子どもにも遇ってほしい仏事のご縁です
2022-07-22
昨日はお葬式のご縁で
火葬の後お遺骨をもたれてご遺族がお寺にお参りされ
ご本尊の阿弥陀さまにお礼をさせていただく
お遺骨となって還るという還骨の
お礼参のお勤めをさせていただきました。
喪主の家族縁者でそんなに多い人数ではありませんが
賑やかなお勤めになりました。
喪主のお父さんのご縁で
喪主の子や孫の四代のご縁です。
小さな子どもが3人お参りでした。
初めてのお寺参りです。
広い本堂に入ると「ここどこ?ここどこ?」と言って
さっそく走り回ります。
普通のお家ではありません。
広い広い本堂の正面にはキラキラ光っている
仏さまがいらっしゃいます。
何とも不思議な世界なのでしょう。
未体験ゾーンに来て
子どものボルテージは一気に上がります。
悲しみのご縁ですが
何か微笑ましくいいなって思いました。
最近は葬儀や法事の仏事に子どもの姿を見ることが
本当に少なくなりました。
小さな子どもがはしゃぎまわると
周りに迷惑だとの配慮でしょうが
逆に子どもの頃に仏事のご縁に遇うことは
本当に大事なことだと思うのです。
私が子どもの頃も同年輩の親戚のいとこ同士が集まると
さっそく無邪気に暴れまわったものです。
そうした子どもの姿が
悲しみのご縁を和ませることにもなり
私たちのいのちのつながりが
送り送られてきたことを思います。
今年もコロナ禍ということもあって
子ども会のサマースクールができません。
子どもたちの仏さまのご縁です。
夏休みのひと時をお寺で友だちみんなと一緒に過ごす
貴重な体験です。
個室もベットもテレビも何もない
ないない尽くしのお寺の本堂で食事を共にし一泊します。
キラキラ光るお内陣の仏さまの前に正座して
一緒にお勤めをし大きな声で「ナマンダブナマンダブ
ナマンダブ」をお念仏申したことを
後から振り返って
ただ楽しかった面白かった思い出だけではなく
その人人の人生の中でキラッと光るものであったらと
昨日のご縁にお参りした子どもさんに重ねて思います。
これから七日七日のご縁が始まりますが
子どもたちにも仏事のご縁に遇ってほしいと思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.22)
「うそも方便」?
2022-07-21
毎朝新聞のコラム欄を楽しみに読んでいます。
今朝の大分合同新聞『東西南北』欄は
「うそも方便」という言葉で始まりました。
その全文です。
「うそも方便」という。
うそは良くないが、良い結果を得るためには
時にはうそをついた方が良いこともあるということ。
方便は、仏教では衆生を救って真の道へ導くために
仮に取る便宜的な手段をいうそうだ。
後でうそが分かっても、そういう事情があったのかと
理解を得られることだろう。
▼「うそつきは泥棒の始まり」という。
悪いと思わないで平気でうそをつくような人は
平気で盗みを働くようになるということ。
悪事の感覚がまひしてしまう。
立場のある人がそんなふうだと大変だ。
発言にうそがあったことを認めなければ
うそにうそを重ねる。
プライベートではいい人でも
ほかでいい仕事をしても
うそやずるい振る舞いは信頼を失い残念。
▼英国では」、首相が辞任に追い込まれた。
新型コロナウイルスの感染拡大に伴う行動規制中の
首相官邸でのパーティー問題では虚偽答弁を疑われ
与党議員の性的スキャンダルで任命責任逃れがばれて
謝罪した。
ついには閣僚らが首相への信頼を失ったと抗議の辞任
政権運営が立ちゆかなくなった
▼組織の大小や新旧にかかわらず
そこに信頼がなくてはうまく回りはしないに違いない。
100%完璧な人間になるのは難しいが
うそをつかず、ずるをしないことは
心がけさえすれば誰にでもできる。
「他山の石をもって玉をおさむべし」だ。
以上(文面編集責任筆者)です。
コラム全編で言わんとすることはわかるのですが
「うそ」と「方便」は違います。
「うそも方便」と言うのは私たち人間のものの見方で
人間の都合の良いように言われるのが「うそも方便」です。
方便について仏教云々の解説がありましたが
誤解をまねく言い方です。
方便は巧みな方法を用いて衆生を真実の法に導くための
仮の手立てとしての仏の教えおはたらきです。
今朝の御和讃に「方便」の言葉を2度
「弥陀釈迦方便して」
(阿弥陀仏と釈尊は
すべてのものを導く巧みな手だてを施して)
「釈迦韋提方便して 浄土の機縁熟すれば」
(釈尊と韋提希が
