浄土真宗本願寺派(お西) 浄華山 円光寺(大分県大分市)

 

お念仏申す生活法話

 
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私の思いはからいを超えて南無阿弥陀仏がおはたらきです
 昨日大海組の連続研修会がありました。
「お念仏」のテーマで、あなたはどんな時にどのような心持ちでお念仏を称えていますかという問いで
話し合い法座がありました。
 
 日常生活の中でのいろんなお話が出るなかで
ある方が「私は子どもが高校受験の時にどうか合格してほしいと思ってお念仏を称えました。
それが悪いんでしょうか。皆さんはそういう気持ちになったことがありませんか」と言われました。
 
 浄土真宗でいうお念仏は祈願請求のお念仏ではない呪文のようなお念仏ではないと日頃ご法話で聞かれているんですね。
浄土真宗のお坊さんはそう話されます。
お念仏だったら何でもいいよというのではありません。お念仏のいわれを聞きましょうと言われます。
 
 皆さんはどう思われますか、どのようにお答えになりますか。
本音が出たなと思います。
 何か皆さんお寺に参ると優等生になります。お坊さんも優等生、ご門徒皆さんも優等生です。
立派な浄土真宗のお坊さんでありご門徒さんです。
 何かお寺にお参りしてご法話を聞いてナンマンダブツとお念仏申してというなかで
いつも同じお話とスーッと右から左に仏さまのお話を聞き流しているところがありませんか。
 
 そうした日々の生活のなかでの疑問です。
大事なことです。阿弥陀さまのお救いは日々の生活のなかで戸惑いさ迷う私を目当てのお救いです。
ここです。御仏前に身を置いて聞かせていただきましょう。
 
 どういう気持ちでお念仏を称えるのか、それぞれだと思います。
それが祈願請求のお念仏であっても出てくださるお念仏は阿弥陀さまの真実まことのお喚び声です。
 「宝くじが当たってほしいナンマンダブツ」とお念仏申す人もいるかもしれません。
ただナンマンダブツが声にでたということはナンマンダブツがそのまま聞こえてくるということです。
周りの人にもナンマンダブツが聞こえます。
 その人の思いが聞こえるのではなくてナンマンダブツが聞こえてくるのです。
どんな気持ちでないと善いとか悪いとかではないのです。
大事なことは南無阿弥陀仏のみ名を称え南無阿弥陀仏のみ名を聞かせていただくということです。
 その人の口から南無阿弥陀仏がでたということはこれまでに南無阿弥陀仏を聞いているからです。
 
 南無阿弥陀仏は私の生きる依りどころと聞かせていただきます。
どんな私でしょうか。
 自分の思いはからいでああでもないこうでもないと生きている私です。
その私を目当てに思いを致しかかりっきりで寄り添い救うてくださる南無阿弥陀仏のおはたらきなのです。
 
 そのこともこれまでどこかで聞いているのです。
ご縁ご縁にこれからも聞かせていただきましょう。
 ご一緒に聞かせていただきましょう。こういう気持ちでお念仏を称えなさい称えなければいけないのではないのです。
お坊さんもご門徒皆さんもご一緒に南無阿弥陀仏と聞かせていただきましょう。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきは僧侶とか門徒とかご縁のない方とか男とか女とか老人とか若者とか子どもとか
そうした一切のはからいをすべて取り去って「必ず救うまかせよ」とおはたらきくださる私たちの救いの法なのです。
 
 ナンマンダブツと声に出してお念仏申しましょう。
善い悪いという私の思いはからいを超えて南無阿弥陀仏といつでもどこでも私のところに来てくださりご一緒してくださる
阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のお救いのなかに今日一日も生かされて生きてまいりましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.14)
 
お札の顔が変わります
 お金の紙幣(日本銀行券)の顔が5年後に変わるということです。
一万円札の顔は今は福沢諭吉ですが40年ぶりに渋沢栄一になるといいます。
 日本の資本主義の父と言われる方で今の日本経済の基礎をつくられました。
 
 福沢諭吉は大分県中津市の出身で一万円札の新しい顔になった時
中津で一万円札せんべいが売り出されて話題になりました。
 慶応大学の創立者で「学問のススメ」を書き西洋の学問を積極的に取り入れ
日本の教育文化界に大きな足跡を残されました。
 
