「自分勝手な ものの見方が 真実を 見えなくしている」
2021-09-02
毎日MYさんがめくってくださる歎異抄のことばです。
仏さまにお仏飯をお供えし外陣の香炉にお線香を焚きます。
日頃は歎異抄のことばの前をすっと通り抜けるのですが
今日は目にすっと入ってきて有難いなあと思いました。
「自分勝手な ものの見方が 真実を 見えなくしている」
昨日1日のことばです。
歎異抄からいただいた言葉を著者が現代のことばで
味わったものです。
原文は「まったく自見の覚悟をもって
他力の宗旨を乱ることなかれ」という
歎異抄の序文のお言葉です。
<「私の自分勝手な思い(自見の覚悟)で
阿弥陀さまのおはたらき(他力の教え)を
判断してはならない」
それは、私の思いの中に阿弥陀さまを閉じ込めてしまう
ことになるからである。阿弥陀さま(他力の教え)が
私の自分勝手なものの考え方の枠組みを破り
真実の教えに導いてくださるのである>
と解説されています。
お聖教という仏さまのお言葉についてのことですが
私たちの日々の生活のあり様にも通じることばです。
私たちの生活ぶりはそれぞれ異なり
共に同じ社会をそれぞれ違う立ち位置で生きています。
それぞれものの見方考え方も異なりますが
自分中心の思いで生きているのが
私たちのありのままの生活です。
自分の思いといって自分の都合にかなったものの見方で
自分勝手なものの考え方に通じます。
この人生が自分の思い通りに行けば
それはそれでいいのでしょうが
自分一人で生きている社会ではありませんから
それぞれ不都合なことも多くあります。
自分の思い都合にかなったものは善くて
都合にかなわないものは悪いという見方で
私たちそれぞれが生きると
人と人との関係で互いに付いたり離れたりを繰り返し
今は近くて仲の良い者もある時には遠ざけて
背中合わせになり対立して喧嘩になったりします。
まさに愛憎の中に苦悩し迷う
私たちのすがたです。
これまでの人生の経験からうまく人間関係を保って
生活していくのが人間の知恵です。
自分の思い通りに行かない時はじっと我慢も大事ですが
周囲の意見に合わせるように自分の思いを曲げることも
中々できないところです。
自らを反省するところもたくさんありますが
素直に「ごめんなさい」と謝れない私がいます。
今日2日のことばは
「一つの言葉との 出遇いが 私の人生を
支えてくれることもある」です。
「故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ
いささかこれを注す」(歎異抄序文)
<ありがたいことに、親鸞聖人の弟子の唯円が書いたと
言われている『歎異抄』の中に、親鸞聖人の言葉が
書き残されている。
その言葉が、私の人生を支えてくれる。
真実の言葉に耳を傾けよう>と。
ちょっと乱暴な言い方になりますが
自分勝手なものの見方で生きる私たちお互いが
言うことすること思うことって全てが
仏さまからいうと虚仮不実というのです。
そうした自分中心の思いで生きて苦悩している私たちに
仏さまは真実の言葉を示され真実の世界に導かれるのです。
真実の言葉に遇うことの有難さです。
ほっとします。
自分の立ち位置を気づかせてくださり
安心します。
お念仏申すご縁を仏さまからいただいているという
有難さです。
ただ我が身は変わりません。
どこまでも自分中心の欲の心怒りの心愚かな心を
兼ね備えた煩悩具足の凡夫の身です。
この凡夫の身を阿弥陀さまのご尊前に座らせていただき
そのままお念仏を申す身にさせていただく
南無阿弥陀仏のお心おはたらきをいっぱいいただきます。
ご一緒に、お念仏申しましょう。(2021.9.2)