すべてのものを導く巧みな手だてを施したことによって
浄土の教えを説き明かす機縁が熟し)
といただきました。
『観無量寿経』のお心を讃える御和讃です。
お経には「王舎城の悲劇」という大事件が説かれています。
お釈迦さまの在世にマガダ国の王舎城を舞台に
アジャセ王子が父のビンバシャラ王を幽閉し王位を奪い
母の韋提希も幽閉します。
韋提希はお釈迦さまに
「何で子からこんな苦しみを受けないといけないのか」と
苦悩なき世界を求めて教えを請います。
親鸞聖人は「釈迦韋提をして
安養をえらばしめたまえり」と
阿弥陀仏の安楽浄土を韋提希に選ばせたといただき
弥陀釈迦韋提希の方便によって
私たちは往生浄土の救いの法に遇うことができたと
いただかれたのです。
方便といって嘘ではありません。
真実に導く手だてです。
親鸞さまは韋提希もビンバシャラ王もアジャセも
「権化の仁」と示され
仏菩薩が衆生を救うためにさまざまな形を変えて
仮にこの世に現れたといただかれます。
方便は仏菩薩がこの私を真実に導く手だてであり
私たち人間の手だてではないのです。
私たちのご本尊の阿弥陀仏のお姿も
方便法身といいます。
うその仏さまではありません。
私たちを真実に導いてくださる真実方便の仏さまです。
真実といっても分からない私たちにも分かるように
この目に見えるお姿で形を現してくださったのです。
阿弥陀さまは何で立ってらっしゃるのかな
何で右手は上げて左手は下げてらっしゃるのかなと
阿弥陀さまのお心おはたらきを
目で見るなかに真実のみ教えを
聞かせていただくのです。
「嘘も方便」といいますが
嘘は嘘であり仏教の十悪の一つ「妄語」です。
嘘をつくものは閻魔様の裁判で
地獄に堕ちて塗炭の苦しみに遭うといいます。
さてこのコラム自体も人間が書いたもので
私たち人間の一般的なものの見方です。
嘘は悪いが善い嘘もあると読めますが
善いも悪いも私の都合思いはからいです。
自分の都合で善い悪いを判断して生きることは
どこまでも虚仮不実な生き方であって
そこに私たちの苦しみ悩み迷いの原因があると
仏教の真実の教えを聞いてくれよというのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.21)
お寺参りはお浄土参り
2022-07-20
昨夕フィギアスケートの羽生結弦選手が
今後競技会に出場しないでプロに転向するという
記者会見があって
今朝の新聞第一面のトップニュースです。
ロシアのソチそして韓国の平昌オリンピックで
連続金メダルを獲得するなど
競技の実績と人気は周知の通りのスーパースターです。
2011年の東日本大震災で
練習の拠点だった仙台のリングが被災し
復興への強い思いをスケート競技にかけてきました。
中国の北京オリンピックでは4位に終ったものの
日本ばかりでなくロシア韓国中国そして全世界に
のびやかで華麗な演技と共に
羽生結弦の名を知らしめ熱烈なファンは今も多くいます。
一人の人間によってたくさんの人が
勇気づけられるということです。
まさにその人人のヒーローですが
皆さんもそうした人生のヒーローに出会い
元気をいただいてきたのではないでしょうか。
世界的なヒーローではありませんが
私たち一人一人もお互いに
寄り添い支え合って生きてきたのではないでしょうか。
どんな人も自分独りで生きているのではありません。
地位や名誉財産権力を兼ね備えた人も
自分の思いはからい一つで何もかもできていると思ったら
それは思い上がりであり
いろんな人やものの命に支えられ生かされて
生きているということが本当のことです。
私たち一人一人の思いはからいを超えて
今日もこの御仏前にこの身を置かせていただいています。
この身をはこんできたのは私たちですが
この御仏前に座ってみたら
ここに座らせてもらった
お念仏を申す身にさせていただいたということです。
人人それぞれに人生があり
この命いつどんな形で終わるかわかりませんが
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きて往く処がある有難さです。
阿弥陀さまが私のために用意をしてくれたお浄土です。
お寺参りはお浄土参りというお話です。
お浄土参りの人生の中に
日々の生活がさせていただけるのです。
どうぞ今日の一日もお念仏を申すなかに
共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.18)
ひっくり返る!
