お浄土の仏に成るいのちを今生きる(2010年アーカイブ)
2022-06-26
昨日は私と同級生の3回忌のご法事を
お勤めさせていただきました。
今は人生80年といわれます。
私の周囲で見ても
最近は90歳代でお亡くなりになる
ご門徒の方が多くなりました。
新聞のコラムに
今は医学が格段に進歩し人々が健康に留意し
運動したり食べ物も良くなったこともあって
長生きするようになったとありました。
ただ長生きはできても
ずっと長生きできるものではありません。
せいぜい生きて120歳といいます。
還暦の2倍ですから
生まれ変わり生まれ変わりということでしょうか。
私たちはいつかは必ずこの命終えるということですが
この私が命を終えるということを
忘れているのではないかという指摘です。
人の命を終えていくということですが
死んだら終わり、駄目ということではないと
仏さまのみ教えに聞かせていただきます。
阿弥陀仏の本願力回向、南無阿弥陀仏のおはたらきは
この私を浄土へ迎えとる必ず生まれさすといわれます。
何でお浄土に生まれさせるのでしょうか。
いろんな思い通りにならないことが多いけれども
やっぱりこの世が良いというのが私たちの思いですが
いつまでもこの世にいるわけにはいきません。
迷いの世界にあって苦悩する私たちを
阿弥陀仏は煩悩具足の凡夫と見抜かれて
この私をお浄土に生まれさせて
さとりの仏にするというのです。
阿弥陀仏は十方衆生を救おうと
お浄土をつくってくださいました。
先に往かれた方はお浄土に生まれて
今は仏に成っていらっしゃると聞かせていただきますが
遥か遠い世界に往ってらっしゃるのではなく
すぐさまこの世に還って来るといいます。
南無阿弥陀仏のおはたらきで
還って来るというのです。
今日も皆さんこの口から南無阿弥陀仏と
お念仏を申せましたね。
南無阿弥陀仏の阿弥陀さまのおはたらきです。
親鸞さまのおはたらきです。
蓮如さまのおはたらきです。
そして皆さんのご先祖有縁の仏さま方です。
阿弥陀さまをはじめ無量の仏さま方が
私のことをいつも思うてくださり
護り導いてくださってあるおはたらきのなかに
この私が生かされて生きているのです。
この私もいずれは人の命終えて往きます。
阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただきます。
さとりの仏にさせていただけると
聞かせていただくなかに
120歳まで生きられるかどうかわかりませんが
この人の命終える時まで
「いつも私が一緒だよ。大丈夫安心しなさい」と
南無阿弥陀仏と噛んでくださるお念仏の声に安心して
今日一日もお念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.6.26)
ワープロが壊れました(2009年アーカイブ)
2022-06-26
昨日は大変な日になりました。
ずっと使ってきたワープロが壊れてしまったのです。
昨日総代お世話人にお配りしました<円光寺通信>が
最後のワープロの仕事になりました。
数件修理の問い合わせをしましたが
今はワープロの販売はしておらず
交換部品もないということです。
今はパソコンの時代です。
パソコンも持ってはいますが
中々パソコンに移り切れなかったということです。
壊れたパソコンを前に
これからどうしたものかということですが
「いのちあるものいつかは衰えるならいなり」です。
諸行無常の仏法の理で
この世のものはすべて常なるものは
一つもないということです。
常日頃から聞かせていただき
お取り次ぎさせていただいていることですが
本当に何とも悲しく残念で
それこそ大切な人を亡くしたような落ち込みようでした。
とはいえ時間はどんどん経って行きます。
今までワープロでしていた仕事を
他のことでしなければならないことになりました。
次への大きな転機チャンスです。
私たちはこの身に何か大きな変化がないと
次のステップに移れません。
まあまあ何とか今のままでいいよねということで
今のままでずっといければいいのでしょうが
いつまでも今のままではいけないのが
この世間のことこの私のことなのです。
ずっと今のままの私わが身ではありません。
昨日の私、今日の私、明日の私と
刻一刻と変わって行きます。
変わって行くなかに
どんどん元気で若返っていけばいいのですが
逆に老いていく病んでいくそして命終えていく
私のありのままの姿です。
そういう私をずっと見守ってくださる
仏さまがいらっしゃるということを
お念仏を申して聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009・6・26)
勝っても負けてもお慈悲の中(2010年アーカイブ)
2022-06-25
今朝早く起きてサッカーのワールドカップを
観た人が多いと思いますが
結果は日本がデンマークに3対1で勝って
見事決勝トーナメント進出が決まりました。
まさに日本中が気持ちの良い朝を
迎えたということです。
勝負の世界ですから勝った方がいれば
負けた方もいるということです。
負けた方のデンマークの方々は
どんな気持ちで今日一日を過ごすのかなと思ったりします。
先制点のフリーキックを決めた本田選手のコメントが
よかったです。
素直に喜べないというか
思っていたほど喜べないと言っていました。
まだまだ先があるということでしょうね。
有頂天にならないということでしょうね。
もう一つこんなことも言っていました。
「フリーキックが見事に決まりましたね」の問いかけに
「あれは決まるときには決まるんです」と。
そうですね。
決めようと思ってキックするのですが
必ずしも決めようと思ったことが思い通りになるかといって
思い通りにならないことの方が多いということです。
思い通りになったとして
たまたま思い通りになったということで
決まるときはそういうもんですよということです。
私たちの人生の歩みということについても
