1631回連続出場
2024-09-10
大相撲の玉鷲関が
2004年初場所の初土俵以来
1631回連続出場の新記録を達成しました。
大相撲の醍醐味は
巨漢力士が真っ向からぶつかる
ガチンコ勝負です。
年6場所90日間の壮絶な肉弾戦は
ケガがつきもので
休場力士がいない場所はないし
大けがで番付がずっと下がることもあります。
そんななかで20年間休まず出場し続けるだけでなく
勝ち星を上げなければ番付が下がり
引退していくしかありません。
「自分一人だったら、ここまで来ていない」
玉鷲関のコメントです。
モンゴルから異国の地日本に来て
未知の相撲界に入ってと
大変苦労も多かったと思いますが
周りの人たちに支えられ頑張ってこれたのでしょうね。
「継続は力なり」と言葉があります。
物事に向き合い一つ一つ続けることで
それが身につき生きる力になるといいます。
南無阿弥陀仏のおはたらきは
「まかせよ救う」の阿弥陀仏のお喚び声の継続です。
お念仏の声に励まされて
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながり
お慈悲のなかに生かされて生きて往ける
お念仏の道がどんな人にも開かれているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.10)
「何かあった時は……」
2024-09-09
「何かあった時は私に連絡してください」
同窓会を開くことで
体調不良の夫のことを心配して
電話でお願いがありました。
「何かあった時」とは
緊急を要する時のことで
今までどのようなことがあったかわかりませんが
「わかりました」とこたえました。
「何かあった時」などと
不吉なことを想いますが
この歳になって病気持ちの人もそうですが
若くて健康などんな人にも当てはまることです。
この身の上にいつ何が起こってもおかしくない
無常の世に生きている私たちです。
「仏法には明日はない」と言われますが
私たちは何か自分に不都合な嫌なことがあると
「明日がある」といっては
そのことに向き合おうとせず
結局は先送りしてしまいます。
後生の一大事といいます。
この人間界に生まれたことの一大事です。
「何のために生まれて来たのか?」
「生きることの意味は?」
「どこに向かって生きていくのか?」と
仏法に聞かせていただきましょう。
「何があっても大丈夫!」
いつでもどこでもどんな時でも
お念仏申して
南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせて
阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.9)
「人生は苦しいなあ」※転載
2024-09-08
人生には楽しいこともあれば
苦しいこともある。
私たちはそう思って
人生を歩んでいます。
ところが釈尊は
「人生は苦だ」とおっしゃいます。
何か身も蓋もない感じがしますが
今回はこの釈尊の言葉について
考えたいと思います。
釈尊は
「変化し続けている(無常である)ものは
苦である」とおっしゃいます。
私たちはずっと若く健康でいたいと思いますが
それはかないません。
誰でも年を取り病気にもなります。
あらゆるものは「変化し続ける」のです。
この「変化したくない」という願望と
「変化し続ける」という事実との間で
苦を感じるのです。
では私たちはどうすればいいのでしょうか。
釈尊は「苦であるものは私ではない。
私のものではない」とおっしゃいます。
人生も「私の人生」という思いが強すぎると
自分の願望と現実の違いに苦悩を感じます。
「私の」という思いをなくすことは難しいですが
「変化し続けているもの」は「私のもの」ではなく
「頂いたもの」と捉え方を変えてみるとどうでしょう。
この人生は頂いた人生である。
そう受けとめると人生の見え方が変わるように思います。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(本願寺派総合研究所 芝原弘記研究員)より転載
ー本願寺新報2024年9月1日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.8)
昔の名前で出ています
2024-09-07
今年は4年に一度のアメリカ大統領選挙の年で
