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お念仏を申す生活法話

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お寺参りはお浄土参り

2022-07-20
 昨夕フィギアスケートの羽生結弦選手が
今後競技会に出場しないでプロに転向するという
記者会見があって
今朝の新聞第一面のトップニュースです。

 ロシアのソチそして韓国の平昌オリンピックで
連続金メダルを獲得するなど
競技の実績と人気は周知の通りのスーパースターです。

 2011年の東日本大震災で
練習の拠点だった仙台のリングが被災し
復興への強い思いをスケート競技にかけてきました。

 中国の北京オリンピックでは4位に終ったものの
日本ばかりでなくロシア韓国中国そして全世界に
のびやかで華麗な演技と共に
羽生結弦の名を知らしめ熱烈なファンは今も多くいます。

 一人の人間によってたくさんの人が
勇気づけられるということです。
 まさにその人人のヒーローですが
皆さんもそうした人生のヒーローに出会い
元気をいただいてきたのではないでしょうか。

 世界的なヒーローではありませんが
私たち一人一人もお互いに
寄り添い支え合って生きてきたのではないでしょうか。

 どんな人も自分独りで生きているのではありません。
地位や名誉財産権力を兼ね備えた人も
自分の思いはからい一つで何もかもできていると思ったら
それは思い上がりであり
いろんな人やものの命に支えられ生かされて
生きているということが本当のことです。

 私たち一人一人の思いはからいを超えて
今日もこの御仏前にこの身を置かせていただいています。
 この身をはこんできたのは私たちですが
この御仏前に座ってみたら
ここに座らせてもらった
お念仏を申す身にさせていただいたということです。

 人人それぞれに人生があり
この命いつどんな形で終わるかわかりませんが
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに
共々に生かされて生きて往く処がある有難さです。

 阿弥陀さまが私のために用意をしてくれたお浄土です。
お寺参りはお浄土参りというお話です。
 お浄土参りの人生の中に
日々の生活がさせていただけるのです。

 どうぞ今日の一日もお念仏を申すなかに
共々に生かされて生きてまいりましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.18)


ひっくり返る!

2022-07-19
 朝から強い雨になりました。
先ほど全国のテレビ放送で
大分に線状降水帯がかかり
大雨警報が出されたようです。

 雨の中をようこそのお参りです。

 バケツの水をひっくり返したような大雨
という表現がありますが
お念仏のお救いのご法義は
ひっくり返るご法義です。

 浄土真宗は阿弥陀仏の本願を信じ
念仏申さば浄土に生まれて仏に成る仏教です。
 南無阿弥陀仏のおはたらき一つで救われる
本願力回向の他力のご法義です。

 「まかせよ救う」阿弥陀仏のおはたらきに
信じまかすところの救いですが
私たちは自分の思いはからいをもって
本願を信じるか疑うかと
仏さまのおはたらきを対象化して見てしまいます。

 子どもの頃お風呂で洗面器を逆さにして
上から抑えて湯の中に沈め大きな泡を出して遊びました。

 お風呂の湯を仏さまのおはたらき本願の海に譬えます。
洗面器は私で逆さの洗面器の空洞は私の心です。
 私の心に仏さまのはたらきが
一杯になるようにしたい(信じたい)と思って
逆さにした洗面器を真っ直ぐに湯の中に押し込みますが
いつまでたっても洗面器の中(私の心)は空っぽのままです。

 どうすれば洗面器の中に
温かい湯が入ることになるのでしょうか?

 上から押している手を離せば
湯の方から洗面器をひっくり返して洗面器の中になだれ込み
私の心は本願の湯でいっぱいにされるのです。

 阿弥陀仏のおはたらきは
そのまま私全体を包もうとするはたらきなのに
私の思いはからいで本願を対象化して見る限り
私そのものがひっくり返ることにならず
いつまでも私の思いはからいを
たよっていることにしかならないのです。
 それは本願を疑っていることに
他なりません。

