野球を楽しむ心
2024-09-30
大リーグ大谷翔平選手の
レギュラーシーズンが終わりました。
右肘手術のリハビリで
今季は打者に専念しましたが
史上初の54本塁打59盗塁を達成するなど
毎朝アメリカから明るいニュースを届けてくれました。
大谷選手の異次元とも言える大活躍に
臨床心理学者の分析です。
結果を「二の次」と考え、球をバットの芯でとらえて
一定の角度で飛ばすことだけに
集中しているといいます。
普通は結果に対して
「良かった」「悪かった」と一喜一憂しがちで
それが努力を怠ったり
意欲を落としたりすることにもつながるが
一流アスリートは
「できた」「できなかった」と分類し
失敗の原因を見つめ克服することで
成長につながるというのです。
大谷選手を
「少年の心を持つスーパーアスリート」と表現し
少年時代から野球を楽しむ心を忘れず
自発的に物事に取り組む姿勢が
大活躍につながっているとの見方です。
私たちの人生訓にも通じることです。
「こうあるべき」「~しなければならない」と
結果に執われ重圧で
思い通りにいかないことが多々あります。
どうしてこんなにうまくいかないのかと
思い悩むことですが
一つ目標に向かって
今できることをさせていただくことです。
「お念仏申されるように生きましょう」と
法然さまのお言葉をいただきます。
人それぞれに生活ぶりは異なりますが
お念仏申して阿弥陀さまの大きなお慈悲に抱かれて
往生浄土の道を共に歩ませていただくなかに
今私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.30)
お念仏の親友
2024-09-29
私たちが生きるこの世界は
あなたと私が織りなす社会です。
あなたと私のご縁つながりで
あなたと私の関係でいうと
親子や夫婦兄弟姉妹友人といった関係です。
あなたがあっての私という関係ですが
この関係が「あなたに会えてよかった」と
いうことばかりだったらいいのでしょうが
ままなりません。
あなたと私の関係が対面の関係である以上
どこかに相互のバランスができており
どちらかが良くて悪くてという関係になりがちで
「みんなよかった」という関係には
中々なれそうにもありません。
国と国、人と人とがいつも仲良く
平和であればいいのでしょうが
これまで人類の歴史で
一日たりとも戦争のない日はありませんでした。
勝負、優劣、善悪でいえば
どちらか一方が勝って負けて
どちらか一方が優れて劣って
善くて悪くてという関係で
縁に触れて争いになり
戦争という事態も起こりうる不安な関係です。
この地球上の人がみんな仲良く平和でありたいなら
共通の敵をつくればいいと言われた方がいます。
宇宙から地球を攻めてくる敵がいるとき
私たちは地球人として一致団結し
地球を守る行動に出るということですが
これほど当てにならないことはありません。
同じ地球人としての視点で
これまで地球環境の問題に
どれだけ対処できたでしょうか。
同じ地球人という理屈はそうでも
人間一人一人はどこまでも自分中心の思いはからいで
生きているのですからね。
お念仏申す視座でものの見方考え方を
見直したらどうでしょう。
阿弥陀仏と私の関係です。
「われにまかせよ必ず救う」
南無阿弥陀仏のおはたらき一つにまかせて
阿弥陀仏のお慈悲の中に生かされて生きる関係です。
あなたも私も同じ阿弥陀仏に向き合うなかに
あなたと私がお念仏の友になるのです。
阿弥陀さまから賜わったお念仏のご縁つながりを
私からあなたへと広げていくなかに
私たちが共に生かされて生きるお念仏の世界が
より大きく広がっていくのです。
あなたと私がお念仏申して
共に往生浄土の道すがらを歩ませていただきましょう。
そこに「あなたに遇えて本当によかった」と
互いに御同朋御同行と尊び敬い合える
お念仏の親友になれるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.29)
「はて?」法の下の平等とは
2024-09-28
朝ドラ『虎に翼』が終わりました。
日本初の女性弁護士で後に裁判官になった
三淵嘉子さんが生きた戦前戦後の激動の時代を
法曹界の変遷とともに描いたドラマです。
戦前の民法で家庭にあっては「無能力者」と規定され
社会的に自由に生きる権利がなかった女性のあり方に
「はて?」と繰り返す主人公の疑問に