 その前の一万円札の顔は聖徳太子でした。
1958年の発行ということで戦後生まれの私たちも知っています。
一万円といえば聖徳太子、聖徳太子といえば一万円でした。
 日本の紙幣は明治以降につくられたもので戦前までは紙幣の顔は古代の偉人が多かったのですが
戦後の紙幣といえば古いところで板垣退助、大隈重信、伊藤博文といった明治の賢人の顔を思い出します。
 
 そうしたなかで歴史的にはかなり古い時代の聖徳太子がすっかり紙幣の顔になっていました。
今思えば何で聖徳太子なのかということですが
日本の国全体に聖徳太子を受け入れるような素地があったように思います。
 
 聖徳太子は仏教に縁が深く、浄土真宗のお寺のお内陣には聖徳太子さまの絵象をご安置しています。
そのお顔は一万円札のお顔とは別人のように違いますが
何でお寺に聖徳太子さまなのかというと
親鸞聖人は聖徳太子さまを和国の教主日本のお釈迦さまとずっとお慕いしていらっしゃったということです。
 
 仏教を崇め日本の国に仏教を取り入れ広く弘めてくださったお方なのです。
摂政という政治の中心にあって日本で初めての憲法「十七条の憲法」を制定され世の中を治めました。
 
 十七条の憲法には「篤く三宝を敬え」と仏法僧の三宝に帰依することを勧め
有名な「和をもって貴しとなす」という言葉があります。
 十七条の憲法は仏教の精神仏さまのお心に貫かれたものなのです。
 
 和の国日本です。今度の新元号「令和」にも和の字が入っていますし「昭和」の和でもあります。
和とは仏さまのお心、我他彼此善悪浄穢といった私たちのはからいを超えた仏さまの大きなお慈悲のお心です。
 どこまでも私が私がと自分を中心に生きる私たちです。
自他共に心豊かに生きることから程遠い生活ぶりですが
だからこそ仏法を依りどころにして仏法に聞いて生きてまいりましょうというのが
聖徳太子さまのお心お釈迦さまのお心だといただきます。
 
 聖徳太子の一万円は当時の庶民の財布には本当に縁遠いものでした。
だからこその尊い有難いご縁なんだと重ねて仏さまの教えを聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.13)
 
阿弥陀さまは言葉になった仏さまです
 失言を繰り返してきた大臣が辞任されました。
今の政権の一翼を担う有力大臣、この方も失言癖が多いのですが
この方が失言を指摘されるたびに決まって「ある部分だけ切り取るのではなく、前後の文章をよく読んでください」と
逆に質問した記者に全体の文章をよく読んだら真意がわかるはずだと反論します。
 
 政治家は言葉が命といいます。
言葉でもって自らの政治ビジョンを語りより多くの人に伝え賛同を得ていくということで
その発言にはとても大きな意味と責任があります。
 たとえある部分だけ切り取られたとしてもその発言は嘘かといったら本当です。
ただ自分の思いが伝わらないというもどかしさは確かにあると思います。
 
 宗教も言葉が命です。
キリスト教は聖書、イスラム教はコーランそして仏教は経典と
言葉によって教えは説かれ伝えられてきたのです。
 
 なかでも私たちの仏教浄土真宗は言葉になってくださった阿弥陀さまの教えです。
その言葉が南無阿弥陀仏なのです。
 
 今日の御文章さまのなかにも「南無阿弥陀仏の六つの字のいわれをよく聞き開きぬれば」とありました。
南無阿弥陀仏の六字に込められた阿弥陀さまのお心おはたらきを聞くことが肝要だというのです。
 聞其名号、其の名号を聞きて信心歓喜すといいます。
信心喜ぶ身にさせていただくということです。
 
 「必ず救うまかせよ」の南無阿弥陀仏のお心をそのまま聞けよとの仰せですが、これが中々難しい。
聞くなかに次から次と私のはからい疑い心が入ってきます。
 だからこそ聞かせていただく、お聴聞一つだよとお念仏の先人が私たちに勧めてくださるのです。
 
 ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申すその声は阿弥陀さまのお喚び声だと聞かせていただくのです。
阿弥陀さまはもう既に私の声となって私のところに来てくださって「必ず救うまかせよ」と今ここにおはたらきなのです。
 阿弥陀さまは言葉になった仏さまです。
南無阿弥陀仏となっていつでもどこでも私と共に生きてくださる仏さまです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.12)
 
最期に「ありがとうございました」とお礼を申して見送りたいです
 著名人が亡くなると、葬儀は近親者で行う行ったということが多くなりました。
それぞれ事情があることだと思いますが、何か寂しい気がします。
 
 昨日も一世を風靡した有名な芸能人が亡くなったという報道で
テレビのキャスターが「大変お世話になったからお礼が言いたいけれども今は殆ど密葬だからね」とポツリ言われました。
 密葬です。密かに葬儀を済ませる、今でいう家族葬という葬儀のあり方です。
家族身内だけで最期のお見送りをするということですが
これまでの人生を自分一人で家族だけで生きてきたわけではないと思います。
 そこには隣近所の方、学校の同級生、職場の同僚など数多くの人とのつながりのなかで生きてこられたと思うのです。
 
 死をとりわけ特別なものにしてしまっているようなところがないでしょうか。
生が日常なら死も日常です。生きているから死ぬのです。
私たちが生きているということはいつか必ず命を終えていかなければならないということです。
 
 この命終えていく時に「お世話になりました。有難うございました。ご苦労さまでした」と
送る方も送られる方もお互いに声をかけ合うことができるのが葬儀のご縁です。
 
 お通夜の席でお通夜というのは夜伽(よとぎ)というご縁ですというお話をします。
夜伽とは夜を通してお話をするということです。
 先に逝かれた方はもうすでに体は硬く冷たく声をかけても懐かしい声が返ってくるわけではありませんが
姿形はそのままです。姿形そのまんまの大切なお方と最後の夜を過ごすのです。
これまでの人生を振り返りいろんなお話をしてお礼をします。
 
 そして明けて翌日は葬送です。送るんです。
送るところ送られるところがお互いにわかっているから送れるのです。
 阿弥陀さまが私たちを必ず救うと決めて用意をしてくださっているお浄土です。
 
 葬儀のご縁に阿弥陀さまのお浄土があることを聞かせていただくのです。
先に往く人もお浄土ならば後に残る人も同じお浄土に生まれて一処でまた再会できると聞かせていただきます。
 何時だって聞くことができることのようですが、生きることに忙しく精いっぱいの私たちに
先に往かれた方が命がけのお説法で聞かせていただけるのです。
 
 家族だけでなく多くの有縁の方々に仏さまのみ教えをお伝えする大きなご縁をつくってくださる仏さまです。
葬儀のご縁は仏さまのご縁です。そのままいただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.11)
 
「花びらは散っても 花は散らない」今年の桜も見納めです
 昨夜からの大きな雨で今年の桜もいよいよ見納めということです。
お寺の境内の桜はすっかり葉桜になりました。
 
 満開の桜もみんな散っていきます。そのまま大地に散って土にかえっていきます。
散って帰っていくところがあるということです。
 
 桜の花に寄せて先人は
「散る桜 残る桜も 散る桜」「花びらは散っても 花は散らない」など
この世の無常を思いはかない命を重ねて思う歌をたくさん遺してくれています。
 
 今年の花びらは去年これまでの花びらとは違います。
来年はまた違う花びらをつけて私たちを楽しませてくれるでしょう。
 それぞれの花びらそれぞれの命を精いっぱい生きて散っていくのです。
 
 私たちの命もそうです。
生まれた以上はいつかは必ずこの命を終えていかねばなりません。
 散っていくのです。
 
 そこのところだけ見たら悲しい本当に虚しいということですが
そんな私を見て取って私たちが散って行くところをちゃんと用意をしてくださってあるのです。
 阿弥陀さまのお浄土です。
南無阿弥陀仏のおはたらき一つで阿弥陀さまのお浄土に確かに確かに生まれ往くのです。
死ぬのではなく生まれ往くのです。
 花のいのちに生まれて往くのです。
 
