念仏一つで救われる
2024-10-05
「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と
法然さまの仰せに信順し
「念仏一つで救われる」
お念仏のみ教えに帰依された親鸞さまです。
「われにまかせよそのまま救う」
南無阿弥陀仏のおはたらきに信じまかせて
生きて往きましょうとの仰せです。
いつでもどこでもどんな時でも
「一人じゃないよ 私がいるよ 大丈夫だよ」と
阿弥陀さまがご一緒してくださる安心です。
阿弥陀さまの大きなお慈悲のなかに
摂取不捨のおはたらきです。
自分の思い通りにいった良いことも
思い通りにならない悪いことも
それぞれにたくさんありますが
そのすべてがお念仏申すご縁といただいて
「お念仏申されるように生きましょう」と
法然さまの仰せをいただき
親鸞さまが歩まれた往生浄土のお念仏の道を
今日もまたご一緒させていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.5)
これぞ便利な優れもの
2024-10-04
東京方面の旅に出て
電車やバスの交通機関を何度も利用しました。
まさに網の目のように交通網が整備され
次々と乗り換えしては目的地にとどけてくれます。
今回初めてICカードのお世話になりましたが
これが何とも便利な優れもので
大変重宝して助かりました。
これまでは駅の改札口で目的地と料金表に目をやって
切符を購入していましたが
ICカード一枚で「ピー」とやるだけで
改札口をスーッと通り抜けできるのです。
無駄な時間をかけずに済む「タイパ」であり
料金が若干安くなる設定で「コスパ」です。
今は買い物もあらゆる情報もすべてスマホ一つで
何でもできるということですが
実際に体験してみて
びっくりするやら感心することしきりでした。
こんなに便利な世の中に生きていると
実感したことですが
それはそれとして
何か大事なことを置き去りにして
素通りして生きているのではないかと思います。
人為的な仕組みと仕掛けに動かされている
一つの機械の一部のような感じもします。
お念仏一つで救われる
阿弥陀さまのご本願のご法義に重ねて思います。
お念仏申して改札口がパーッと
開くわけではありません。
お浄土から「必ず救うまかせよ」と
開いてくださっている往生浄土の道を
お念仏申してどんな人も条件なしに
歩ませていただけるのです。
私に開かれたお念仏の道は
阿弥陀さまがご先祖有縁の仏さま方と共々に
いつでもどこでもご一緒してくださる
大きな安心の道なのです。
カード一つも持つことは要りません。
お念仏申すこの身このままでよいのです。
仏法聴聞のご縁に遇わせていただき
本願を信じお念仏申す身にお育ていただきましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.4)
富士山の雄姿
2024-10-03
連れ合いと二人で
富士山観光の旅に出かけました。
山梨県側の河口湖畔に宿をとり
有名観光地を巡って富士山五合目に行きました。
「頭を雲の上に出し」の歌詞にあるように
五合目からの眺望は雲がかかって
下界は見えませんでした。
富士山登山は今季はすでに終了ということですが
どこの観光地と同じように
多くの観光客で大変賑わっていました。
写真や絵画でこれまで見てきた富士山です。
すそ野が広がる富士山の雄大な姿を目の前にして
思ったことです。
富士山は静岡県側から見ても
どこから見てもその雄姿は変わらないといいます。
雲がかかったり夜になってその全景が見えなくても
いつでもそこに富士山はあるのです。
すそ野が広がる富士山に
阿弥陀さまのお慈悲を重ねて思います。
阿弥陀さまのご本願のお心お念仏のおはたらきは
どこまでも広がって
誰一人取り残さないお救いのご法義です。
すべてのいのちをそのまま救う
南無阿弥陀仏の大きなお慈悲に抱かれて
お念仏申して今日一日も
心豊かに生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.3)
「人間は危うい」※転載
2024-10-02
「悪の自覚こそが人を育てる」。
ある先生から教えていただきました。
親鸞聖人は
ご自身を「悪人」であるとおっしゃいます。
それは、ご自身が自己中心的な欲望に執われ
怒りや腹立ち、そねみ、妬みの心が多く
それらが命終わるまで絶えることのない存在である
と自覚しておられたからです。
また、そのような欲望に満ちた人間は
条件さえ整えばいつ何をしでかすかわからない
危うい存在であるともおっしゃられています。
そして、この悪人とは
他でもない私自身の、ありのままの姿でした。
私は日々、何が正しいかさまざまなことを判断し
選択して生活しています。
ただ、私は自己中心的な眼でしか
物事を判断することができません。
そのために私は、迷い苦しみ
そこから自分で抜け出すことができずにいます。
でも、だからこそ阿弥陀さまは
この危うい私を放っておけないと
常にはたらいてくださっています。
この阿弥陀さまのはたらきによって
安心が恵まれると同時に
「私は危うい存在である」ことに気づかされ
日々の生活の中で
お育ていただいているように思います。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(本願寺派総合研究所 林龍樹研究員)より転載
ー本願寺新報2024年10月1日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.2)
「難問なんです」※転載
2024-10-01
老若男女を問わず、よく質問されるのが
「お釈迦さまと、阿弥陀さまは、どう違うのですか」
ということです。
思えば住職として半世紀近く
自分なりの返答を、その都度してきましたが
どう言えばいいのか
今もって悩んでいる難問なのです。
皆さん、お釈迦さまのことは
よく分かるとおっしゃるのですが
それはお釈迦さまが人間だからです。
二千五百年ほど前に、インドにおられた
私たちと同じように人として生まれ
寿命尽きて滅し、遺骸は火葬された
歴史的に「実在」された方でした。
悟りを開かれた仏さまであっても
人間であったという共通項があるので
理解が簡単なのですが
阿弥陀さまはそうはいきません。
お釈迦さまが
「こんなに素晴らしい仏さまがいらっしゃるよ」と
私たちに教え示してくださったのが
阿弥陀さまです。
だから、阿弥陀さまは
人間として実在した仏さまではありません。
でも、肝心なことはここからで
歴史的に実在した存在ではないからといって
「架空」だとか「作り話」だとかいう
話でもありません。
人間には人間のことしか分かりません。
人として生きられたお釈迦さまは理解出来ても
仏さまの部分は分かりません。
人間を超えているからです。
仏さまのことは、仏さましか分からないので
お釈迦さまが光もいのちも限りない
阿弥陀さまの存在を教えてくださったのです。
さあ、このことをどう伝えていくのか
私の課題は続きます。
※菅純和著「仏事の小箱」
『御堂さん』2024年10月号より
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2024.10.1)