本文へ移動

お念仏を申す生活法話

RSS(別ウィンドウで開きます) 

お坊さんはお経の配達人ではありません

2022-05-27
 昨日初めてのご縁の方から電話があって
坊守が対応しましたが
お葬式は他のお寺でしてもらって
今度一周忌を勤めるのに
お経をあげてほしいというのです。

 最近こうした電話が多くて
どういうご事情か一度お寺にお参りして
お話を聞かせてくださいと言うのですが
「えっ」という反応です。

 お寺のお坊さんはお経をあげるのが
仕事ではないのっていう感じです。

 お寺のお坊さんはお経の配達人ではありません。
何かお経の出前を頼むように電話一本で
「お経お願いします」と頼まれて
「はーい」と言ってお経をあげてくれれば
それでいいということなのでしょうか。

 お経は仏さまの教えであり
仏さまのご縁につながる私たちは
その時どきの関係ではなく
お寺を中心にお坊さんもご縁の皆さんも共々に
お念仏の仏法に遇わせていただくのです。

 お経があがらないと先祖が迷って出るとか
祟りをもたらすと皆が言ってるとかいいますが
自分が勝手に思っていることで
仏さまからいうと迷っているのは私たちで
迷いの中に悩み苦しんでいると教えます。

 そんな難しいことを言わないで
お経をあげてもらえばいいことで
ちゃんと御布施も包むからと言われそうですが
私の了見思いはからいで
仏法を自分の都合のいいように聞いたら
それは仏法ではありません。

 仏法僧の三宝を敬うことの大事です。
仏さまのご縁につながって私たちのつとめがあるのです。
 お念仏のみ教えを中心に
お坊さんのつとめご門徒皆さんのつとめがあって
浄土真宗の仏法聴聞のお寺があるのです。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
お寺のご縁をいただく私たちは
日々安心して生かされて往けるのです。

 お念仏のご縁に遇わせていただく有難さです。
一人でも多くの人にお念仏のみ教えを伝えたいと思いつつ
私たちお寺のお坊さんの責任と力不足を重ねて思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.27)


「何か寂しくなりました」

2022-05-26
 先日仏教壮年会の皆さんにお手伝いいただいて
古くなった伝道掲示板を撤去させていただきました。

 平成20年から15年間ずっと掲示伝道ということで
毎月<仏さまのことば>を書いて
地域の皆さんにお届けしたことです。

 掲示板を設置いただいていたお家のご門徒さんから
「何か寂しくなりました」と電話をいただきました。

 そうですよね
今まであった掲示板が無くなったわけですから
いつものお家周りの風景が変わるという寂しさであり
そのお家の人だけではなく
掲示板の前を通り行く人の思いであったりです。

 ふと掲示板のことばを見る人もあったり
気をつけて毎月変わる<ことば>を見る人もあったりと
日々の生活のなかで何か少しでも感じ取ってくれることが
あったらと思います。

 何か寂しくなったなと
当たり前のように生きている日暮らしが
実は有難いことだ思えることの心の豊かさです。

 仏法は私たちに今を生きることの
有難さを教えてくださっています。
 今を生きるって言われなくても
今生きているじゃないかと言われますが
今を本当に生きることの難しさです。

 過去を悔やみ未来を案じて憂うなかに
私たちは今苦しみ悩み迷っていると
阿弥陀さまは見抜かれて
「われにまかせよ、そのまま救う」と
南無阿弥陀仏のおはたらきで
私に寄り添いご一緒してくださっているのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏申しておくれと
いつでもどこでも迷うあなたをそのまま救うと
おはたらきの南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただき
多くの方にお伝えしていきたいとまた思うことです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.26)


私のお手次ぎのお寺

2022-05-25
 電話があって初めてのご縁の方が
お寺に訪ねてみえました。

 用件を聞きますと
最近お父さんが亡くなってお葬式をしたが
お遺骨を納骨しようと思っていたお墓を管理する
お寺さんから納骨を断られて
納骨堂を探しているとのことでした。

 お葬式をされたお寺さんに相談すればと言いましたが
今はネット社会でお葬式だけお勤めするお坊さんがいて
後の四十九日の中陰や一周忌に始まる年回の法要は
お勤めしませんということです。
 
 お葬式の時だけのご縁ということで
これはある意味双方共に好都合のことのようです。

 お葬式のお勤めはしてほしいけれども
お寺の門徒や檀家になることについて
一般的に何か警戒感があるように思います。

 お寺との関係でいうと
務め事が多くあって寄付が回ってくるとか
すぐ当面のお金の問題になるということでしょうか
平素はお寺の存在は嫌われているようです。

 浄土真宗のお寺はお手次ぎのお寺といいます。
仏さまのみ教え南無阿弥陀仏のご法義を取り次ぐのが
浄土真宗のお寺のお役目なのです。
 お寺は仏法聴聞お念仏の道場といわれ
南無阿弥陀仏のみ教えを聞かせていただきます。

 お寺参りはお浄土参りということです。
浄土真宗のお寺は阿弥陀さまのお浄土を表します。
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
この人生をお念仏申して生き抜き
人の命終えてそのまま阿弥陀さまのお浄土に往生して
仏さまと成り後に遺った人たちを護り救うという
おはたらきを始めると聞かせていただきます。

 死んでから後で聞くのではありません。
今こここの私が聞かせていただくお念仏のご法義です。

 阿弥陀さまがこの私を迎え取ると用意してくださっている
お浄土のご縁をお取り次ぎいただくのです。

 大切な方とお別れする悲しみのご縁ですが
そのまま仏さまのご縁といただき
仏法聴聞させていただくのです。

 これからも大切な人と
お別れして行かねばなりません。
 そしてこの私も命終わる時が来ます。
その時に慌てることなく
安心して悲しみのご縁をそのまま受け入れていけるのです。

