私の思いはからいを超えて南無阿弥陀仏がおはたらきです
昨日大海組の連続研修会がありました。
「お念仏」のテーマで、あなたはどんな時にどのような心持ちでお念仏を称えていますかという問いで
話し合い法座がありました。
日常生活の中でのいろんなお話が出るなかで
ある方が「私は子どもが高校受験の時にどうか合格してほしいと思ってお念仏を称えました。
それが悪いんでしょうか。皆さんはそういう気持ちになったことがありませんか」と言われました。
浄土真宗でいうお念仏は祈願請求のお念仏ではない呪文のようなお念仏ではないと日頃ご法話で聞かれているんですね。
浄土真宗のお坊さんはそう話されます。
お念仏だったら何でもいいよというのではありません。お念仏のいわれを聞きましょうと言われます。
皆さんはどう思われますか、どのようにお答えになりますか。
本音が出たなと思います。
何か皆さんお寺に参ると優等生になります。お坊さんも優等生、ご門徒皆さんも優等生です。
立派な浄土真宗のお坊さんでありご門徒さんです。
何かお寺にお参りしてご法話を聞いてナンマンダブツとお念仏申してというなかで
いつも同じお話とスーッと右から左に仏さまのお話を聞き流しているところがありませんか。
そうした日々の生活のなかでの疑問です。
大事なことです。阿弥陀さまのお救いは日々の生活のなかで戸惑いさ迷う私を目当てのお救いです。
ここです。御仏前に身を置いて聞かせていただきましょう。
どういう気持ちでお念仏を称えるのか、それぞれだと思います。
それが祈願請求のお念仏であっても出てくださるお念仏は阿弥陀さまの真実まことのお喚び声です。
「宝くじが当たってほしいナンマンダブツ」とお念仏申す人もいるかもしれません。
ただナンマンダブツが声にでたということはナンマンダブツがそのまま聞こえてくるということです。
周りの人にもナンマンダブツが聞こえます。
その人の思いが聞こえるのではなくてナンマンダブツが聞こえてくるのです。
どんな気持ちでないと善いとか悪いとかではないのです。
大事なことは南無阿弥陀仏のみ名を称え南無阿弥陀仏のみ名を聞かせていただくということです。
その人の口から南無阿弥陀仏がでたということはこれまでに南無阿弥陀仏を聞いているからです。
南無阿弥陀仏は私の生きる依りどころと聞かせていただきます。
どんな私でしょうか。
自分の思いはからいでああでもないこうでもないと生きている私です。
その私を目当てに思いを致しかかりっきりで寄り添い救うてくださる南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。
そのこともこれまでどこかで聞いているのです。
ご縁ご縁にこれからも聞かせていただきましょう。
ご一緒に聞かせていただきましょう。こういう気持ちでお念仏を称えなさい称えなければいけないのではないのです。
お坊さんもご門徒皆さんもご一緒に南無阿弥陀仏と聞かせていただきましょう。
南無阿弥陀仏のおはたらきは僧侶とか門徒とかご縁のない方とか男とか女とか老人とか若者とか子どもとか
そうした一切のはからいをすべて取り去って「必ず救うまかせよ」とおはたらきくださる私たちの救いの法なのです。
ナンマンダブツと声に出してお念仏申しましょう。
善い悪いという私の思いはからいを超えて南無阿弥陀仏といつでもどこでも私のところに来てくださりご一緒してくださる
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のお救いのなかに今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.14)
