朝からお念仏の声が聞こえる円光寺は生きとるぞ!
2022-07-10
おはようございます。
こうして仏教壮年会の月例会を
日を決め時間を決め場所を決めて
皆さんが今ここ円光寺の御仏前にご縁をいただくことを
あらためて有難いことだなと思います。
一昨日そして昨日と安倍元首相が銃撃され
亡くなられたニュース一色です。
41歳の容疑者です。
これから事件の背景が明らかになってくることですが
何故どうしてと思うことばかりです。
どういう生活をしていたのかなと思います。
この同じ社会時代を生きて
一方が殺人犯になり一方が被害者になるということです。
安倍さんと容疑者の接点が見えません。
政治家の暗殺はこれまでにもありましたが
政治的な思想信条が違うことを動機として
すぐ思い浮かべますが
今回の事件はどうなのでしょうか。
今の社会は閉塞社会閉ざされた社会と
いわれます。
人と人とのつながりが薄くなり切れてしまって
孤立して孤独な人が多いといいます。
アパートの一室で何時間も何日もかけて
銃撃するための拳銃を作っていたといいます。
ずっとその思いをもち続けて
安倍さんを殺そうと狙ったんですね。
傍から見ると自己中心の思い込みによる
異常な行動としか思えないのですが
この閉塞社会の病理を思います。
浄土真宗仏教はつながりの教えです。
すべてのものが縦横無尽につながっているという
縁起の教えです。
私一人で生きているのではなく
隣の人も隣の人も人間だけではなく
いろんな命に支えられ生かされてあると
聞かせていただきます。
それは私たちの目に見える命だけではなく
この目に見えない人もすべてのものの命も
そして先に往かれた命もこれから後に生まれてくる命も
すべてがつながってあるというのです。
そうしたつながりのなかに生きる私たちは
そのつながりが返って鬱陶しくて嫌だという
思いもありますが
自分の思いに良くも悪くも
そうしたいのちのつながりのなかに生きてきたし
今を生きているし
これからも生きていくということです。
仏教壮年会のご縁です。
お念仏のご縁をいただいた者同士が
今こここの御仏前にそろって
『讃仏偈(さんぶつげ)』のおつとめができました。
『讃仏偈』は
「光顔巍巍(こうげんぎぎ)威神無極(いじんむごく)
如是炎明(にょぜえんみょう)無与等者(むよとうしゃ)」
(光かがやく師の仏のお顔はこの上なく威力にあふれ
そのかがやきは世に等しいものがない)で始まります。
これは阿弥陀仏が法蔵菩薩だった時に
師仏の世自在王仏のお徳をほめ讃えた言葉です。
法蔵菩薩は何よりもまず光り輝くそのお顔を
ほめ讃えられたのです。
世自在王仏の清らかな心が
そのまま表情にあらわれていたのでしょう。
世自在王仏が深く喜んでお説法されているのが
法蔵菩薩に伝わったからであり
法蔵菩薩はそのお説法を聞いて深く喜び
私も世自在王仏のような仏に成りたいと思い
阿弥陀仏の本願が起こったのです。
私たちはどんな人も光り輝く命を
生きているのです。
この人生自分の思い通りに行けばいいのでしょうが
思い通りに行くこともあれば行かないこともある
善いも悪いもある人生を私たちは生きているのです。
日々の生活ぶりはそれぞれ違いますが
みんなそれぞれの命を
精いっぱい輝かせて生きているのです。
今日の皆さんもそうです。
それぞれが生きているのです。
頑張って生きているのです。
ただ頑張って頑張って頑張っても
空しいな辛いなと思うことってあります。
どんな人もどんな命も
どのような状況にあろうとも
阿弥陀仏はいつもこの私をご覧になって
南無阿弥陀仏のおはたらきで
ご一緒してくださっているのです。
「あなたの命そのまま救うからね。
そんなに頑張らなくてもいいよ」とご一緒です。
頑張らなくてもいいって
何もしなくていいよということではありません。
あなたの命そのまま引き受けたから
そのまままかせよ救うというのです。
善いことをしたから救うのではありません。
悪いことをしたから救わないのではありません。
阿弥陀さまのお救いに条件は何一つありません。
そのまま救うのです。
阿弥陀さまのお救いは摂取不捨のお救いで
「逃ぐるものを追はえとるなり」と
仏から逃げているこの私をこそ救うというのです。
背を向けて言うことを聞かない私が悲しいのです
そして愛おしいのです。
だから救うのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりは
四方八方に人だけでなくすべての命に寄り添って
つながってくださってあるのです。
私が拒否してもつながっています。
これからもつながって行くのです。
今のこの社会です。
コロナ禍です。
猛暑の異常気象です。
自然災害も起こるでしょう。
思い通りにならないことが
たくさんたくさんあるでしょう。
