雨の中の桜
2025-03-27
天気予報の通り
朝から雨です。
境内の満開の桜も散り始めました。
今日一日中雨の予報です。
いよいよ明後日29日30日と
住職継職法要のおつとめです。
23年ぶりに多くのお坊さんお稚児さん出仕の
慶讃法要で
お天気が気になるところですが
これも仏さまのご縁といただきます。
雨の日も風の日もある私たちの日常です。
どんな状況にあろうとも
阿弥陀さまのお慈悲の中
「まかせよ救う」南無阿弥陀仏の
おはたらきに生かされて
あなたも私も皆共に生きていると
如来の本願念仏のお救いの法に聞かせていただきます。
雨の中の桜木の風情もまたいいものです。
雨と共にボツンと散った桜花が
大地をピンク色に染めます。
「花びらは散っても花は散らない」
花のいのちはつながって
また花を咲かせてくださいます。
人の命はいつか必ず終えますが
お念仏のいのちとなって
これからもずっとつながっていくのですね。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.27)

お念仏で始まる一日
2025-03-26
気が進まないことがある
憂鬱な一日の始まりです。
先送りしたいが先送りできない自分事
思えば思うほど心が重たくなる取り越し苦労ですが
「ああ嫌だな」って目が覚めて
今日の一日が始まります。
これまで何度もこんな日があったように思います。
結局自分事と受け入れ背中を押されるように生きてきて
良くも悪くも多くの経験を重ねて
今の私があります。
阿弥陀さまの本願念仏のお救いのご法義は
南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつでもどこでも誰でも
阿弥陀さまがご一緒してくださっていると
聞かせていただきます。
今こここの私に寄り添いご一緒くださって
「どんなことがあっても私はあなたと共にある」と
摂取不捨のおはたらきです。
お念仏申して
今日の一日を始めさせていただきます。
お念仏の声となって阿弥陀さまは
「行ってらっしゃい」と私を送り出してくださり
「行ってきます」と阿弥陀さまにお礼を申して
今日一日を始める私ですが
阿弥陀さまはそのまま南無阿弥陀仏のおはたらきで
いつも付いて離れず今こここの私にご一緒なのです。
「私が一緒だから大丈夫安心してまかせなさい」と
南無阿弥陀仏のお喚び声を聞かせていただき
どんなことがあろうとも
大安心のお慈悲の中にいかされて
今日の一日を始めさせていたきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.26)

お花見今昔
2025-03-25
お寺の境内のしだれ桜が先週末に開花
ここ数日の夏日の陽気で一気に見事に満開です。
全国各地から桜の開花宣言が次々に届いて
いよいよお花見の時節到来で楽しみです。
お花見といえば満開の桜の木の下で
大勢の人が大きな輪をつくって
飲んで食べて歌ってということが定番でしたが
コロナ禍以降ちょっと様子が違ってきている
といわれます。
家族や気の合った少人数の仲間同士で
桜の風情をゆっくり楽しみながら
一緒に過ごすお花見が多くなったといいます。
以前はお花見のこの時期
日中に桜の名所に行くと一帯がビニールシートで
張り巡らされていたことを思い出します。
会社の若手社員が当たり前のように
場所取りをしていましたが
今はそんな光景も減って
代行サービスの業者に頼むところもあるそうです。
パワハラ対策の一環のようで
若手社員にとって会社の飲み会ほど
苦痛なものはないなどの声もあります。
元々皆で一緒に楽しむようなことが
今はそれぞれ価値観が違うというか
好き嫌いがはっきりしていて
嫌いな人に強制することは
パワハラにつながるということなのでしょう。
地域やお寺の行事についても
皆ですることだからお役が回ってきた時は
当然するのが当たり前の時代から
「何でどうして!」という声が
聞こえてくる時代になりました。
行事の趣旨をよく理解してもらい
協力いただくことが大切です。
お寺の行事はご門徒皆さんの
ご奉仕に依るところです。
布施行といって
「代償を求めず遍く施す布施の心で
私にできることをできるときに
させていただきましょう」とお話します。
何でもお金に換算する時代です。
先の花見の場所取りも代行業者に
かなりの代金を払っていました。
果たしてそこまでする必要があるのか
ということですが
思いを一つにさせていただく
お念仏のお同行の有難さを思います。
同じ志をもって仏法聴聞し
お念仏申す身にお育ていただき
日々往生浄土の道往きをご一緒させていただく
私たちです。
生活ぶりはそれぞれ違っても
お一人お一人ができることさせていただく
そこに私たちの念仏文化があるように思います。
日々お念仏申されるように
これからも阿弥陀さまのお慈悲の中に
あなたも私も皆共に生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.25)

