また高齢者の事故です
東京で87歳の男性が運転する車が暴走して二人の親子が亡くなりました。
本人はアクセルが戻らなかったと言っていますが
周囲の方の話を聞くと足が悪く杖をつくほどだったとか、本人はもう運転しないと言っていたといいます。
高齢者の運転事故でアクセルとブレーキを踏み違えることが原因にあげられます。
運転操作が若い時のように思うようにできなくなってくると言われます。
交通事故を起こそうと思って車を運転する人はいません。
私のこの身を思います。
自分のことは自分が一番よく知っている大丈夫というところがどこかにあります。
そうした自信がないと生きることもおぼつかないですよね。
実はそこに危うさがあるのではないでしょうか。
何を根拠に大丈夫というのか、大丈夫じゃない私が生きているのです。
歎異抄の御文に「さるべき業縁のもよほさばいかなるふるまひもすべし」と親鸞聖人のお言葉があります。
この身はしかるべき縁があればどのような行いもするものであるというのです。
善いことをしようと思って善いことができる悪いことを止めようと思ったら止められると
自分の思いで善悪をコントロールできると思ったら間違いだというのです。
条件がそろえばどんな恐ろしいこともしでかすか分からないのが私なのだというのです。
他の人はわからないが私は大丈夫というところに落とし穴があるのです。
そういう私のことを阿弥陀さまという仏さまは悲しまれたというのです。
歎異というお心です。歎異とは異議、異なったものの考え方を歎くということです。
批判したり非難することではないのです。そんな私を駄目だと決めつけ排除することでもありません。
阿弥陀さまはありのままの私をご覧になり見て取って大いに悲しまれたのです。
大悲といい同悲といいます。私と同じところに立って自分のことのように悲しまれたといいます。
悲しまれるなかにお前をこそ必ず救うという本願を建てられ成就され
南無阿弥陀仏となって「必ず救うまかせよ」とおはたらきくださってあるという教えなのです。
阿弥陀さまの大悲のお心本願のお心南無阿弥陀仏のお心を私のこととして聞かせていただきましょう。
何をしでかすかわからないと聞いてじっと家の中に閉じこもって何もするなと言っているのではありません。
私にできることをさせていただきましょう。
この歳になって運転はもう無理だと思ったら免許証を返納することも私にできることではないでしょうか。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.21)