同じようなことがいえるのではないでしょうか。
まず思い通りにならないこの人生を
思い通りにしようとするところに
苦しみ悩みがあり迷いになるのですね。
ただ思い通りにしようとする志が
生きる力になるということです。
そうはいっても思い描いたようには
決して行かないなかにあって
今日のサッカーの試合でいったら
勝敗という結果がついてきます。
私たちはどうかするとその結果ばかりを
見ているところがありますが
大事なことはそこまでの経過ということで
勝っていく経過負けていく経過です。
結果として勝つことも負けることもありますが
その経過においてお互いに切磋琢磨してきた
まさに生きていくという
私たちの人生の歩みがあるということです。
今日は勝って日本中がそれこそ心うきうきで
一方負けたデンマークは心が沈む一日かもしれませんが
次は逆の結果になることもあります。
勝っても負けても
思い通りに行くことがあれば
思い通りに行かないなかにも
今日の一日をお念仏申して生きて往ける
南無阿弥陀仏のお救いの法を
また聞かせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.6.25)
南無阿弥陀仏の遊びのお誘いです(2009年アーカイブ)
2022-06-25
毎週水曜日に<水曜学校>という
子ども会をしています。
昨日がその日でしたが
19人の小学生が集まりました。
みんな女の子ばかりです。
一ヶ月ほど前は11人で
瞬く間に増えました。
友だちを次々に誘ってということですが
誰が誰かわからないくらいです。
学校から帰って子どもたちは
どんな時間を過ごすのか。
スポーツ少年団のクラブ活動だったり塾に行ったり
帰っても家に誰もいないのでそのまま
学校の育成クラブにいる子もいます。
いろんな時間の過ごし方がありますが
子どもにとって友だちと一緒に遊ぶという楽しみです。
私の小学生の頃を思い出すと
「ただいま」と家に帰ってランドセルを置いて
すぐ「行ってきます」と遊びに行ったものです。
どこに行ったか家の者はわからないままに
夕食の時間には帰って来ました。
帰る家があるということで
子どもは自由にのびのびと遊べることを
今になって有難く思います。
子どもが無心に遊ぶように
仏さまは何にもとらわれないで自由自在にこの私を
救うてくださるといいます。
南無阿弥陀仏の仏さまは
すべてのものを分け隔てなく救うとおはたらきです。
一方私たちは自分の思いはからいにとらわれて
自己中心に生きては苦しみ悩みの中に
右往左往して迷う日暮しをしているのです。
そういう私たちに
「お念仏申していっしょに往こうね」と
阿弥陀さまは喚んでくださっているのです。
阿弥陀さまの遊びのお誘いです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申して
共々に楽しく遊ばせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009・6・25)
「お念仏申して来いよ」のお喚び声です
2022-06-24
昨日は35.4度の猛暑日になりました。
6月でえっと思いますが
真夏の中の暑さではなく
朝は風が入ってきて涼しいです。
今日の御和讃です。
「南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には 還相回向に回入せり」
(南無阿弥陀仏の名号を回向していただいた恩徳は
あまりにも広大で思いはかることができない。
その回向により
浄土に往生してさとりを開くことの利益として
迷いの世界に還ってすべてのものを救うのである)と
浄土真宗のみ教えの真髄を聞かせていただきます。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
どんな人も救われるという仏教です。
「必ず救うまかせよ」の阿弥陀仏の本願力回向の
お救いの法です。
そのお救いはまず往相回向といいます。
この迷いの凡夫をそのまま往相回向のおはたらきで
阿弥陀さまのお浄土に往いて生まれさせ
さとりの仏にするというのです。
仏さまに成ったら極楽浄土といいますから
ゆっくりゆったりできるのかといったら違って
すぐさまこの迷いの世界に還って来るというのです。
還相回向のおはたらきです。
後に遺った人びとを救うという
仏さまのはたらきを始めるというのです。
えっ大変と思うかもしれませんが
ちっとも大変なことではありません。
往相も還相も私が私がという
自力のはたらきではないのです。
南無阿弥陀仏の回向です。
阿弥陀さまのおはたらき一つにまかせて
させていただくことですから自然なのです。
還相回向で還って来るといって
先に往かれた大切なお方が懐かしいお姿で還って来たら
ああ確かに本当にということですが
人の命は終えましたから
どこをさがしてもそのお姿を見ることはかないません。
お内陣の余間に骨壺をご安置しています。
先に往かれた大切なお方のお遺骨です。
私のこの目に見える姿として
お遺骨となってくださっています。
お遺骨が私をよんでいるという
お話を聞きます。
私のことでいったら「晃照くん、どうしてる?」って
呼んでくださるお遺骨の声です。
そしてちょっと間をおいて
「お念仏申してくれよ」とお念仏を勧めてくださるのです。
「晃照くん、どうしてる?」って言われて
しばらく自問自答します。
「お念仏申してくれよ」と
お念仏を申して来いよ
お浄土に生まれて来いよと
南無阿弥陀仏の回向のおはたらきです。
この目には懐かしいそのお姿は見えませんが
お念仏の声となって還って来てくださっているのです。
千の風になって星になってという歌がありましたが
お浄土からのおはたらきです。
お念仏のお喚び声です。
「お念仏申して来いよ」と
今日のお朝事のご縁に聞かせていただきます。
一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.24)