらきで
ありのままの私をそのままお慈悲の中に抱き取って
お浄土に連れて往ってくださると信じて聞く
救われようのない私をこそ必ずお救いくださると
ゆるされて聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.20)

念仏家族

2025-02-19
 今は核家族世帯が多くなり
三・四世代同居のお家は少なくなりました。

 子どもが結婚して独立し家を建てます。
子どもの家です。
 そして孫が生まれ結婚して家を建てます。
孫の家です。

 同じ地域で近くに住んでいても
親と子そして孫のそれぞれの家族が生活している
現代社会の家族のあり方です。

 昔は親・子・孫が一つ屋根の下で
一緒に日暮らししていましたが
今は家族それぞれの生活ぶりも違って
一緒に食事をすることもままならない
顔を合わせることがない日も
珍しくないといったようなことです。

 お仏壇のないお家が多くなりました。
お仏壇は一家に一つのもので
親のお家にご安置するものとして
子や孫の家にはありません。

 お仏壇はお家の中心にあって
生活の依りどころとして
家族みんながお参りするところでした。

 家族のあり方が変わるなかで
お仏壇が生活のなかで遠い存在になり
お念仏のご法義に遇うことも難しくなり
お寺とのご縁つながりも希薄になって
これからのご法義相続そしてお寺の存続が
大きな課題になってきています。

 これからも少子高齢化と人口移動が続くなかで
お念仏の相続と寺院の存続に関して
家族のあり方の再考です。
 
 念仏社会という大きな括りで
念仏家族というご法義を軸にした家族のあり方です。
 お念仏を依りどころに生きる者同士が
お念仏のご縁つながりのなかに
共に日暮らしする家族の仕組みです。

 お念仏申して阿弥陀さまのお慈悲の中に
あなたと私皆共に生かされて
往生浄土のお念仏の道行きを
ご一緒させていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.2.19)

円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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