2022-07-19
朝から強い雨になりました。
先ほど全国のテレビ放送で
大分に線状降水帯がかかり
大雨警報が出されたようです。
雨の中をようこそのお参りです。
バケツの水をひっくり返したような大雨
という表現がありますが
お念仏のお救いのご法義は
ひっくり返るご法義です。
浄土真宗は阿弥陀仏の本願を信じ
念仏申さば浄土に生まれて仏に成る仏教です。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われる
本願力回向の他力のご法義です。
「まかせよ救う」阿弥陀仏のおはたらきに
信じまかすところの救いですが
私たちは自分の思いはからいをもって
本願を信じるか疑うかと
仏さまのおはたらきを対象化して見てしまいます。
子どもの頃お風呂で洗面器を逆さにして
上から抑えて湯の中に沈め大きな泡を出して遊びました。
お風呂の湯を仏さまのおはたらき本願の海に譬えます。
洗面器は私で逆さの洗面器の空洞は私の心です。
私の心に仏さまのはたらきが
一杯になるようにしたい(信じたい)と思って
逆さにした洗面器を真っ直ぐに湯の中に押し込みますが
いつまでたっても洗面器の中(私の心)は空っぽのままです。
どうすれば洗面器の中に
温かい湯が入ることになるのでしょうか?
上から押している手を離せば
湯の方から洗面器をひっくり返して洗面器の中になだれ込み
私の心は本願の湯でいっぱいにされるのです。
阿弥陀仏のおはたらきは
そのまま私全体を包もうとするはたらきなのに
私の思いはからいで本願を対象化して見る限り
私そのものがひっくり返ることにならず
いつまでも私の思いはからいを
たよっていることにしかならないのです。
それは本願を疑っていることに
他なりません。
私が私がという自力の思いはからいを離せばいいのです。
これが難しい。
どこまでも自分の力を当て頼りにするのが私なのです。
阿弥陀仏の本願の他力のおはたらきが
私をひっくり返して
そのまま私の心に他力の湯が入るのです。
阿弥陀仏の「必ずたすける」というおはたらきに
そのまままかせて
私が力を抜けばそのままひっくり返るのです。
本願のおはたらきがひっくり返すのです。
ひっくり返される私が
そのまま阿弥陀仏のお慈悲の中なのです。
自分の都合に合わせてこの目で見えるような救いを
宗教の救いだと思っていたら
実はこの目が問題なのです。
欲の心怒りの心愚痴の心で見るこの目の見方です。
どこまでも自己中心のこの私のあり様を
阿弥陀さまはそのままご覧になって
私の苦悩の原因をここにありと見通され
阿弥陀さまの方で私が救われるすべての手だてを
南無阿弥陀仏とつくってくださり
「我にまかせよ必ず救う」とおはたらきなのです。
南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
本願念仏のお救いのお心おはたらきを
聞かせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.19)
※上述「洗面器の湯」の譬えは
森田真円師著『ひらがな正信偈』(262~265頁)
によるものです。
今日は海の日
2022-07-18
今日は海の日の祝日です。
親鸞聖人はお正信偈さまのなかに
「海」の字を何度も使われて
阿弥陀仏の本願大悲のお心の広さと深さを
一方で迷いの世界で苦悩する私たち凡夫のあり様を
海に譬えられています。
親鸞さまのご生涯のなかで
海との出あいは
大変印象的なものだったと思われます。
9歳から29歳まで厳しい仏道修行に明け暮れた20年間
比叡山から眼下に見下ろす大きな海は琵琶湖でした。
35歳で国府新潟に遠流の刑で処せられた時見た海は
絶壁の岩石に打ち砕かれる荒れ狂う日本海でした。
40歳を過ぎて関東に赴かれて見た海は
常陸の国茨城の大海原の太平洋でした。
大らかな広い海ですが
四季折々にまた天候によって
その表情を目まぐるしく変えて行きます。
御和讃に
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
(苦しみに満ちた迷いの海は
どこまでも果てしなく続いている。
その海に長い間沈んでいるわたしたちを
阿弥陀仏の本願の船だけが
必ず乗せて浄土に渡してくださる)とあります。
深く辺りがない広い迷いの海に沈む私を
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のお喚び声に乗じて
お念仏の船に乗せていただき
共々にお浄土への旅をさせていただく有難さを
親鸞さまのご事績に偲ばせていただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.18)