 「花びらは散っても 花は散らない」の後に「形は滅びても  人は死なぬ」と続きます。(金子大栄師)
花のいのちはこれからもずっと続いていくのです。これまでも続いてきたのです。
 
 南無阿弥陀仏のいのちとなってこれからもずっとずっと生きて往くのです。
南無阿弥陀仏の大きないのちのつながりのなかに私たちはこのたびは人間の命を生きています。
私という一片の花びらの命です。
 
 この人間に生まれてきたのは仏さまのみ教えを聞くためだよと説かれます。
仏法を聞くためにこの人間に生まれてきたというのです。
 
 阿弥陀さまの本願念仏のみ教えに遇わせていただきお念仏を申すなかに
私たちはこの命を輝かせて生きていけるのです。
 いつどんなかたちでこの命終えるかわかりませんが
南無阿弥陀仏の大きなおはたらきのなかにあって
これからもずっとずっと生かされて生きて往くいのちと有難く聞かせていただきます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.10)
 
お念仏申して歳をとってまいりましょう
 焼酎やウイスキーなどのお酒は熟成ものが美味しいと重宝されます。
果物でも熟す頃をみて収穫しますし、肉も少しねかせて熟成するとまた格別な味が楽しめるといわれます。
 熟すと美味しいということですが、ただ時間をかけたらいいものでもありません。
熟し過ぎると腐ってしまいます。
 
 私たちも歳を重ねていけばいくほど熟成して円熟味が出てくるといいですね。
ただこれが中々うまくいかないのです。
 人間歳をとったら丸くなるのではなく何か逆に角がどんどんとがってくる感じさえあります。
 
 人から見たらいいおじいちゃんいいおばあちゃんという見方もあるかもしれませんが
我が身我が心を仏法に聞かせていただく、仏さまの鏡に写させていただくととんでもない私がいるということです。
 阿弥陀さまはこうした私を知らせたうえで決して見捨てることがない見放すことがない仏さまになってくださったのです。いつでもどこでもどんな状況にあっても「あなたと共にいるよ」といつも私に寄り添いご一緒してくださるのです。
 
 放っておけないという親心です。
放っておいたら何をしでかすかわからない私がいるということです。
 どんなに世間から人から鬼のようなという見方をされても
「私は決してあなた一人を見捨てることなく護っていく」とおはたらきくださってあるのです。
 
 私が私がと自ら円熟しようと思ったらそれはかないません。私の思いあがりです。
円熟しようと思えば思うほど欲の心が膨らみどこかに棘がでてきます、角がたちます。
 
 南無阿弥陀仏のおはたらきにまかせなさいと阿弥陀さまはお喚びかけです。
阿弥陀さまの御仏前に身を置きましょう。
 ただ日々の生活のなかでいつも御仏前に居るわけにはいきません。
だからこそ南無阿弥陀仏と阿弥陀さまが付いてきてくれるのです。
 
 今日の日々の生活です。
ナンマンダブツナンマンダブツとお念仏申すなかに日暮しをさせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.9)
 
僧衣をつけて選挙に行きます
 昨日は花まつりの会が賑々しくできました。
たくさんの方にお参りいただき2回目のコンサートもできました。
ご門徒皆さんが思いを寄せてご一緒に仏さまのご縁に遇わせていただけることを本当に頼もしく有難く思います。
 
 春四月の日曜日です。
昨日は各地でいろんな行事が催され天気にも恵まれてお花見を楽しまれる方も多かったようです。
花まつりの後片付けをして私もお花見に出かけましたが、その前に選挙に行きました。
 
 いつもの選挙でしたら日曜日のご法事などお参りの前に選挙に行きます。僧衣での投票です。
選挙はこの国この県この市に生きる私たちの民意の最大の行使の場でありとても大事な事柄です。
 選挙ですから選ぶのです。
身近な選挙になれば日頃の人間関係が特に影響しますが、決して誰でもいいということではありません。
そこで選ぶ基準を改めて確認することにもなります。国政に対する視点であり自ら生きる立ち位置です。
 敢えて僧衣をつけて選挙に行くのは私の生きる原点を見直すということでもあります。
 
