「余生」※転載
2023-11-28
人生にあまりなんてあるものでしょうか。
言葉尻をとらえるようですが
余生とはいただけません。
この世に生まれた意味は立身出世にある
という考え方があるように思われます。
いまでも小仲学校で歌われている
『仰げば尊し』の歌詞のなかに
「身を立て名をあげ」とありますが
立身出世とはこれのことですね。
一所懸命に努力し、財産を築き
豊かな暮らしを目標にするような生き方が
「出世」であり「名をあげる」ことでしょう。
お金の力と地位の力
これらはいわゆる権力でしょう。
残念ながら世の中は
だいたいこのふたつの力で
動いているといってよいでしょう。
ところが、いずれはこのような「権力」も
手放さなければならないときがやってくる。
それが退職や引退です。
また、金の力も体力の衰えとともに
その効力は減っていかざるをえないのでは
ないでしょうか。
権力といえども
老いと死の前には無力なのです。
お釈迦さまは若いときにこの権力のむなしさを知って
ご自身からそれをお捨てになりました。
お経ではこれを
「国と財(たから)と位(くらい)を棄てた」といいます。
私たちはその反対に
これらこそが生き甲斐だとしてしがみついています。
しかし、老いとともに
それらは剝ぎ取られてゆくのでしょう。
剝ぎ取られてしまえば
もはやそれとともに
生き甲斐もなくなってしまうわけで
そのあとの人生は
まさに余生となってしまうのでしょう。
それは付録の人生
あってもなくても、どうでもいいような人生
ではないでしょうか。
お金や地位を目指すことを生き甲斐と思い込み
そのためにたった一度きりのいのちを賭けてきた結果が
自分の老後を余生とつぶやくことだとすれば
なんとも情けないことです。
(以上、圓日成道著『老いて出会うありがたさ』より)
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2023.11.28)