現代を生きる私たちも共感しつつ
同性婚や夫婦別姓の問題も重ねて取り上げ
同じ課題に今も苦しみ悩む人がいることを
何度も思い起こさせてくれた異色の朝ドラでした。
裁判では裁判官や検事弁護士のそれぞれの役割があり
法律用語がたくさん出てきます。
ドラマの第1話は
戦後施行された『日本国憲法』の第十四条
「すべての国民は、法の下に平等であって、
人権、心情、性別、社会的身分又は門地により、
政治的、経済的又は社会的関係において、
差別されない」のナレーションで始まります。
そしてドラマが進展する中で
弁護士事務所の壁に書き出された条文が
何度も映し出されます。
法の下の平等です。
法治国家の根幹となる基本的人権の尊重です。
この法とはこの国の憲法法律のことで
私たち国民の代表機関である
国会で制定されるものです。
ただこの法解釈はその時代社会のあり方
裁判の判例によって変わります。
ドラマの中で史実として
尊属殺人罪(自己・配偶者の直系尊属・父母や祖父母の
殺人で、死刑か無期懲役が下限とされた)が
憲法に合憲か違憲かの裁判が詳しく描かれていました。
昭和48年の裁判で
法の下の平等に反するとの違憲判決がでて
後に刑法改正で尊属殺人罪が廃止となります。
このように法律も法解釈も変わって行くもので
国によってその法律の規定が違うということです。
世の中の法は人間がつくるもので
その時どきの社会のあり方を反映し
万人に平等なものであるべきですが
そこに為政者の思いはからいがはいることに
私たちは注意しなければなりません。
大国ロシアのウクライナ侵攻で
国際社会は「国際法の支配による秩序」を言いますが
それぞれの国の思惑があって今も戦争は続き
イスラエルによるパレスチアのガザ攻撃も
終わりが見えません。
国際法による解決をと国連で声を上げても
武力による残虐な殺人行為と環境破壊が
それぞれの自国の法によって正当化され続きます。
仏教を開かれたお釈迦さまは
万人に共通の真実普遍の仏法を説きます。
お念仏の仏法でいうと
阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
生きとし生けるものすべてどんな人も等しく救われると
南無阿弥陀仏の名号法のなかの平等です。
いつでもどこでもどんな時でも
すべてのいのちをそのまま救う名号法です。
世界中のどんな国の人も
どんな社会どんな時代にあっても
変わることがない真実普遍の法のおはたらきのなかに
あなたも私も皆共に
安心して生かされて生きて往けるのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.28)
「明日が来ないでほしい」
2024-09-27
袴田さんの再審裁判で
無罪判決です。
昭和41年(1966年)の事件から58年です。
一家4人殺害事件で逮捕され自白をもとに
死刑判決を受け死刑囚として拘留されます。
袴田さんは初公判から無罪を主張
死刑確定後も何度も再審請求をして
2014年に再審開始が認められ釈放されますが
死の恐怖にさいなまれ極度の拘禁症状がのこり
今も続いて意思疎通ができない状態だといいます。
袴田さんは拘置所で「明日が来ないでほしい」と
毎日思っていたそうです。
死刑の執行はその日の朝予告なく告げられ
すぐさま行われるということからです。
「明日が来ない夜はない」と困難な状況の中にも
明日に希望をもって生きる人が多いのに
本当に悲しいですね。
今回の再審無罪判決は
袴田さんの「私は無実だ」との固い信念と
お姉さんをはじめ多くの方々の
長年の献身的な支援があってからこそですが
判決理由に捜査機関の非人道的な取り調べと
証拠の捏造が認定されているように
これはあってはならない明らかな冤罪です。
検察は今度も「捜査に間違いない」と繰り返し
控訴するのでしょうか。
一人の人間のほぼ一生を無いものがごとくにし
大きな不安と恐怖に貶めた罪の重さです。
当時実際に捜査取り調べをした
警察検察関係者全員が職を離れ
殆どが存命していないなかで
どこまで検察の権威とメンツにこだわるのでしょうか。
検察は一体何を守りたいのでしょうか。
事件が起こると犯人逮捕に奔走するなかに
凶悪事件の解決と厳罰を求める社会正義の空気に乗じて
被疑者の人権を根底から無視するようなことが
あったのではないのでしょうか。
私たちが社会生活を送るなかにも