「正しいことも 思いやりがないと 伝わらない」※転載
2025-03-24
ことばは生きています。
ところが普段、私たちはほとんどそのように
考えてはいません。
ことばの意味を考えて終わりです。
「ことばには匂いとひびきがある」と
いわれる先人もおられます。
相手に対して思いやりのこころから
発したことばにはひびきがあります。
いくら正しいことばでも
そこに相手を思いやるこころがなければ
その人には伝わっていきません。
「あの時、あのように言われたことが
大きな力になって今日の私がある」
ということもよく聞きます。
やはり、ことばには生命が宿されている気がします。
だから、困っている人がいたら
見て見ぬふりをするのではなく
優しくことばをかける。
その人に善いことがあったら
共によろこびをことばで表す。
そんな態度を忘れずにいたいものです。
仏さまのお姿をよく見ると
眼を半分閉じておられるように見えます。
「半眼」と申します。
これは智慧のこころですべての人を見渡し
すべての人を慈しみ救おうとされる
仏さまの慈悲のこころが表されているのです。
その仏さまの智慧と慈悲が
この私にひびくことばとなったもの
それが「南無阿弥陀仏」です。
※『本願寺インスタ倶楽部』
(太田利生 本願寺派総合研究所所長)より転載
ー本願寺新報2025年3月20日号ー
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.24)

放送100年
2025-03-23
今年は大きな歴史の節目の年になります。
昭和100年、戦後80年、阪神淡路大震災50年等々です。
昨日3月22日は放送100年ということでした。
1925年にラジオ放送が始まったということで
テレビ放送は戦後1953年に始まりました。
私はテレビと共に育った<テレビっ子>ですが
ラジオでよく野球中継を聞いていました。
地元のテレビ局で放送がなくて
ラジオで実況を耳を澄ませて聞いたものです。
先日は注目のドジャース対カブスの
東京ドームでの大リーグ開幕戦でしたが
テレビ放送がなく久しぶりにラジオに耳を傾けました。
テレビは画像を通して現場の状況を
そのまま見ることができますが
ラジオは実況の声をたよりにその場の状況を
自分なりに想像して聞くことで
実際にわからないことも沢山あります。
阿弥陀仏の本願念仏のお救いです。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで
いつでもどこでも誰でも分け隔てなく救うといって
その実態をこの目で見て認識することはできません。
親鸞さまは『大無量寿経』を真実の教と示して
阿弥陀さまのご本願のお心を聴聞しなさいと
お勧めです。
こちらから聴くということですが
南無阿弥陀仏の音声を聴いて救われるのではなく
南無阿弥陀仏の意味を聴いて覚えて
救われるのでもありません。
南無阿弥陀仏のお心おはたらきを
そのままわが身に引き受け心に受け入れることですが
私の自己中心の思いはからいが邪魔をします。
私たちはこの目で見て認識したものは信じますが
この目で見えない認識できないものには
疑いの心が起こるというものです。
お念仏の先人は「聞いておけよ」と言われ
「疑い心がなくなるまでご縁ご縁に聞きなさい」と
重ねてお聴聞を勧めます。
聴かせていただくなかに
阿弥陀さまのお慈悲のお心が聞こえてくるといいます。
阿弥陀さまの「まかせよ救う」
南無阿弥陀仏のおはたらきは
いつでもどこでも誰にでも
お念仏の声となってお浄土から届けられているのです。
そのお念仏のおよび声が
今こここの私に聞こえてくるとき
阿弥陀さまのお慈悲の中に救われていると
実感できる安心です。
南無阿弥陀仏とお念仏申して
阿弥陀さまのお心おはたらきに安心して
あなたも私も自他皆共に生かされて
今日一日も生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2025.3.23)