 私が私がという自力の思いはからいを離せばいいのです。
これが難しい。
 どこまでも自分の力を当て頼りにするのが私なのです。

 阿弥陀仏の本願の他力のおはたらきが
私をひっくり返して
そのまま私の心に他力の湯が入るのです。

 阿弥陀仏の「必ずたすける」というおはたらきに
そのまままかせて
私が力を抜けばそのままひっくり返るのです。
本願のおはたらきがひっくり返すのです。

 ひっくり返される私が
そのまま阿弥陀仏のお慈悲の中なのです。

 自分の都合に合わせてこの目で見えるような救いを
宗教の救いだと思っていたら
実はこの目が問題なのです。

 欲の心怒りの心愚痴の心で見るこの目の見方です。
どこまでも自己中心のこの私のあり様を
阿弥陀さまはそのままご覧になって
私の苦悩の原因をここにありと見通され
阿弥陀さまの方で私が救われるすべての手だてを
南無阿弥陀仏とつくってくださり
「我にまかせよ必ず救う」とおはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏とお念仏を申すなかに
本願念仏のお救いのお心おはたらきを
聞かせていただきましょう。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.19)

※上述「洗面器の湯」の譬えは
 森田真円師著『ひらがな正信偈』(262~265頁)
 によるものです。


今日は海の日

2022-07-18
庫裡仏間のお花たち(2022.7.18.17:00)
 今日は海の日の祝日です。
親鸞聖人はお正信偈さまのなかに
「海」の字を何度も使われて
阿弥陀仏の本願大悲のお心の広さと深さを
一方で迷いの世界で苦悩する私たち凡夫のあり様を
海に譬えられています。

 親鸞さまのご生涯のなかで
海との出あいは
大変印象的なものだったと思われます。

 9歳から29歳まで厳しい仏道修行に明け暮れた20年間
比叡山から眼下に見下ろす大きな海は琵琶湖でした。
 35歳で国府新潟に遠流の刑で処せられた時見た海は
絶壁の岩石に打ち砕かれる荒れ狂う日本海でした。
 40歳を過ぎて関東に赴かれて見た海は
常陸の国茨城の大海原の太平洋でした。

 大らかな広い海ですが
四季折々にまた天候によって
その表情を目まぐるしく変えて行きます。

 御和讃に
「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
   弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」
(苦しみに満ちた迷いの海は
 どこまでも果てしなく続いている。
 その海に長い間沈んでいるわたしたちを
 阿弥陀仏の本願の船だけが
 必ず乗せて浄土に渡してくださる)とあります。

 深く辺りがない広い迷いの海に沈む私を
「まかせよ救う」の南無阿弥陀仏のお喚び声に乗じて
お念仏の船に乗せていただき
共々にお浄土への旅をさせていただく有難さを
親鸞さまのご事績に偲ばせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2022.7.18)


今こそ声をあげて行動です(2009年アーカイブ)

2022-07-17
 衆議院の解散総選挙の話題が
連日報道されていますが
宮崎県の東国原知事が
衆議院選挙出馬を断念したといいます。

 東国原さんは元タレントのそのまんま東さんです。
知事は県の行政公職のトップの立場にあり
知名度を生かして宮崎県を大いに盛り上げ
地方分権という問題提起を広くされてきました。
 そのことを今度は国会の場でという思いで
国政選挙出馬という更なる転身をはかったということです。

 私たちはそれぞれに個性がありいろんな立場
組織の中で役職をもって生きています。

 世界的に有名なデザイナー三宅一生さんが
自らの被爆体験をアメリカの新聞紙上に投稿しました。
 私も知りませんでしたが
幼い頃に広島で被爆されたといいます。

 何で今まで黙っていたのかというと
被爆者のデザイナーとして
見られたくなかったといわれます。

 はっとしました。

 一か月前に日本の全盲のピアニストが
アメリカの有名な国際コンクールで優勝したことが
大きな話題になりました。
 一般のコンクールですが
常に全盲のピアニストと紹介されるのですね。

 そういう見方をするのが私たちです。
あの人はあんなハンディキャップがあるのに
こんな大変なことができるのだという見方です。

 本人にとっては
全盲だからという見方で見てほしくないというのが
本意ではないでしょうか。

 そのまんま東さんといいますが
そのまんまありのままの自分を
見てほしいということでしょう。

 三宅一生さんは世界的なデザイナーで
日本以上に世界中で知られている方です。

 アメリカのオバマさんが大統領に就任して
この前チェコのプラハで核兵器を唯一使った核保有国として
核兵器の廃絶をめざしていく責任があると演説をされました。

 そのことに共感して三宅一生さんも
今こそ声をあげようと決心されたといいます。
 被爆体験を語って
ぜひオバマ大統領に広島の原爆記念式典に来てほしいと
働きかける手紙を送ったといいます。