バイデン現大統領とトランプ前大統領の対決模様で
推移してきましたが
民主党がハリス副大統領を急遽候補者指名することで
俄然盛り上がってきたようです。
一方私たちの国では
この9月に自民党そして立憲民主党の総裁・代表選挙が
続いて行われます。
自民党は現総裁の岸田首相が出馬を取りやめ
これまで最多の候補者が手を挙げる展開です。
今まであまり馴染みのない方を含め新顔が揃い
これからの政策論争が楽しみです。
立憲民主党は前代表が早々に手を挙げ元首相も続いて
現代表が昨日出馬表明をして
いよいよ今日が告示だそうです。
その顔ぶれを見て
「昔の名前で出ています」と揶揄する声が聞こえます。
今はアメリカも日本も政治家を目指す人が
少なくなったのでしょうか。
若い政治家が目立たず
何かあると昔の顔触れがすーっと前に出てきます。
これまでの豊かな経験と知見には敬意を表しますが
若い人の芽を摘んでいるように見えて
何とも変わらない期待できないという印象です。
時代社会のあり方は
ものすごいスピードで変わって行きます。
私もその中にあって
歳を重ね日々刻々と変わって行きます。
国のあり方もそうですが
あらゆる組織社会にあって
リーダーも変わって行かなければ
時代社会の変動に即応したあり方になっていきません。
リーダーには常に次代のリーダーを
育てていく責務があるのですが
自らの保身ばかりが目については
世間からも取り残されることになります。
お寺のあり方もそうです。
僧侶お坊さんのあり方について
歳を重ねることで仏法が身につき
お説教にも味が出てきて
年の功ともいわれますが
お寺における立ち位置です。
お寺をあずかる住職は
現代社会に即応するあり方が求められます。
お念仏のご法義第一に
お寺をめぐる諸課題に
一つ一つ柔軟に対応して
お寺の活性化をはかることです。
年輩の僧侶はというと
お念仏のひと一人一人と丁寧に向き合うなかに
昔の名前でも
ご法義繁盛のお手伝いをさせていただく
居場所がちゃんと用意されているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.7)
もの忘れ
2024-09-06
高齢になり日常生活のなかで
もの忘れがひどく名前や言葉がすぐ出なくなって
認知症の心配をする人も多いのではないでしょうか。
私もその一人です。
覚えていたことを忘れるのです。
「歳をとったということで仕方のないこと
みんなそうよ」と言われても
そのまま自分のことと受け入れられません。
社会生活を営む上で
もの忘れはマイナス要因ともなり
周りの人にそうは見られたくないと思う私です
老化に抗うように脳トレなどに挑戦する人もいますが
そんなに頑張って続けられそうにもありません。
もの忘れを認識することで
ちょっとうつむき加減な生活になりそうですが
先日新聞広告で『ほどよく忘れて生きていく』という
タイトルの本が紹介されて目に留まりました。
嫌なこと、執着、誰かへの期待、後悔
過去の栄光も……「忘れる」ことは、「若返る」こと。
とありました。
忘れてもいいんだよと言われているようです。
覚えておこうと頑張っても
忘れることはどうしようもないことで
忘れることで今を生きることになるとも思います。
決して現状に甘んじて開き直ることではなく
これからの人生を肯定的に受け入れて
今私にできることを
精いっぱいさせていただきましょう。
これまでの人生で学んだことは
本当に必要なものは身についていますし
一般的な知識は忘れたら
今はスマホですぐ調べられます。
お念仏のご法義も
忘れてもいいんですよと聞かせていただきます。
覚えたからわかったから救われる
という教えではありません。
阿弥陀仏の本願念仏のお救いの法は
「われにまかせよそのまま救う」と
生きとし生けるものすべてを分け隔てなく必ず救うと
いつでもどこでもどんな時でも
南無阿弥陀仏とおはたらきです。
お念仏のみ教えを聞いて忘れても
南無阿弥陀仏のおはたらきは
この私の身に付いて離れず
そのままお慈悲のなかに
生かされて生きて往けるのです。
この人生には楽しいことも悲しいことも様々に
覚えておきたいことも忘れてしまいたいことも
良いも悪いも色々ありますが
最後の最期お念仏申して
「よい人生だった」と
そのままお浄土参りさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.6)