どんなことがあっても大丈夫と阿弥陀さまのおはたらきです
2022-06-13
癌で余命宣告を受けて生きて往かれた
お念仏の先人の本を読ませていただきます。
60歳前のお寺の坊守さんのお話です。
お友だちが病院にお見舞いにみえていろんな話に花が咲き
いよいよ帰られるということで
点滴を付けたままエレベーターまで見送りに行った時に
坊守さんが「今度また会えるといいね」と言ったら
お友だちがすぐ「何を言うの。大丈夫だから
弱気になったらだめよ」と言い返したそうです。
お二人の思いはよく分かりますね。
ただ湿っぽくなった雰囲気を察した坊守さんが
「何を言ってるの。私は大丈夫だから
あなたこそ私が退院するまで元気でいてね」と
切り返してその場が和みお別れしたという話です。
私たちは病院にお見舞いに行くと
「私は元気だけれども、入院患者は死に直面している人」
という先入観がどこかにありませんかとの示唆です。
私たちはこの身にいつ何が起こるかわかりません。
御文章さまの「白骨章」に
「われや先 人や先 今日とも知らず 明日とも知らず」
の仰せのとおりです。
お念仏のみ教えに
お見舞いの人も入院患者も同じ「臨終の人」であり
阿弥陀さまの大きなお慈悲のおはたらきのなかに
共々に生かされてあると聞かせていただきます。
人に生まれて死んでいくと
そこだけ切り取ったら何ともはかない命空しい人生です。
人に生まれてお念仏のみ教えに遇って
私のこの命は阿弥陀さまの大きな御手の中にあり
それは私一人ではなく隣の人も隣の人も
共々に生かされて生きて往けるお浄土で
仏に成らせていただくいのちと聞かせていただきます。
阿弥陀さまのおはたらき
南無阿弥陀仏のど真ん中を生きるのです。
これからの人生も生死の苦悩不安は尽きませんが
どんなことがあっても大丈夫と
南無阿弥陀仏のおはたらきです。
阿弥陀さまの大きな御手に抱かれて
今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.13)
往生浄土のいのちを生きる(仏教壮年会例会)
2022-06-12
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
(苦しみに満ちた迷いの海は
どこまでも果てしなく続いている。
その海に長い間沈んでいるわたしたちを
阿弥陀仏の本願の船だけが
必ず乗せて浄土に渡してくださる)
どなたもおはようございます。
やっと昨日梅雨入り宣言が出て昨日は一日中雨でしたが
今日は一転朝から晴れのお天気です。
梅雨に入ったからといって
ずっと雨が続くということではありません。
雨の日もあれば曇りの日も
晴れの日もあるということです。
こうした天気のあり様を
私たちの人生に重ねてみることがあります。
曇より晴れの方がいいといい
雨は嫌われます。
雨の天気は私の思い通りにならない
人生模様をいっているようです。
お釈迦さまは思い通りにならない人生を
苦なりと生老病死の四苦を説かれます。
人間に生まれ生きるということは
老いて病んで死んでいくということで
いつまでも若くありたい健康でいたい長生きしたい
私たちの思いとは全く裏腹なことで
まさに生きることがままならないのです。
ただどんな人も生老病死の四苦を
生きていかねばなりません。
どんな人生を生きてきても
命終える時が来ます。
死苦です。
いつどのような形でこの命終えるかわかりません。
愛別離苦です。
愛する大切な人と別れ離れていかねばなりません。
私の死です。
命終える時に苦しみがないままに
家族に見守られてすーっと息絶えていきたいと思いますが
私が思い描くようにはとても行きません。
どのように死んでいくのか。
私の死に方もままなりませんし
大切な人を思い通りに見送ることもできません。
死は予期できない緊急なことで
家で容態が急変すると病院にお世話になります。
病院に入院すると
お医者さんの処方にまかせることになります。
医師は患者の容態に応じて
治療を尽くしてくれます。
そしてその時が来ます。
臨終の時に間に合わず
最後のお別れもできないままに
命終えていくことにもなります。
親鸞さまのご往生のようすについて