 選挙は私たちの民意を議員さんに託すというこれほど大事なことはないといっても過言ではありません。
今朝の新聞一面の大見出しに「投票率50%を割る」とありました。大分市は44%といいます。
二人のうち一人は投票に行っていないということです。
若い人がとすぐ言いますが、いい年輩の方も選挙に行かない方が多いのではないでしょうか。
 選挙に行かない人の大方の意見は「誰がなっても変わらないから」ということです。
そうでしょうか。逆に誰がなってもいいのでしょうか。
 
 お花見に行った平和公園はすごい人盛りでした。
町の繁華街を歩いているような感じでしたし、バーベキューをしたりして大勢の方がお花見を楽しんでいました。
この中の何人が選挙に行ったのか行かなかったのか、そんなことをちょっと思いました。
 
 仏教は縁起の教えといいます。ご縁つながりです。
私たちはあらゆるもののいのちのつながりのなかに生かされ生きているという根本の教えです。
 この世の中で関係ないものは一つもないという教えです。
今までに会ったこともない人もどの国の人ともみんなつながっているというのです。
善くも悪くもお互いに関係し合って生きている私たちお互いなのです。
みんないのちつながって私たちのこの社会がある、私の日々の生活があるということです。
 
 誰がなっても変わらない同じではありません。
私にできることといったら選挙に行くことです。
 選挙もまた仏さまのご縁です。あらためて仏さまのみ教えに聞かせていただきます。
仏さまのお心にかなうような生き方ができているのか自らを振り返りつつ
僧衣をつけて選挙に行きます。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.8)
 
玉が入って鈴が鳴る〜源左さんのことばから〜
 一昨日昨日に続いて因幡の源左さんの言葉を紹介します。
「鈴でも 玉が入りゃ鳴るけっど 入ってらんと鳴らんけんのう」
これは源左さんが息子のお嫁さんに言われた言葉と伝えられています。
 
 私たちが申すお念仏です。
お念仏申しなさいと言われて申すお念仏ではありません。
お念仏申したら善いことがあるとばかりに何かご利益を求めて申すお念仏でもありません。
 
 南無阿弥陀仏の真実まことのお心を聞かせていただき
ご信心をいただいてこの口からお念仏が出てくださるのです。
 
 鈴です。玉が入っていなかったら鈴は鳴りません。
玉が入っているからこそ鈴は鳴るのです。
 ご信心をいただいているからこそお念仏が出てくださるのです。
私が私がと私の都合で申す念仏ではなく阿弥陀さまのおはたらきが確かに確かに私に届いてくださってあるということです。
 
 風鈴です。風鈴は風が吹いて鳴ります。
この風こそが阿弥陀さまのおはたらきです。
風は私のこの目には見えませんが確かに確かに吹いてはたらいて鈴を鳴らすのです。
ただそこに玉が入って風鈴が鳴ります。
 
 激しく吹く大きな風のときは大きなお念仏となるのでしょうか。
そよそよと吹く風のときにはナンマンダブツとこぼれるようなお念仏になるのでしょうか。
 激しい風が吹くときとはどういう状況の私なのでしょうか。
大きく心が揺り動かされ怒り腹立つ私のことを決して見放すことなく
南無阿弥陀仏とはたらいてしっかり支えてくださるのです。
 
 ご信心をいただくことの一大事を源左さんは知らせてご信心をお勧めです。
玉が入って鈴が鳴るとの肝要をわが身に引き当てて聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.7)
 
「おらが死んだら親さまたのめ」〜源左さんのお話〜
 昨日のお話で妙好人・源左さんのことばを紹介しました。
源左さんは本名足利喜三郎、出雲の国今の鳥取県の方で、江戸時代末期から昭和初期にかけて89歳のご生涯でした。
 
 18歳の時にお父さんが急逝します。臨終の時に「おらが死んだら親さまたのめ」と言われたそうです。
死ぬということ、親さま、たのむとはどういうことかと、源左さんの求道聞法が始まります。
取り次ぎ寺(所属寺)の願正寺にご縁ご縁に何度もお参りしお聴聞を重ね、ご院家さんに膝詰めで聞いたそうです。
 
