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お念仏を申す生活法話

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南無阿弥陀仏のいのちの水です

2022-06-06
 昨日は一日中大きな雨が降って
日曜日で外に出る計画があった方も
予定変更することが多かったと思います。

 今もまだ小雨が残っていますが
庭に咲いている紫陽花が何か生き生きして見えました。
 雨にあって命輝き
本当にきれいです。

 雨というと何か嫌な感じで受け止められますが
雨はしっとりと外の景色を変えて見せてくれます。

 人間の体は大部分水分でできているといいますが
のどの渇きを覚えるときに一口の水がのどを潤し
乾いた心までも生き返らせてくれます。
 
 命の水という言い方をします。
私たちのいのちの水は南無阿弥陀仏です。

 南無阿弥陀仏のいのちの水にあって
私の乾いた心を潤し頑なな心を和らげてくれます。

 欲の心怒りの心愚かな心が次々と湧き上がり
自己中心の頑なな心を持ち合わせた私たちですが
いつでもどこでも阿弥陀さまがご一緒してくださり
南無阿弥陀仏とおはたらきです。

 お念仏を一声称えて
今日の一日今週一週間を
また始めさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.6)


菩提心(2010年アーカイブ)

2022-06-05
玄関のお花たち(2022.6.5.9:30)
 昨日民主党の菅直人党首が
第94代内閣総理大臣に就任しました。

 最近の歴代首相と大きく違うのは
世襲の国会議員ではないということです。
 特に前任の4人(安倍福田麻生鳩山各氏)は
父や祖父が総理大臣経験者ということでした。

 親の七光といいますが
政治の世界では特に選挙で大きな力を発揮します。
 地盤・看板・かばんの3点セットがそろっていないと
中々選挙に勝てないといわれます。

 そんな日本特有の政治風土の中で
菅さんは一般家庭に生まれ育ち
市民運動から政治の世界へと
一つ一つ階段を上るようにやってきた方です。

 一寸先は闇といわれる政治の世界で生き抜いていく
したたかさを身につけていったからこその
今回の総理大臣就任だと思いますが
政治の世界を志す初心の大切さと信念の強さを思います。

 一つの目標に向かって
大きな志を持ち続けることの大事です。

 仏教は迷いの私がさとりの仏に成る教えで
成仏道の実践を説きます。
 仏さまの教えを信じ修行を積み重ねて
証果のさとりを得るという仏道です。

 仏のさとりを求めて菩提心を発起して
自分自身のさとりだけはでなく
生きとし生けるものすべての幸せの実現に向けて
仏道実践する方を菩薩といいます。

 法蔵菩薩はすべての衆生を救おうと本願を建てられ
仏道修行されて阿弥陀仏に成られ
南無阿弥陀仏の仏道を私たちに開いてくださいました。

 迷いの私をさとりの仏にしなければ私は仏にならないと
阿弥陀仏が一方的にこの私の救いを願われ
南無阿弥陀仏と成ってはたらいてくださっているのです。
 阿弥陀仏のお救いはこの私に何の条件も下されません。
本願他力のそのままのお救いです。
 
 私はお寺に生まれ育ちました。
皆さんはご門徒のお家にご縁があって
今こうして阿弥陀さまの御仏前にご一緒です。

 南無阿弥陀仏の大きなおはたらきをいただいて
お念仏申す身にお育ていただき
御仏前に座らせていただいています。

 さとりを求める菩提心の一つもない
仏さまに背中を向けているものをこそ
阿弥陀さまは救いの目あてにして
南無阿弥陀仏「まかせよ救う」と
お念仏の声で喚ばれ続けて
お浄土への道を共々に歩いていこうと
おはたらきなのです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2010.6.5)


南無阿弥陀仏の親心が聞こえてくる(2016年アーカイブ)

2022-06-04
裏戸の庭のお花たち(2022.6.4.10:00)
 北海道で行方不明になっていた小学2年生の男の子が
無事保護されたというニュースです。
 日本全国そして海外まで発信され
皆さんほっとしてよかったということです。

 山菜取りに行って行方不明になったという説明でしたが
実はしつけのために林道に置き去りにしたということで
いろんな意見が寄せられています。

 父親が昨日の会見で
子どものしつけのためにしたことが
行き過ぎだったと反省していました。
 
 親の言うことを聞かない子どもに
親がしつけのために家の外に出したり
押し入れに閉じ込めたりとか
今は幼児虐待や保護者遺棄罪に
問われるようなことですが
どこかに思い当たることがありませんか。

 親と子の関係で
親は子どものために良かれと思ってする行為が
子どもにとってはすごく怖いことで
いつまでもトラウマになることにもなりかねません。

 一番信頼している親から見捨てられるようなことですが
いなくなってずっと一番心配したのは親なんですね。

 我が子だからこそ厳しく育てる
親だからこそどこまでも愛情を注いでいくと
親の思いいっぱいでしょうが
親の身勝手な一方的なものになってしまっては
逆効果です。

 小学校2年生の子どもです。
もう不安いっぱいで心配だったと思います。

 新聞報道等でいうと
今回はいろんな偶然が重なって
雨風寒さををしのげる屋根のある建物があり水道もあって
大きな不安のなかにも7日間生きてこられたといいます。

 私たちの人と人との関係営みというのは
1+1が2という世界ではありません。
 こちらの思いが相手にそのまま伝わっているかというと
それぞれの思いは違っていて
一方的な思いの押し付けになったり
10が10伝わっているということではないのです。