 日頃から仏法聴聞のご縁を取り次いでいただく
お手次ぎのお寺があることの安心です。

 一人でも多くの方に仏さまのご縁に遇ってほしいと
お寺を預かる住職の思いいっぱいですが
お寺を取り巻く状況はますます厳しく
これからも変わって行きます。

 わずかな時間でしたが
本堂に上がっていただいてお話をする中に
「こういうところに来るのは初めてです」と
しばらく阿弥陀さまのお内陣の様子を見ていました。

 何か少しでも感じてもらえれば
よかったと思います。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.25)


一切の聖教は南無阿弥陀仏の六字のお心

2022-05-24
 今日24日の御文章さまは「一切聖教章」です。

 お聖教といいます。
元はお釈迦さまが説かれたお経さまです。

 お釈迦さまが説かれたといって
自ら筆をとって文字にしたものではありません。
 お釈迦さまが入滅された後
すぐ傍でお釈迦さまのお説法を聞かれた
お弟子さんたちが集まって
「私はこう聞いた」「私はこう聞いた」と
お釈迦さまのお説法を文字にしたものが
お経さまの始まりです。

 この経典はインドの国の言葉で書かれたもので
中国から三蔵法師というお坊さんたちがインドに渡り
経典を中国に持ち帰って中国の言葉漢語に訳されたのが
今私たちが目にしているお経さまです。

 私たちの浄土真宗の所依の経典は
「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」の
浄土三部経です。

 インド中国日本にお出ましになった七高僧さまが
浄土三部経のお心を註釈して伝えてくださって
親鸞さまはお正信偈さまにしたためてくださいました。

 浄土真宗門徒が日々拝読するお正信偈さまですが
漢字で書かれてあり
そのままお心をいただくのは難しいものを
蓮如さまが仮名交じりの口語体のお手紙にして
私たちにくださったのが御文章さまなのです。

 難しい専門用語もありますが
すっと耳に入ってきます。

 そこで今日の御文章さま「一切聖教章」です。

 お聖教は数限りないほどたくさんありますが
浄土真宗阿弥陀さまの本願念仏のお救いの法は
南無阿弥陀仏の六字におさまるというのです。

 お聖教を学問として勉強しないと知識を習得しないと
救われないということではありません。
 お勉強してお経のお心をたずねることの大事ですが
そのお心は南無阿弥陀仏一つということ
阿弥陀さまの本願念仏のお心を聞いてくれよと
私たちに仏法聴聞をすすめられるのです。

 このお朝事のご縁も仏法聴聞のご縁です。
一昨日は宗祖降誕会の法要で
コロナ禍で3年お休みしていますが
バザーをしたりして広く地域の方にも開かれた催しです。

 バザーでお寺参りのご縁をいただいて
お寺の御仏前に座らせていただいて
お聖教を拝読させていただいて
南無阿弥陀仏のお心を聞かせていただくのです。

 何か繰り返しのようなお寺の法要行事の営みですが
私たちの先人の口から南無阿弥陀仏の声となって
私の耳から聞こえて入り
私の口から南無阿弥陀仏が出てくださるのです。

 本当にすごいお念仏のご法議
南無阿弥陀仏のおはたらきと有難くいただきます。

 南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と声に出してお念仏申して
今日の一日を始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.24)


私の遺影は誰が決める?

2022-05-23
 ご法事のご縁にお参りをして
お茶をいただきながら
仏間に掛けられた写真の話になりました。

 亡くなった方のご遺影です。
「遺影の写真は何歳頃の写真がいいのですか」と
尋ねられました。

 皆さんは自分の遺影にしたいと思っている
気に入った写真がありますか。

 そこに同席された方は
母から遺影にこの写真を使ってほしいと
言われているということでした。
 本人が遺影を決めてくれていたら
後に遺った方もいいですね。

 ただ写真を撮った時分から大分歳をとっているので
今の様子からして雰囲気がちょっと違うといわれます。

 今は写真がたくさんあり過ぎて
何をどう選んでいいのか分からないということです。

 遺影は後に遺った人が故人を偲ぶ縁ですから
何歳の頃といっても
80歳で亡くなった方を40代50代の頃の写真で
偲ぶといってもどうでしょうか。

 80歳でしたら6070歳ぐらいの
元気な時の写真がいいのではと思いますが
大事なことは皆さんが写真を見ることで
先に往かれた方の人生を訪ねて
自分自身の思い出に重ねることです。

 お葬儀のご縁ですから時間がありません。
だったら平素からと思いますが
改めて昔の写真を取り出して見ることはしないものです。

 お葬儀のご縁だからこそと
時間が許すなかで懐かしい写真を見ながら
いろんな思い出話をして
ご遺影を決めたらいいのではないでしょうか。

 たくさんある写真のなかで
ご遺影は一枚です。
 その方が偲ばれる
懐かしいおすがたです。

 自分で遺影を決める手がかりとなる提案です。

 年に一度決めてお正月などに
遺影用の写真を撮るのはどうでしょうか。
 毎年撮ることでより現実味のある写真に
変わって行きます。

 お正月のお寺参りで写真撮影はいかがでしょうか。
お寺にお参りするといったらまだまだお元気です。
 お寺参りがそのままお浄土参りということで
式章とお念珠を身につけて
御仏前で私の遺影の写真撮影です。

 南無阿弥陀仏の大きなご縁です。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.5.23)


円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
0
4
6
9
2
7
TOPへ戻る