 すごいことだなと思います。
自分の置かれている立場を活かして
三宅一生さんだからこその発信力です。

 有名人だからこそ周囲から色んな目で見られ
不本意な見方をされることもあるでしょう。
 発言すれば皆がみんな好意的に受け止められるのではなく
発言を控えがちになるのですが
そのことを敢えて言う言わなければならないことが
三宅さんにはちゃんとわかっていることだと思います。

 いい意味での影響力です。
自分を利するための行動発言ではなくて
私が今しなければならないことです。

 私たちにも皆それぞれに
そういうことってあるのではないでしょうか。

 ちょっと前を行く人生の先人として
子や孫の世代に送っていくべきことです。
 自分が今置かれた立場ということですが
おじいちゃんおばあちゃんの立場です
お父さんお母さんの務めです。
 そうした役割が私たち一人ひとりにあって
この人生を生きる意味があるのです。

 阿弥陀仏さまの願いです。
阿弥陀さまはそのまんまの私をそのまんまご覧になって
この私をこそそのまま救うとおはたらきの
南無阿弥陀仏の仏さまになってくださいました。

 「われにまかせよ。そのまま救う」というのです。
阿弥陀さまのお救いに一切条件はありません。

 南無阿弥陀仏のお心がそのまま聞こえたときに
私にできることを何か一つでもさせていただきたいと
生きる力をいただけるのが
阿弥陀さまの本願力という大きなおはたらきと
聞かせていただきます。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2009.7.17)


宗教は日々の生活を彩る豊かな文化です(2015年アーカイブ)

2022-07-16
 昨日は大分市のコンパルホールで
法話会のご縁をいただきました。

 この4月から毎月第3水曜日に法話会を開いていますが
今回で4回目になり大方出席する方も決まって
毎回十数人が月に一度のご縁に集まります。

 円光寺のご門徒さんばかりでなく
近くのお寺関係の有縁の方々も出席くださっています。

 ご夫婦でご参加の方は
毎回法話会が終わって一緒に食事をされるそうです。
 昨日も12時前に法話会が終わって食事に行き
その後県立美術館に行かれるというお話でした。

 日々の生活のなかで
月に一度大分の町中に出かけての法話会です。

 私たちは毎日同じような生活を
繰り返しているような感じってありませんか。

 まさに平凡な日暮しですが
お念仏という中心をいただいて
同じようなことの繰り返しのようで
何か日々新鮮なある意味緊張感のある生活を
させていただいているように思います。

 お念仏申す生活です

 宗教は日々の生活を彩る豊かな文化だと思います。
毎日が宗教文化生活です。

 私たちの宗教は浄土真宗の仏教です。
ご本尊の阿弥陀如来を中心とした生活
如来の本願を信じお念仏を申す生活です。

 お念仏を申して
自分に都合のよいことが起こるということではありません。
 お念仏申しても老いていくし病むときには病むし
そしてこの命いつか必ず終えていかねばなりません。

 ただ生まれて老いて病気になって死んでいくのでは
空しく終わる人生かも知れませんが
お念仏申す生活のなかに
宗教という中心料理でいったらスパイスをいただいて
味のある生活をさせていただけるのです。

 今日もこうして皆さんとご一緒に
お朝事のご縁に遇わせていただきました。
 いつものことのようですが
じっとしていてこのお朝事に
ご縁をいただくことはできません。
 皆さんの思いがあり
心がけがないとできないことです。

 ただ毎朝皆さんが円光寺にお参りし
共々に御仏前にご一緒させていただくと
私一人の力ではない
南無阿弥陀仏のおはたらきがあって
両手合わさってお念仏申すことができると
有難くいただけます。

 お念仏申す身にお育ていただいた
大きな力おはたらきを感じます。

 同じような生活を繰り返しているようで
日々生きてよかったあなたに遇えてよかったと
お念仏を申し感謝の日暮しさせていただく有難さです。

ご一緒に、お念仏申しましょう。(2015.7.16)
円光寺
〒870-0108
大分県大分市三佐3丁目15番18号
TEL.097-527-6916
FAX.097-527-6949
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