 ただ10が10ではなくても
その思いをお互いに聞いていく気づいていく
思いやっていくということが
双方共に大切なことだと思います。

 仏法聴聞に重ねて思います。
常日頃から仏さまのみ教えを
聴聞させていただくことの大事です。

 聴聞は聴く聞くと書きますが
まずこちらから聴く聴いていくということで
聴いていくなかに
仏さまのお心が聞こえてくるというのです。

 南無阿弥陀仏のまさに親心です。
親心が聞こえてくるのです。

 聴いたら親心がわかるわかった
ということではありません。
 中々難しいことですが
だからこそご縁ご縁に聴聞を重ねましょうというのです。
お聴聞のご縁に身を置いて聞いておけよというのです。

 日頃からのお聴聞です。
いつでもどこでも阿弥陀さまは南無阿弥陀仏となって
この私にご一緒してくださる
仏さまに成ってくださったのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申すところに
そのまま南無阿弥陀仏が聞こえてきます。
 阿弥陀さまの親心です。
「いつも私が一緒だから大丈夫。
あなたはあなたの命を輝かせて一緒に生きて往こう」
と南無阿弥陀仏のおはたらきです。

 阿弥陀さまの大きなお慈悲の中に生かされて
南無阿弥陀仏の親心が
今こここの私に届けられて
ほっとします安心します。
 よかったです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2016.6.4)

「釈迦弥陀は慈悲の父母」

2022-06-03
わが家の家庭菜園(2022.6.3.11:00) ※昨日初めて収穫したジャガイモです
 今拝読の御和讃は『高僧和讃』で
第五祖中国の善導大師のご功績讃嘆していますが
今日は「釈迦弥陀は慈悲の父母」で始まりました。

「釈迦弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」
(釈尊と阿弥陀仏は慈悲深い父母である。
 巧みな手だてをさまざまに施し
 わたしたちにこの上ない真実の信心を
 おこさせてくださった)です。

 善導大師は親鸞聖人のお師匠さんの法然聖人に
大きな影響を与えた先師です。
 法然聖人は善導大師の生まれ変わりと言われるように
善導偏依と善導さまの著書に立脚し
専修念仏の仏道を明らかにされました。

 親鸞さまもまた善導さまの教えを
受け伝えられていますが
「二河白道の譬」はよくご法話お取り次ぎされるお話です。

 ある人が西に向かって独り無人の原野を進んで行くと
にわかに水火の二河に出会う。
 火の河は南にあり水の河は北にあって
河の幅はそれぞれ百歩ほどであるが
深くて底がなく南北に果てしなく続いている。
 二河の中間には一筋の白道があるが
幅4、5寸ほどで水と火とが常に押し寄せている。

 そこに群賊や悪獣がその人を殺そうと
後ろから迫ってくる。
 その人は、行くも帰るのとどまるも
どれ一つとして死を免れることができない。

 思い切って二河の間の白道を進んで行こうと思った時
東の岸から「この道を尋ねて行け」と勧める声があり
西の岸からは「ただちに来れ、われよくなんぢを護らん」
と呼ぶ声がする。

 東の岸の群賊たちは危険だから戻れと誘うが
その声を顧みることなく
一心に疑いなく進むと西の岸に到達し
諸難を離れ善友とまみえることができたというお話です。

 浄土仏教という仏道のイメージをよく伝えるもので
様々な煩悩が襲いかかるこの道を
仏のよび声を聞きながら命がけで進むのです。

 東からの「この道を往け」はお釈迦さまの発遣の声で
西からの「この道を来い」は阿弥陀さまの招喚の声です。

 「往けよ」「来いよ」のよび声に信じまかせて
この道を往くのです。
 往生浄土を往く念仏者の仏道です。

 原野に独り彷徨うある人こそ
この私であったというお味わいです。

 釈迦弥陀は慈悲の父母と
私たちはご本尊の阿弥陀如来さまを仰ぐなかに
お釈迦さまも仰いでいくのです。

 お念仏を申して
釈迦弥陀の「往けよ」「来いよ」の
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞いて
今日一日もお浄土への道すがらを
共々にさせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.3)


「本願力に乗ず」

2022-06-02
中庭のお花たち(2022.6.2.12:00)
 今日の御和讃の中に「如来の弘誓に乗ず」
「本願力に乗ず」と乗るという字が出てまいりました。

 車に乗る船に乗る電車に乗る飛行機に乗るといいます。
車船電車飛行機と交通手段は異なりますが
乗るということでそのまま目的地に
この身を運んでくれるということです。

 阿弥陀さまの本願力に乗ずとは
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のおはたらきに
おまかせするということです。

 船に乗るとは船にまかせることで
船に乗ってしまえば船の中で私がどうこう動き回っても
船の行く所に行くわけです。
 車も電車も飛行機もそうです。
乗ってしまえばもうおまかせです。

 阿弥陀さまのご本願のお心を聞いて
そのまままかせて乗るのです。
 少しでも疑い心があれば乗れません。
信心いただくとは
私に疑い心が無くなることをいい
聞くそのままがまかせるということなのです。

 私が信じる私が信じてと
私のところに力が入る限りは
疑っているということです。

 今日の第六首目の御和讃です。
「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」
(煩悩を身にそなえたものであると知らされて
 本願のはたらきにおまかせする身となったなら
 命を終える時
 煩悩にまみれたこの身を捨て去って
 浄土で変ることのない真実のさとりを
 開かせていただくのである)です。

 南無阿弥陀仏「まかせよ救う」のおはたらき一つで
煩悩具足の身がそのまま本願におまかせする身となって
お念仏申してこの迷いの人生を生き抜き
命終えてそのままお浄土に生まれさせていただくのです。

 南無阿弥陀仏のおはたらきがこの身について
煩悩具足のままにお念仏申す身にお育ていただくと
「本願力に乗ず」のお心を味わわせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.6.2)


円光寺
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