老いを受け入れる
仏教で生老病死の四苦といいます。
生きるということは老いること、生きるということは病むこと、生きるということは死ぬことといわれて
わが身の事実と受け入れることは本当に難しいことです。
一つとして私の思い通りにならないことで、そこに私たち人間の根本的な苦悩があるとお釈迦さまは教えてくださいます。
齢を重ねて私たちが日々当面する苦は老苦でしょう。
気持ちは若くあっても身体は正直で至るところに老化現象があらわれてきます。
昨日までできていたことができなくなる現実にたじろぎ不安をおぼえます。
「齢をとったなあの時はよかったな」と若い時分と比べて齢はとるものではないと
今までできていたことができなくなったと今の自分を嘆き老いを拒む見方があります。
ついついそういうことを思いまた言葉にも出ます。
一方で「齢をとってこれでいい。あまり頑張りすぎると若い人の出る幕がなくなる」と老いを受け入れ
普段のことができないくなるのも齢のせいと受け止めていくのが、老苦を超えていく極意というんでしょうね。
ただ極意という以上中々できないことではありません。
やっぱり頑張るんですね。私が私がどこまでも頑張るんですね。
その頑張りは善い悪いということではありませんが
頑張れば頑張るほど昔の自分と比べたり周りの者と比べたりとして苦しみ悩みが一層深まるというのです。
我が身心を苦しめ悩ます煩悩の一つに慢の心があります。
慢心です。一番身近な慢心は我慢自慢ということです。
我慢することは何か善いことのように思われています。
私が我慢しているからこの家はうまくいっているとか思っているところがどこかにありませんか。
ところがその我慢にも限界があるのです。
縁に触れれば堪忍袋の緒が切れたと爆発し周りを責め立てることにもなります。
しんどいですね。
仏法に遇って齢をとって善いこともたくさんあると聞かせていただきます。
老いるなかに今まで若い時分に見えなかったことが見えてくる、気づかなかったことに気づかされる
聞こえなかったことが聞こえてくるといただけるのが、仏さまのご縁なのです。
ナンマンダブツとお念仏申すこと一つ、若い時には中々できなかったことが今できています。
齢を重ねて仏さまのご縁をいただいてこの口からお念仏が出てくださる身にさせていただけたということを
喜ばせていただくなかに今日一日もお念仏申して生かされて生きてまいりましょう。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.1.5)