『御伝鈔』という後々の方が書かれたお書物には
「終に念仏の息たえおはりぬ」とあります。
臨終におよんで静かに口に念仏を称えていたが
念仏の息が絶えてそのままお浄土参りされたというのです。
お念仏に生きた親鸞さまのご往生のようすが
そのまま仰がれますが
どういう亡くなり方をされたか
本当のところは分かりません。
お念仏を喜んで生きた方が
臨終におよんで病気の苦しみの中に
意識を失い南無阿弥陀仏のお念仏のひと声も
申せないままに亡くなっていくのが
大方の私たちの臨終ではないかなと思います。
お念仏申すことなく命終えたと
そのことを見てお浄土参りできなかったという
ご法義ではありません。
私がお念仏を申して
その功徳利益で浄土往生が決まるのではないのです。
お念仏は阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏の一方的なおはたらきです。
阿弥陀さまのご本願のお心おはたらきを
今こここの私が聞かせていただくままに
この私の浄土往生成仏の仏道は
南無阿弥陀仏のおはたらき一つに決まっているのです。
生死の苦海とご讃題の御和讃にいただきました。
生死の迷いの苦海に長く沈むこの私を目あてに
阿弥陀さまがご本願の船を用意されて
乗せて必ずお浄土に渡して仏に成らせると
「われにまかせよ必ず救う」とこの船に乗れと
南無阿弥陀仏と喚んでくださっているのです。
南無阿弥陀仏のおはたらきを聞かせていただき
「おまかせします阿弥陀さま」と
そのままご本願の船に乗せていただけるのです。
仏教で生死一如といい
生と死は表裏の関係で
生きることは死ぬことだとの教えです。
私たちは生きることは考えても
死を忌み嫌い死は考えようとも見ようともしません。
死はこの私のことであり本当のことであって
避けて通ることは誰しもできません。
最近よく知っている方大変お世話になった有縁の方が
亡くなって逝かれます。
私とそんなに年齢も変わらない方々で
いよいよわが身のこと待ったなしの問題になりました。
お念仏のみ教えに遇わせていただく有難さです。
大切なお方とお別れする悲しみのご縁を
そのままお念仏のご縁といただきます。
声に出してお念仏を申しましょう。
南無阿弥陀仏とお念仏申すところに
「ひとりじゃないよいつも阿弥陀さまがご一緒だよ」と
聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つにまかせて
そのまま阿弥陀さまのお浄土に
お参りさせていただけるのです。
お浄土には先に往かれた懐かしい方々が
待っておられます。
お念仏のご法義に死というのはありません。
人の命終えていきますが
死んだらお終いではなくて
そのままお浄土に往生し
仏に成らせていただけるのです。
お浄土といういのちの古里を
阿弥陀さまがこの私のために
用意してくださっていることを
常日頃から聞かせていただきましょう。
そしてお念仏申しましょう。
お念仏は阿弥陀さまがお浄土から私を喚んでくださる
「われにまかせよ必ず救う」のお喚び声です。
南無阿弥陀仏のお喚び声に乗じて
私が称えるお念仏の声がそのまま
隣の人にも聞こえます。
皆さんが南無阿弥陀仏とお念仏を喜び申す姿が
そのまま隣の人に伝わって
私も有縁の方々も同じお浄土に生まれさせていただける
お念仏のお救いのご法義です。
ご一緒に、お念仏申しましょう。
(2022.6.12、仏教壮年会例会)
嘘が真実になるこわさ(2013年アーカイブ)
2022-06-12
「ホームランは野球の華」といわれますが
一昨年プロ野球界で統一ボールを導入し
反発力の少ない飛ばないボールにしたことで
ホームラン数が激減し
昨年も同じようにホームラン数が少なかったのですが
今年は一転して昨年に比べて1.5倍以上に増加して
何かと話題になっていました。
野球観戦する側からいうと
ホームランは試合の劣勢を一挙に挽回できることで
野球の醍醐味といった面白さがあって楽しみですが
何で今年急にホームラン数が増えたのかについて
統一ボールを発注するプロ野球機構も
統一球をつくる会社も
「去年と全く変わっていない」と言っていましたし