自分にとって思い通りになることは善いことで
思い通りにならなかったら悪いことと
自己中心の見方で思い込む私ですが
この阿弥陀仏さまは善いも悪いもを超えて
この私の命そのままを引き受けてくださるのです。
南無阿弥陀仏のおはたらきに生かされて
色んなことがある人生だけれども
この人生振り返ってみたらよかったなと
私の思いはからいを超えて言える人生を
お念仏申して生き抜かせていただきます。
人間に生まれて仏法に遇えて
南無阿弥陀仏とお念仏を申す身にさせていただき
この人生を生きて本当によかったと思うことです。
今日も境内の草取り清掃作業をしていただき
ありがとうございました。
お寺がきれいになって
円光寺に一人でも多くの方がこの御仏前にお参りされて
お念仏を申すご縁をいただけるということです。
「お念仏の声が聞こえる円光寺は生きとるぞ!」と
今日一日も始めさせていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。
(2022.7.10/仏教壮年会7月例会)
歌声喫茶的なお寺にようこそ!(2009年アーカイブ)
2022-07-10
今、60代70代の女性を中心に
歌声喫茶が静かなブームだといいます。
私が学生の頃も歌声喫茶がありました。
今でいうカラオケのようなものですが
オルガンやアコ-ディオンの伴奏で
独りで歌うのではなくみんなが一緒に歌います。
小さなお店に熟年の方々が集まり
コーラスのように整列して合唱するのではなく
それぞれの席で思い思いに声を出して歌うのです。
同じ場所にみんなが集まることの楽しさがあり
声を出すことが元気の源と言っていました。
この話題を聞いて
お寺もまた歌声喫茶的なところだと思います。
今日もお朝事のご縁に皆さんが集まりました。
独りではありません。
そしてご一緒に声を出して
お勤めができました。
大きな声を出してお勤めするなかに
今日も一日生きて往こうと元気をもらいます。
それも一人じゃなくて二人三人四人と
お念仏の仲間がご一緒です。
皆さんそれぞれ生活ぶりは違います。
今日も一日いろんなことがあるでしょう。
楽しみなこともあれば
気がかりなこともあると思います。
いろんな問題を抱えて
苦しみ悩む私たちお互いですが
こうして御仏前でご一緒にお勤めをし
お念仏を申して
力強く今日一日を生きていく力をいただきます。
他力のご法義です。
「あなたの命そのまま引き受けた。
必ず救うまかせよ」の
阿弥陀仏の仰せに信じまかせて
南無阿弥陀仏の大きないのちのおはたらきの中に
生かされてあることをまた有難く思います。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.7.11)
会館は私のお念仏の隠れ家です(2009年アーカイブ)
2022-07-09
門徒会館の建設中で日に日に姿が見えてきて
楽しみです。
会館をどのように活用するのか
夢も膨らんできます。
先日円光寺で大海組の会議があって
組内のお寺のご院家さんと会館の話になりました。
お寺の本堂と会館それぞれの役割の違いです。
本堂は大勢の人が集まって法要儀式を行う場所で
お寺の中核中心の建物です。
ただ大きな建物である故に
お参りしにくいところがあります。
本堂に入るまでに高い階段があって
足の不自由な方にはまさにバリア障害です。
また大きな空間に人数が少ないと
何か落ち着かなく心寂しく感じることもあります。
そして思うのは
本堂にお参りされた方に私たちお寺の者は
「ようこそお参りなさいました」と声をかけます。
「いらっしゃい」とお客さんを
自分の家にお迎えするということです。
お寺は阿弥陀さまのお家という発想でいうなら
家には「お帰りなさい」という言葉が似合います。
そのみんなの家に「ただいま」「お帰りなさい」と
気軽に声をかけ合い出入りできるのが会館だと思います。
高い階段があるわけではありません。
気楽に寄っていただけるこじんまりした空間に
20人か30人も入ればゆっくりいっぱいになります。
そしてお互いの顔が見えてお念仏の声をかけ合う
お念仏の家族の阿弥陀さまのお家です。
本堂と会館それぞれ役割が違うということですが
そのご院家さんが
「隠れ家ができましたね」と言われました。
あるお寺さんは
「アジトですね」と言われます。
学生運動が盛んだった頃に
アジトという言葉をよく聞きました。
辞書に秘密基地とありました。
そういえば子どもの頃
自分たちだけの秘密基地隠れ家をつくって
友だちと遊んでいました。
会館はまさに私のお気に入りの
お念仏の隠れ家です。
用途は色々ありますが
阿弥陀さまがご一緒の安心できる私の居場所です。
会館がご門徒皆さんのお念仏の隠れ家に
なってほしいと思います。