 親さまとは阿弥陀さまのことで、阿弥陀さまの念仏一つの救いの法にまかせよと聞いて
源左さんはすーっといただけなかったといいます。
 
 そして29歳の夏の朝のこと、いつものようにデン(牛)を連れて草刈りに行きます。
草を刈り束にしてデンに背負わせて家に戻るのですが
一束二束とデンに背負わせ次に草束を担がせようとした時に「ふっとわからせてもろうた」といいます。
 
 この草束は源左さんの業、私たち一人一人がもっている
誰にも代わってもらうことができない自ら生涯背負っていかなければならないものです。
煩悩の心であり私たちの苦しみ悩み迷いの本です。
 この草束をそのまま背負うデンに阿弥陀さまの必ず救うてくださるおはたらきを知らせていただいたのです。
私の苦しみ悩みをそのまま背負うてくださる阿弥陀さまです。
 その草をデンが食べて生きるように、この私を救うことが阿弥陀さまのお仕事おはたらきといただかれたのです。
 
 ふっとわからせてもろうたといいます。
私たちは私が私がと自分のところに力を入れて生きています。
人に頼み事はしない自分のことは自分でやると自分でしっかり生きていくことが立派な生き方とばかりに生きています。
 
 その志は本当に尊いことです。
ただね、どんなに頑張っても頑張っても頑張れないことってあるんですね。
生死の苦悩です。人生は苦なりと、自分の思い通りにはならないのです。
 
 苦しみ悩み迷いの中にある私を阿弥陀さまはもうすでにご承知でこの私をそのまま背負ってくださっている
おはたらきが南無阿弥陀仏なのです。
 
 阿弥陀さまの大きな大きなお慈悲のおはたらきを源左さんは口ぐせのように
「ようこそようこそ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」とお念仏申しよろこんで89歳のご生涯を生き抜かれたのです。
 
 そのお念仏が子や孫に隣の有縁の方に伝わって、こうして私のところに届けられているのです。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.6)
 
ニセモノとホンモノ
 振り込め詐欺の事件が後を絶ちません。次から次と新手の詐欺がでてきます。
誰しも詐欺に引っかかりたくないですよね。
 詐欺に遭うとはニセモノをつかまされるということです。
では詐欺に遭わない対処法はというと常日頃からホンモノに親しんでおくということでしょう。
 
 浄土真宗は真実まことの宗教といいます。
歎異抄に「煩悩具足の凡夫 火宅無常の世界は よろづのこと みなもつてそらごとたわごと まことあることなきに
ただ念仏のみぞまことにておはします」という御文があります。
 「ただ念仏のみぞまこと」です。
念仏だけがホンモノだということは、他の世間の事柄はみんなニセモノということになります。
実はこの私もニセモノと聞かせていただきます。
 
 ニセモノなんて言われたくないし、私はホンモノのこの私を生きていると思っているのではないでしょうか。
仏さまはこの私を煩悩具足の凡夫と教えてくださいます。
これも素直に「はいそうです」とは頷けません。
 
 お念仏をよろこばれた妙好人の因幡(現鳥取県)の足利源左同行のことばに
「偽(にせ)になったらもうええだ。なかなか偽になれんでのう」とあります。
ある時「このわしゃ偽同行で、寺に参れば阿弥陀さんの前へ出て、念仏喜ばせてもらうけんど
家に帰ってくると忘れてしもうて全くわしゃ偽同行だいなあ」というある人のことばに対してだそうです。
 
 偽も偽、これほどのニセモノはないのに、何かホンモノ面して自分はホンモノで
他の周りの言うことを聞かないものは全てニセモノとはからい決めつけて生きている驕り高ぶる愚かな私を
阿弥陀さまがニセモノと知らせてくださるのです。
 
 「偽になったらもうええだ」とニセモノと知らせてくださるところに
真実まことの南無阿弥陀仏の仏さまがいらっしゃるのです。
 仏さまに遇わせていただいてニセモノの私が知らされそのまんま必ず救われていくこの身を喜ばれたということです。
 
 常日頃からホンモノに親しんでおくことが肝要です。
真実まことのお念仏のみ教えを聞かせていただきましょう。
 
 ご一緒に、お念仏申しましょう。(2019.4.5)
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