野球解説者は「三年もすると新しいボールに慣れて
打撃技術が進歩したということでしょう」などと
言っていました。
その統一球が実は今年から
反発力のある飛ぶボールに変わっていたということで
今朝の新聞の一面に大きく載っていました。
えっと思いました。
やっぱりそうかとも思いました。
飛ばないボールを使うことでホームランが減り
飛ぶボールに変えたことで
ホームラン数が増えたということです。
わかりやすい、理解できることです。
ここで問題なのは
統一球を変えたことを
プロ野球機構が黙っていたということで
発注会社にも口封じしていたといいます。
開幕から二カ月も過ぎて
実際にそのボールを使い生活をかけて野球をしている
選手会からの説明に応える形で
明らかになったということです。
「混乱しないように公表しなかった」といいますが
悪いことをしているわけではないのですし
いずれわかる真実を何で隠す必要があったのかと
疑問に思います。
それも当事者の選手も球団も知らなかったというから
何とも滑稽です。
こんな嘘が真実としてまかり通ることの恐さを思います。
誰かが真実を知っていながら隠ぺいし
隠ぺいすることでまた嘘をつくという
嘘の上塗りで、真実そのものが分からなくなり
嘘が真実になってしまうという恐さです。
そうした嘘に振り回されるのが私たちです。
こんなことの繰り返しを
これまで何度見てきたことでしょうか。
「心配するな。大丈夫だ」と
ありもしない事実を自分に都合のいいように
言い並べていくことで
本当のことが誰も見えなくなってしまうのです。
東日本大震災の福島第一原発事故がそうでした。
今はアベノミクスです。
株価は急騰し今は乱降下を繰り返しています。
一般庶民に好景気の実感はなく
一日で何兆円というお金が動き
株で儲かった損をしたという声を聞きます。
まさに嘘で固めたような世相すら思います。
何が真実かを知らないままに
大きな落とし穴に堕ちていくのでしょうか。
私は御免こうむります
あなただけどうぞという話ではありません。
社会の大きな仕組みのなかにしか
生きていけない私たちなのです。
本当のことを互いに知ることで課題を共有し
共に生きる私たちの社会になるのではないでしょうか。
私たちの阿弥陀さまの本願念仏のご法義は
私たちに真実なるものをありのままに知らせて
そのまま救うとおはたらきです。
どこまでも自分中心にしか生きていけない
虚仮不実の凡夫の身の事実を知らせて
救われがたい煩悩具足の身だからこそ
この私を目当てに
「われにまかせよ必ず救う」と
南無阿弥陀仏のお喚び声となってはたらき続ける
智慧と慈悲の阿弥陀仏のお救いのご法義なのです。
人間界に生まれ共にこの社会に生きる
私たちお互いだからこそ真実を知り
私たち一人一人が「本当に人間に生まれてよかった。
あなたにあえてよかった」と
南無阿弥陀仏とお念仏申す人生を
歩ませていただきたいものです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2013.6.12)
仏さまのものの見方を聞かせていただきましょう(2011年アーカイブ)
2022-06-11
昨日は時間があって
久しぶりに別府の公共温泉に夫婦で行きました。
入浴券を買って受付で
ロッカーのキーをもらいました。
ピンクと白のキーでした。
私が白の方を取ろうとしたら
受付の方が「男の方はピンクです」と言われました。
「えっ」と思っいました。
というのはピンクといったら女性だと
勝手に思い込んでいたのです。
色分けです。
小さい頃から物事を色分けして見る見方が
どこかに身についているのですね。
私の思いはからい先入観です。
私たちはこの目でものを見ていますが
この目で見る私のものの見方に問題ありというのが
仏さまの教えです。
どこまでも私が私がと
自分を中心にしたものの見方です。
私たちは日常些細なことも
自己中心の見方で物事を見ては
善し悪しを判断していませんか。
自分に都合の好い人は善い人で
都合の悪い人は悪い人といったものの見方です。
人と人とが織りなす私たちの社会人間関係で
人と人とが真正面から向き合って物事に対処し
より良い関係にもって行くことが理想ですが