朝夕6時の鐘を撞くときに
会館の建設具合をほれぼれと見て
いよいよ夢が膨らみ毎日楽しみにしています。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.7.10)
今コロナの時代をお念仏申して生きる
2022-07-08
またコロナ感染者が急増しています。
東京では20日続けて前の週から増加して
昨日一昨日と8000人を超えて前週比2倍以上で
第七波とも言われ始めています。
減少グラフでこれで収束かなと思ったら
また増加に転じてと
何度もコロナの山を上ったり下ったりして
いつまで続くのかなと思います。
感染対策やワクチン接種などの効果で
感染者もずっと落ち着いて諸々の制限も緩やかになる中
夏休みを前にこの夏こそはと楽しみにしていたら
こういうことです。
もう2年半ほぼ3年間こうした状況が続いています。
いろんなイベント行事が一つ二つ三つと
復活再開されていますが
何か気持ちが一つ落ち着きませんね。
コロナの中をそして今は猛暑の中も
私たちはこの時代社会を生きています。
あんな時代がよかったといって
この時代を生きていかねばなりません。
このコロナの時代にいろんな行事は中止になりましたが
何もしなかったわけではなく
この時代を生きてきました。
コロナの時代を生きてきて思うのは
ホンモノとニセモノということです。
本当のことが残るといいますか
私の生きる依りどころといってもいい
人生の目標が何か見えてきたような気がします。
何のために生まれてきたのか
何のために生きているのかということです。
コロナに猛暑そして災害も多く発生する中に
何のために生きているのかと
聞かせていただく
お念仏のみ教えがあるということです。
お念仏に遇えてよかったです。
お念仏に聞かせていただきましょう。
お念仏を申して今日一日も生きて往こうと
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞かせていただきます。
私の生死の帰依処
生きる依りどころ死して帰るところです。
仏法に遇わせていただくために人の身に生まれ
南無阿弥陀仏とお念仏申す身にお育ていただき
人の命終わるままに阿弥陀さまのお浄土に生まれ
さとりの仏さまにさせていただくために
今コロナの時代をお念仏申して生きているのです。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.8)
お念仏に遇わせていただく
2022-07-07
今日7月7日は七夕です。
彦星さんと織姫さんが天の川を渡って
一年に一度会えるというお話です。
いつもでしたら7月に入って七夕飾りをつくり
本堂の前柱に立てかけて賑やかでしたが
ここ3年はコロナ禍で子ども会もお休みして
七夕飾りをしていません。
この「あう」ということについて
いろんな漢字がありそれぞれ意味があって興味深いですが
彦星と織姫のように恋人同士が「逢う」といいます。
今日も皆さんとこうしてあっていますが
時間と場所を決めてそれぞれが集うということで
「会う」とか「合う」といいます。
「遭」は災害に遭うときに使います。
親鸞さまは29歳の時に法然聖人にあわれて
「本願力にあひぬればむなしくすぐるひとぞなき」と
お念仏のみ教えにあわれたよろこびを
御和讃によまれていますが
このあうは「遇う」というお心で
たまたまばったり偶然にあうという意味です。
本願力は阿弥陀さまの「必ず救うまかせよ」の
南無阿弥陀仏の一方的なおはたらきですから
私がどうこうしてあうというのではなく
阿弥陀さまのおはたらきがこの私に
届けられたことをいうのでしょう。
本来仏法にあうことができない凡夫の身が
たまたま仏法にあい得たという
これほど価値のあることはないということで
親鸞さまは「値遇」と書かれています。
遇はたまたまあうということですが
値は寸分違わずピタッと「値う」と使います。
買い物に行くと物に値段がついています。
それだけの価値があるというそのままの値段です。
私があおうをしてあったお念仏のみ教えではなく
阿弥陀さまの方がこの私をそのまま引き受けたと
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきに
遇わせていただいたということです。
偶々のようで偶々ではない
私が人間に生まれるずっとずっと以前から
この私一人を救うための阿弥陀さまのおはたらきだったと
南無阿弥陀仏のみ教えに出遇われて往かれたのです。
今日も一日お念仏を申して
阿弥陀さまをはじめご先祖有縁の仏さま方に
遇わせていただき
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.7)