同じようなことが起こっているのではないでしょうか。
自らの正義を振りかざして他者を一方的に責めては
一般世論の多数意見を社会正義と味方につけて
少数派の人たちの人権を侵害するようなことです。
同じ人間同士みんな仲良く楽しく
日暮らしできたらよいのでしょうが
組織社会の中で生きていくとき
私一人の思いを超えた大きな力に
翻弄されてしまうことが
これまでなかったでしょうか。
本当のところはおかしいと思っても
組織内にいて少しでも異論をとなえず
沈黙してしまうことは
結局は自己保身の何ものでもありません。
自分中心の思いはからいでものごとを見る
私たちのものの見方には
真実ありのままを見る目を曇らせる危うさがあると
仏法に聞かせていただきます。
聖徳太子さまは「世間虚仮唯仏是真」といい
親鸞さまは「念仏のみぞまこと」とお示しです。
どこまでも自分中心のものの見方で
それぞれの人生を生きる私たちです。
同じものごとを見る目も
その時代社会その立場でそれぞれ異なります。
だからこそ仏法に聞かせていただくのです。
お念仏申し南無阿弥陀仏のお心を
聞かせていただくことは
ともすれば自分中心に自らの思いはからいで
正義を振りかざし他者を見ては
互いにしんどい思いをして生きている私たちに
あなたの私も共々に阿弥陀さまのお慈悲のなかに
生かされて生きていることを教えてくださり
どうかお念仏申して自他ともに心豊かに生きてくれよと
聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.27)
無縁遺骨の行先
2024-09-26
人が亡くなり火葬されて
あとにお骨が遺ります。
身寄りのない独り暮らしの方が増えて
このお遺骨の引き取り手がないことで
市町村の自治体が苦慮しているといいます。
市町村で身寄りがいないかどうか調査をしますが
たとえ見つかっても遺骨の受け取りを
拒否されることも多いと聞きます。
諸々の事情があってずっと長く疎遠になっており
今更引き取れないというのです。
何か寂しい限りですが
身近な家族親族の関係も
日頃のつながりが希薄になったことを物語るものです。
さて引き取り手のない遺骨は
当該の自治体が保管することになっており
自治体が管理する保管場所に納骨されます。
ただいつまでどういう形で保管するのか
本人の意思確認もできないし
勝手にどうこうすることもできず
結局はそのまま預かって
遺骨は増えるばかりだというのです。
この問題を取り上げた情報番組のコメンテーターは
お墓は後に遺った方が故人を偲び
お参りするためにあるもので
誰もお参りしない遺骨については
土に返すことがいいのではと
意見を述べられていました。
聞き方によれば
誰のものかわからないものは
捨ててしまってもいいのではと
受け止められかねませんが
現実にこれからも遺骨は増え続け
お家のお墓もいっぱいになって
今後この問題は
広く一般的な社会の大きな課題になってきます。
私のご先祖のお遺骨です。
そして私の遺骨の行先です。
日本における葬送は
近年火葬になりましたが、それまでは土葬でした。
先祖代々のお遺骨で私たちが目にするのは
せいぜい4代5代前のものです。
それまでの先祖の遺骨はというと
数え切れないほど無数にあるはずですが
この目で見て確認できるものは皆無で
みな土に返っているということです。
近年葬儀社や納骨事業者を中心に
永代供養墓の提案が
ネットや広告チラシでされています。
お墓の維持管理が子や孫の負担になると
墓じまいをして永代供養墓を求める方が
多くなったということです。
私の遺骨の行先です。
これからさまざまな選択肢が増えてくるでしょう。
墓地納骨堂を管理運営しているお寺も多いことから
お寺もいろんな要望に応えて
さまざまな提案をさせていただくことになるでしょう。
お盆やお彼岸にお墓参りされる風習は
日本各地でまだまだのこっています。
私のいのちの大恩人である
ご先祖のお墓にお参りしてお礼ができることは
大変意味のあることです。
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲のおはたらきのなかに
先に往かれた方も隣りにいる方も共々につながって
往生浄土の人生を生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.9.26)