これが実に難しいということです。
何が邪魔をしているのかというと
自分は正しくて周りの人が間違っているという偏見
自分を中心としたものの見方にあると
仏さまは教えます。
仏さまのみ教えに
私たちはすべて等しく阿弥陀仏のお慈悲の中に
生かされて生きているもの同士と聞かせていただきます。
ところが人と人との関係で
あいつが一緒じゃ嫌だとか
逆にあの人が一緒だったら良いとかってことが
ありませんか。
お互い自己中心に生きるもの同士が
ああやこうやと朝から晩まで右往左往して
ぶつかり合ったり仲良くなったりしているのです。
どんな人もみんな等しくそのまま救うと
阿弥陀さまの本願念仏のみ教えです。
仏さまのものの見方を聞かせていただいて
阿弥陀さまのお慈悲の中に
共々に生かされて生きてまいりましょう。
今日は東日本大震災が起こって
3カ月ということです。
1万5千人の方がお亡くなりになり
8千人の方が未だに行方不明で
今も毎日捜してらっしゃるといいます。
そして9万人という方々が避難所で
不自由な生活を強いられているということです。
数字のマジックを思います。
数字を見てたくさんの数だから大変だという見方は
注意しなければなりません。
そこに一人一人の人生があったということです。
避難所でも一人一人の生活があるということです。
私たちの日暮しは本当に思い通りにならない
ままならないものですが
阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に
共々に生かされて生きているもの同士
お互いに私にできることをさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2011.6.11)
阿弥陀さまの楽しみ
2022-06-10
今日10日の御文章さまは『易往無人章』です。
「浄土へは往き易くして人なし」と
お経さまに説かれてあります。
浄土真宗は南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
迷いの私が阿弥陀さまのお浄土に生まれて
さとりの仏に成らせていただく
往生浄土の真実のご法義です。
阿弥陀仏の本願を聞くままに
阿弥陀仏の真実信心をいただけば
どんな人も往生できるということで
往き易いお浄土なのですが
信心を得る人がまれで
お浄土には人がいないというのです。
この私のことを言われているのです。
煩悩に振り回されて苦悩し迷う私に
仏法を聞いてお念仏申す身になって
わが浄土に生まれて来いよとの
阿弥陀さまのお勧めです。
お浄土には人がいないといって
阿弥陀仏が今現在もお説法をされており
先に往かれた仏さま方が仏德讃嘆のお念仏を申していると
聞かせていただきます。
私たちの日常生活で
誰もいない何も知らない分からない所に行くのは
不安ばかりで何の楽しみもありません。
私たちの日々の楽しみは
いろんなご縁で人に会うことではないでしょうか。
あなたに会える楽しみがあって
生きていけるといってもいいのではありませんか。
このお朝事もそうです。
お同行のいつもの皆さんに会える楽しみですが
何といってもご本尊の阿弥陀さまに会える楽しみです。
お浄土を極楽というのは
極めて楽しい世界ということでしょう。
先に往かれた懐かしい方々に会える楽しみ
俱会一処の世界です。
阿弥陀さまの楽しみです。
阿弥陀さまはお立ち姿になって
南無阿弥陀仏と私たちを喚んでくださり
この私が座る席まですでに用意されて
待ってくださっているのです。
昼も夜も四六時中ずっとずっと以前から
私がこの世に生まれる前から待っているというのです。
待ちくたびれて横になることも休むこともなく
「あなたを待っているよ。私に会いに来ておくれ」と
お浄土から喚んでくださるご縁に遇って
今日のお朝事のおつとめです。
お念仏のご縁であなたと私が会う楽しみです。
私のことをいつも思うてくださり
私が往き生まれるお浄土を用意され迎えてくださる
阿弥陀さまのお寺で共々にお念仏申して
今日一日を始めさせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.10)